十七歳 夜想曲ホ短調遺作

何処どこも痛くないって幸せだね、おじいちゃん」

 十四歳で始まった左膝の腫れは変形への予兆かと思われたが、イワノ医師の的確な投薬指導の成果が現われ、十七歳のミヨシくんは幾分、復調した。少しばかり動きのある曲を選び、チェルニー四十番練習曲の第二十六番『右手の不規則な連符の練習』を重点的に弾くことで、ポリリズムを会得した。


 ポリリズムは、ショパンを弾く上で重要な技法だ。右手と左手が異なるリズムで進行して、数学で割り切れない音符を鍵盤上で割り切る。まった瞬間とき『うた』が聴こえるのだ。それは必ずしも『愁いを知らぬ鳥のうた』では、なかった。


 十七歳のミヨシくんは、ショパンの夜想曲ノクターンから、もうひとつの遺作を選んで弾いている。ホ短調遺作七十二の一番。この曲は愁いの塊だ。


 図らずも十七歳のショパンが書いた曲。ショパンの愁いとは、自身のわかい身体におおい被さり始めた結核と云う病のかげ。妹のエミリア・ショパンは、十四歳で生命を閉じた。結核だった。


 妹と同じ病の兆候を自身に見出した十七歳のショパン。

 母と同じ病の兆候を見て、静かに耐えるミヨシくん。

 両者が奇妙に符合する。


「ねぇ、おじいちゃん。僕は今、何処どこも痛くないけれど、これは心が痛い曲だね。ホ短調の夜想曲ノクターン。どうして、こんなに痛い音なんだろう。血飛沫ちしぶきが飛ぶようだ」


 孫は印象的に歌われる冒頭の旋律を、血飛沫ちしぶきと表現した。肺結核のショパンの愁いを云い当てるような表現。


 私は不相変あいかわらず、ミヨシくんの演奏に指導をすることが無かった。その必要性を感じなかった。限られた余命、定まらない未来時間を遊ぶためのピアノに、スパルタなレッスンなど似合わないではないか。それに、私が教え込まずとも伸ばせる才能を、ミヨシくんは持っている。透明に優れた勘とでも云おうか。生まれながらに持つ音への鋭い感性が、ある。しかし、曲の解説ぐらいは、しておこうと思う。


「この夜想曲ノクチュルヌはね、ショパンが十七歳……今のミヨシくんと同いどしのころに書き上げたとされている。結核で妹を亡くしたショパンは、自身も同じ病におびえて過ごした。未熟な時代の試作品。そんな位置付けで重要視されない向きがある。実際にショパンは譜面を仕舞い込んで、なかったことにしようとしていたのだからね。死後に発見されて、今日こんにち、私たちのもとに届いていることを、恥ずかしがっているかもしれない。ショパンには、シャイな嫩者わかものと云う印象が付きまとう」


 ミヨシくんはピアノ椅子に掛けていた。私はグランドピアノの表面を、やわらかな布で磨きながら話す。

「こんなに良い曲なのに、恥ずかしいなんて変なの」

「良い曲と感じるかい? 痛い血が飛ぶ曲だろう?」

「良い曲だよ。痛みを音で表現すると、こんな曲が完成するんだね。おじいちゃんの話を聞いて思ったよ」

 ミヨシくんは私の話を消化して、早速さっそくに昇華した。


 痛い痛い音の飛沫ひまつが散る。

 痛みをなだめるような天使のこえが聴こえる。


「……どうだった?」

 普段、演奏の出来不出来を私に問うことなどしない孫が、コメントを求めてきた。私は思うまま感想を述べる。

「ホ短調が痛みを、ロ長調がやすらぎを表現していた。この曲の持つ二面性を上手く弾き分けたね。お見事だ」

「ありがとう。今の演奏はね、僕の膝が砕けそうになったときの痛みと、それを痛みごと包み込んでくれる、おじいちゃんの愛をイメージした」


 ミヨシくんの中で私は、ロ長調のやすらぎであるらしい。

 ずっと、そんな存在で居られればとねがう。


 住居に戻った私たちは、夕食後、交替で湯浴みをする。白い寝衣姿ねまきすがたで黒いウィッグを手入れしたミヨシくんは、白銀色ぎんいろの、やわらかい髪におおわれた小さい頭を、疲れたように羽根枕まくらに沈める。白鳥が水面に揺蕩たゆたうように、ふんわりと。


 不図、この子は白鳥のようだと思う。水面を波立たせることなく人生を静かに生きているようで、水面下では、もがいている。その、じたばたとした足掻あがきを決して見せないだけで、本当は。


 何処どこまで辛さを抱え込み、苦しめば、いいのだろうか。

 今宵こよいも私は愛の水で作った枕を差し入れては、限界を感じる。

 私が、してやれることなど、知れている。

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