十六歳 レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ

「アン、ドゥー、トゥロワ、キャートル、サンク……」

 ミヨシくんは食後の処方薬を数えていた。小さいほうから順に、音符の模様のキッチンタオルの上に並べている。飲み易い順番だ。


 ミヨシくんは十六歳に成った。だが『白百合の病』ゆえ、外見は十歳のままだ。

 その細く頼りない咽喉のどは、こどもの形状カタチ。一度に多くのカプセルや錠剤を呑み込めない。


「今夜は、デミグラスソースがけオムライスだよ」

 筋向いのレストランのバリエーション豊かなテイクアウト・メニューに助けられている。十歳の胃の大きさしかないミヨシくんと、生活習慣病予備軍の私は、一人前を丁度ちょうど、半等分する。はんぶんこ。二分の一人前。そんな、お互いにとって適量なはずの食事を、ミヨシくんは時々、残すように、なった。

「……もう食べないのかい?」

「うん。薬を入れる場所を空けておくんだ」

 食後に水と薬を呑むことを念頭に、胃の空き容量を数えるミヨシくん。少しずつ食事を残す日が増える。

 孫の残りものは私の胃に収まり、私の体重は少しずつ増加してしまう。

 これ以上、軽くならなくてもいい孫の体重は、おそらく減少している。


 ミヨシくんは徐々に、スローな曲調を好み始める。少ないエネルギー消費で、身体に負担を掛けずに弾くことのできる曲を、無意識に選択えらんでいただろうか。


 十六歳のミヨシくんが、最も時間をかけて大切に弾いていた曲は、

 ショパンの『夜想曲ノクターン・嬰ハ短調遺作』で、

 ミヨシくんは『レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ』

 と云う表現記号で呼んでいた。


『ピアノ協奏曲コンチェルト・第二番』のための練習用エチュードとして、姉のルドヴィカに書かれた曲だ。二十歳のショパンが記す音は感傷的なのに、安易なセンチメンタリズムに終わらせない才能の片鱗が見える。


 微細な顫音トリル。流れ落ちる音階スケール

 フレージングは、譚詩曲バラードを歌うように。

 ミヨシくんの譜面に挟まれていた何らかの紙片が、ひらりと落ちた。

 拾い上げて見ると紙片は二枚、重なっていた。


 一枚目の紙片の文字を読み取る。

『すべての音にかさをかぶった洋燈ランプの灯りをイメージしよう。

 暗闇の中の疑問符であり、

 あくまでも静かな叫び声であり、

 一枚の絹織物のように音を続けること。

 だけど、掌をすり抜けていく想いのように儚くて、

 天に雪が舞い上がるように美しくて、

 胸の内を空虚な風が吹き過ぎていくように切ない。

 硝子の肺の小康状態のように、

 レガートに、痛い音にならないように』

 これはおぼえ書きだ。演奏上の注意点。


 二枚目の紙片は、ところどころがかすれて読み取れない。

『僕が……した涙のしずくは水紅色ときいろに沁み、

 愛の息吹をもたらすでしょうか。

 その愛は永遠に続くでしょうか。

 ……愛、おじいちゃんの優しさ。

 生きとし生けるものの終わりで、

 僕たちは、ひとつになれるのかしら』

 これは詩だ。ミヨシくんは何を想いつづったのだろう。


「おじいちゃん、今日はロイヤルミルクティーにしてみたよ」

 自動販売機への散歩から戻ったミヨシくんが微笑み、種明かしをする。

「愛がかえる場所は、ふたり過ごしたカンパニュラのとき夜想曲ノクターンに英語の詩が付いて、歌われる映像を観たよ。良い曲だった」


 その曲は私も知っている。

 日本のアーティストによる譚詩曲バラード『カンパニュラの恋』だ。

 ミヨシくんは、随分と感傷的な曲を聴いていたらしい。


「僕が還る場所は此処ここだよ。階上うえも好きだけど、おじいちゃんの居るレッスン室が、とても好き。そんな気持ちを書いたんだ」


 紙片がミヨシくんの涙を吸って文字にかさを着せる。

 桃色の絨毯じゅうたんがミヨシくんの涙のしずくを拾って、愛を永続させる。


「僕を愛してくれて、ありがとう」


 ミヨシくんの咽喉のど行交ゆきかう言葉は一篇ひとつの詩で、

 消えてゆく前の束の間の呼吸のようで、

 切なく、はかなく、美しかった。

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