十九歳 トロイメライ
シューマンの『こどもの情景』より『トロイメライ』を弾き終えたミヨシくんは、十九歳と十二ヶ月。あと数分で日付が変わる。
「はじめようか」
さいごになるかもしれない御誕生日パーティーの始まりだ。
「ミヨシくん、二十歳の御誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「これは、おじいちゃんからの贈りもの。
新しい服とウィッグと、ピアニッシモだ」
ミヨシくんは贈りものの袋を受け取って頬を寄せた後、リボンを解いた。
「ありがとう。だけど、おじいちゃん、あんまり無駄遣いしちゃ駄目だよ。お金はね、これから生きていくために残しておかなくちゃ。先が知れている僕には、もう何も必要ない」
十歳の、こどもの姿で語られる言葉は、おとなびていて、
「トロイメライを弾きながら、この十年を
僕は、幸せな男の子だったよ。
穏やかな、良い死を、迎えられると思うんだよ。
おとなに成れたんだ。おじいちゃん、おとなの愛し方を教えてよ。
透明な皿にピアニッシモを置いたミヨシくんの、微熱を発する額に
「これが、おとなの愛し方?」
僕も、やってみたいと、私の額に
人間として生きる生命の気配が跡絶えないように、私は
そう
自分の無力をひしひしと感じて、辛くなるのだ。
息詰まりを感じる生活を脱したい。そう思ったのだろうか。
ミヨシくんは自己を解放し始めた。
誰にも会いたくないと云っていたのに一転、私の生徒に会いたいと。
「どんな人が習いに来ているのかな。急に気になって」
朝食のパンペルデュに
「ミヨシくんと同じ年頃の小学……否、おとなピアノの生徒さんは、総じて年輩だ。あとは」
「あとは小学校の生徒さんか。おとなピアノって興味があるよ。おとなの生徒さんは、どんな曲を弾くのかな」
「七十の手習い。そういう生徒さんだから『蝶々』や『翼をください』を単音で」
「聴きたい。レッスンの邪魔はしないから、見学させて」
昼間、ひとりきりで心が淋しいんだ。誰かと一緒に居たいんだ。
ミヨシくんは晩年、饒舌になった。もがいているのだと思った。
ピアノ初心者の老婦人は、ミヨシくんに
「まぁ、なんて可愛いの。先生に、こんなに可愛い御孫さんが、いらしたなんて。本当に可愛い」
カサブランカの鉢植え越しに、恥ずかしそうに佇むミヨシくんを手招きする。
「なんて色が白いのかしら。百合の花みたい。僕、お名前は? 幾つかしら?」
ミヨシくんは十年ぶりに、私とイワノ先生以外の他人と話した。意外とスムーズに話している。
「はじめまして。ミヨシと云います。年齢は十歳」
「小学校四年生かしら? 可愛いセーラー服ね。アンドレセンくんみたいね」
老婦人は、まさかの「アンドレ専」だった。何のことか分からず、
「器用なのね。ありがとう、ミヨシくん。鞄に付けてみようかしら」
老婦人の鞄にはミヨシくんの作った菊が、糸で結ばれコサージュのように揺らめくように、なった。
そしてミヨシくんは、生徒の居ない時間、
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