十二歳 貴婦人の乗馬

『ブルグミュラー二十五の練習曲』のフィナーレを飾る曲は、かつて『の乗馬』という題名が定番だった。現代では『乗馬ごっこ』や『お姫様の乗馬』という別名表記も見られる。出版社のセンスにる定番の変更を惜しむ声は数多あまた。私の所持する版は『の乗馬』だ。

 

 十二歳のミヨシくんは「貴婦人」という単語をどう解釈するだろうか。

「貴い婦人と書いて貴婦人。想像できるかい?」

「うん。お上品な、おとなの女の人でしょう。そんな人が乗馬するんだ。ちょっと危なっかしいね。僕のお母さんが馬に乗ったら……そんな想像で弾いているよ」

 ミヨシくんはミヨシくんなりの貴婦人像を描いていた。そのイメージが優美な音につながっている。


 分離音スタッカートつまづきそうなひづめ音階レガートいやされる休憩の時間とき

 動き続ける音の中に、歯切れ良さと滑らかさが同居する。

 もう私が教えることは無い。この子は自由に音を感じて遊んでいる。


 私たちは楽譜棚の前、桃色の絨毯じゅうたんの上に、じかすわり込んで話していた。

「ブルグミュラーも、ひととおり弾いたね。此処ここからは特に、私が何かを言うまでもない。ミヨシくんの好きな曲を、好きなだけ弾くといいよ」

「じゃあ、この曲。僕の指では無理かな」

 と彼が選ぶ小品については、次の章で。


「ねぇ、僕、花電車をおぼえたよ」

「それは感心だ。綺麗に、できたね」

 私は孫の折り紙を褒めた。人生、暇つぶしだ。孫は小学校を卒業して、中学校に入学する年齢に成った。しかし、この小さく弱いつぼみを、日本の義務教育学校に委ねてしまうなど、花片はなびらく如くだ。あの教育学校には、最先端の時代の情報を網羅して自慢気な同級生や、サラリーマン感覚の教員や、自己中心的なモンスターペアレントが、のさばっている。リアルな日本の教育事情を何故、私が知り得るのか。テレビを持たず、パソコンのニュースも熱心に追わない私が。


 語るのは、もっぱらピアノ教室に通う、おとなピアノの生徒様である。

「私の息子が陰湿な虐めに遭いましてね、高校はフリースクールを選びましたの。おかげさまで、学級という概念の無い場所で、自由に羽をひろげ始めました。虐められた理由? 何やら目立ってしまったようですわ。絵のコンテストに入賞しましたの。出るくいは打たれるって、何処どこの世界も同じですわね」


 虐めの舞台は、徒歩数分の義務教育学校だ。

 住まいから一歩ずつ遠ざかるほどに、素行不良の乗り回す暴走のエンジン音と、美しくない日本語ばかりが耳に入る。

 純粋に咲く、やさしい花には、相応ふさわしくない舞台だ。けれども、本人の意思は尊重せねばなるまい。


「イワノ先生を疑うわけではないけれども、今のミヨシくんは元気そうだ。もういちど、学校に行ってみたいだろうか?」

 私は固唾かたずを呑む。そして、ミヨシくんの答えに安心してしまう。

「……もういいよ。学校は僕をに当てて、熱を上げて、倒れさせる場所だって分かるんだ。そうしたら、また十歳のときみたいに、入院するのかもしれない。僕、此処ここに居たいんだ。誰にも会いたくない。おじいちゃんと一緒が、いい」


 おじいちゃん以外、誰も要らない。


 一瞬、孫のが、娘の双眸ひとみにオーヴァーラップした。黒目だけが最後まで侵されなかった。黒糖蜜をかけたような、添加物の混ざらない輝く結晶質の瞳だ。その結晶が冷たい目蓋まぶたの奥に閉じめられてしまわないよう、切に祈る。


 私も、ミヨシくん以外、誰も要らないのかもしれない。

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