月曜日のレッスン
月曜日の夕刻、新規入会のササオカさんに、出会った。
教室のベルが鳴る。私は扉を開く。
私とミヨシくんが愛した、オフィーリア。
ササオカさん、あなたは、健康ですか。
そんな言葉を飲み込んで、迎える。
「四年間のブランクがあって、上手く弾けないのですが」
そんな自己申告とは裏腹の、洗練された独奏を、ササオカさんは響かせた。
彼女は数曲、続けて弾いた。ミヨシくんは折り紙と煙草の箱を片手に、彼女の音を聴いている。
別れのワルツ、仔犬のワルツ、華麗なるワルツ第二番。
「ありがとうございます。ブランクを感じさせない、素晴らしい音でした。
すべて、ショパンのワルツですね。ショパンが、お好きですか?」
「はい」
「過去に、基礎練習に選ばれた教材は?」
「バイエルに、ブルグミュラー25番に、チェルニー30番です」
「古典音楽を弾くための基礎ですね。理想的ですが、浪漫派の指遣いには、メトードローズも良いでしょう。ハノンも可能です」
私は楽譜棚から、まっさらなメトードローズを取り出した。
「あなたの演奏の何かを変えようとは、思いません。ただ、教室の扉を開かれたということは、あなた自身に、満足のいかない何かが、あるのでしょう」
私はササオカさんに、テキストを手渡した。
「その何かに、気付くことが、できるかもしれません」
彼女の手に渡ったテキストを、楽譜棚に置くように促す。
反復練習の頁を示しながら、私は続ける。
「退屈ですが、基礎を固めることで上乗せされる技術があり、技術を固めることで表現できる想いが芽生えてくるはず。お家で弾く際の準備運動に、どうぞ。ところで、今日、聴かせてくださった三曲の中で、あなたが、もっとも好きなワルツは、何番ですか?」
「……三十四の二番です」
三曲中、もっとも地味でメランコリックな選曲だった。
「私も、好きな曲ですよ。もう一度、お願いします。ショパンのワルツオーパス三十四の二は、追憶のワルツです。今日の時点で、技術的に注意する点は特に、ありませんが気持ち、ゆっくり揺らせて。この曲に関しては、燃え上がる覇気を封印して、過ぎ去った時間を惜しむように淋しく……どうぞ」
音が揺れた。私は、揺り籠の中の雛鳥のように、心地好く彼女の音を聴いた。
♪♪♪
「ミヨシくん、お待たせ」
ササオカさんと入れ替わりに、ミヨシくんがピアノ椅子に掛ける。私は、ササオカさんの次回のレッスン予約に応じた。
お疲れ様です。さようなら。では、また次回。
「一ヶ月分の、お月謝だね」
不意にミヨシくんが、指馴らしのハノンを弾く手を止めて言った。
「おじいちゃんのレッスンを気に入って、また来ようと思ってくださったんだね……良かった。おじいちゃん、淋しくないね」
淋しくないね。僕は、もう終わっていくけれど、
始まりのササオカさんが居てくれて。
私には、孫の言葉が、そんなふうに聴こえた。
「黙っていないで、何か言ってよ。おじいちゃん、生徒さんには饒舌なのに、僕のレッスンには無口だ。もっと、話してよ」
限られた時間、話そうよ。誘われた気がした。
「じゃあ、こういうのは、どうかな。ドビュッシーは……」
ピアノの前に寄り添って、私たちは語り始める。
過ぎ去った作曲家の生涯を。
過去に忘れられた、それぞれの想いの一幕を。
現代を生きている、私たちの確かで不確かな、矛盾した想いの丈を。
ミヨシくんは、想いを
アラベスク第一番。この曲のクロス・リズムは、渓流を往く水のようだ。色付けられた負の想いを、過去に流し去ってくれる。新しい光が見えてくる。
「お母さんに会えそうな気がするよ。僕の視界は今、光で、いっぱいなんだ」
晩年のミヨシくんは、真実に幸せそうに、そう言った。
彼は、月曜日の夕暮れのピアノ教室に、生きている。
永遠を誓う潔さで、咲いていた。
……『白百合の病』に続く……
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