十九歳 トロイメライ

 シューマンの『こどもの情景』より『トロイメライ』を弾き終えたミヨシくんは、十九歳と十二ヶ月。あと数分で日付が変わる。


「はじめようか」

 さいごになるかもしれない御誕生日パーティーの始まりだ。

「ミヨシくん、二十歳の御誕生日おめでとう」

「ありがとう」

「これは、おじいちゃんからの贈りもの。

 新しい服とウィッグと、ピアニッシモだ」


 ミヨシくんは贈りものの袋を受け取って頬を寄せた後、リボンを解いた。えりも身頃もそでも、すべてが紺色のセーラー服だ。年々、地球温暖化が進む中、半袖半洋袴なつふくを多く持たないミヨシくんへ、部屋着のつもりであつらえた。ウィッグも新調した。大切に使っていても傷みは出てきてしまう。新しい黒いウィッグは、しっとりと夜露に濡れたような天使の艶。


「ありがとう。だけど、おじいちゃん、あんまり無駄遣いしちゃ駄目だよ。お金はね、これから生きていくために残しておかなくちゃ。先が知れている僕には、もう何も必要ない」


 十歳の、こどもの姿で語られる言葉は、おとなびていて、双眸ひとみの色も静穏で、煙草をくわえる仕草も落ち着いている。私が、そうするのを何度か見てきたせいだろうか。初めてなのに手慣れていた。煙草を挟む指も、を点す指も。


 傍目はためが在れば補導されてしまうだろう。ミヨシくんは十歳の少年の姿で、二十年の歳月を生きる。娘が発病から五年足らずで天に召されたことを思えば、ミヨシくんは倍の年月を生きていて、まるで奇蹟きせきのように変わらない姿で私の前に居て、念願のピアニッシモをくゆらせている。


「トロイメライを弾きながら、この十年を走馬燈そうまとうのように想い巡らせていた。どの場面にも、おじいちゃんが居たよ。いつも、ありがとう」


 僕は、幸せな男の子だったよ。

 穏やかな、良い死を、迎えられると思うんだよ。

 おとなに成れたんだ。おじいちゃん、おとなの愛し方を教えてよ。


 透明な皿にピアニッシモを置いたミヨシくんの、微熱を発する額に接吻くちづけた。

「これが、おとなの愛し方?」

 僕も、やってみたいと、私の額に唇付くちづけるミヨシくんは、天使にも悪魔にも見えた。などと云っては実に、ありふれている。


 人間として生きる生命の気配が跡絶えないように、私はまもってやりたい。

 そうのぞそばから、辛くなる。

 自分の無力をひしひしと感じて、辛くなるのだ。


 息詰まりを感じる生活を脱したい。そう思ったのだろうか。

 ミヨシくんは自己を解放し始めた。

 誰にも会いたくないと云っていたのに一転、私の生徒に会いたいと。


「どんな人が習いに来ているのかな。急に気になって」

 朝食のパンペルデュに珈琲糖蜜コーヒーシロップをかけたミヨシくんは、それを少しずつ口に運びながら話した。

「ミヨシくんと同じ年頃の小学……否、おとなピアノの生徒さんは、総じて年輩だ。あとは」

「あとは小学校の生徒さんか。おとなピアノって興味があるよ。おとなの生徒さんは、どんな曲を弾くのかな」

「七十の手習い。そういう生徒さんだから『蝶々』や『翼をください』を単音で」

「聴きたい。レッスンの邪魔はしないから、見学させて」


 昼間、ひとりきりで心が淋しいんだ。誰かと一緒に居たいんだ。


 ミヨシくんは晩年、饒舌になった。もがいているのだと思った。


 ピアノ初心者の老婦人は、ミヨシくんに見蕩みとれて、可愛かわいいと連呼する。

「まぁ、なんて可愛いの。先生に、こんなに可愛い御孫さんが、いらしたなんて。本当に可愛い」

 カサブランカの鉢植え越しに、恥ずかしそうに佇むミヨシくんを手招きする。

「なんて色が白いのかしら。百合の花みたい。僕、お名前は? 幾つかしら?」

 ミヨシくんは十年ぶりに、私とイワノ先生以外の他人と話した。意外とスムーズに話している。

「はじめまして。ミヨシと云います。年齢は十歳」

「小学校四年生かしら? 可愛いセーラー服ね。アンドレセンくんみたいね」

 老婦人は、まさかの「アンドレ専」だった。何のことか分からず、小頸こくびを傾げるミヨシくん。悪い気はしなかったようで、孫は老婦人のピアノレッスンの場に、毎回、居合わせるように、なった。おとなしく折り紙で菊を折り、それを老婦人にプレゼントして、喜ばれていた。

「器用なのね。ありがとう、ミヨシくん。鞄に付けてみようかしら」

 老婦人の鞄にはミヨシくんの作った菊が、糸で結ばれコサージュのように揺らめくように、なった。


 そしてミヨシくんは、生徒の居ない時間、いとまもらっているピアノで新譜を読み始める。

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