十八歳 雨だれのプレリュード

 病状は一進一退だった。鳴りを潜めていた『白百合の病』が、十八歳のミヨシくんの咽喉のどつるを絡ませて苦しめる。


 孫は夜毎よごと、解熱鎮痛剤を呑むだけにはとどまらず、昼間も同じ薬を求めた。だから私はレッスン室にも設えた。ミヨシくんの手の届く棚の一隅いちぐうに鎮痛剤を。小さな冷蔵庫には、薬を呑み込む際に最適だと云うレモンティーを。


 水は腫れた咽喉のどに薬を置き去りにして、苦みを生じさせるらしい。私にも経験があるので分かる。ドラッグストアで販売されている服薬専用ゼリーを押し並べて試したが、ミヨシくんはゼリーよりも、ロビーの自動販売機で買えるレモンティーを好んだ。


 孫は無言で痛み止めを呑む。呑んだ後は大抵、お気に入りの揺り椅子に沈み込んで、目蓋まぶたを閉じている。静脈を透かせて見える蒼白あおじろい目蓋。それは白百合の葉脈のように繊細で、どうしても同じ病で亡くなった愛娘の死に顔を彷彿ほうふつとさせて直視できない。


 私の心は限界を迎えていた。千切れて壊れてしまいそうな精神を繋ぎ止める方法として、私は霊媒師を頼るようになる。


 孫のやすらぎで在りたい。にもかかわらず、ミヨシくんを見ているのが辛い。


 還る場所は、ふたりきりのレッスン室のはずなのに、静かな苦しみの水をたたえるばかりの桃色の絨毯じゅうたんの上へ、戻る足が震える。イワノ医師に弱音を吐いて、精神安定剤を貰うほうが建設的だと思う。けれども、私はミヨシくんの医師を頼らなかった。私は『白百合の病』と向き合うことを、あきらめたのだろうか。


 天界の愛娘は、抽象的なメッセージを送ってきた。


「人間は、生きていくために絶望するのです。個と他者。個と世界。双方の溝を愛で埋めようとするから苦しくなります。生きることは苦しむこと。いつか完全に消滅する日まで続く苦しみです」


 苦しくて当然。苦しみ抜いて生きよう。そんな想いで雑居ビルに戻ると、完璧ではないレッスン室の防音壁の向こうから、といを伝うような雨音が一滴一滴、私の心に沁みとおってくる。


 かえるべき場所。ミヨシくんの定位置であるレッスン室の揺り椅子に、私は沈み込んだ。孫が弾くショパンの『雨だれ』は、雨季のマジョルカ島に閉じめられた肺結核の孤独と絶望を、懸命に洗い流そうとしているように聴こえた。


 変ニ長調で始まった曲は中間部、嬰ハ短調に沈む。不安を洗おうとする冷静な雨の音が、もはや冷静では、いられなくなる。やさしくてきよらかな夢だけでは生きられないという嘆息。

 身体と精神の死。その深淵を垣間見て地面に叩き付けられる。しかし再び光は射し、静謐せいひつな変ニ長調に回帰して、希望的な終止を迎える。


 ミヨシくんも、また、生きることは苦しむこと。そう云い聴かせているに違いない。器を飛び出しそうな痛みを「個」に押し込めて、身近に居る私にさらそうともせず、耐えている。ミヨシくんという「個」に対し、私は祖父という名目の他者にすぎない。だから、ふたりを別つ溝は埋まらない。分かっていても私は愛をそそぐ。


 プレリュードに終止和音を置いたミヨシくんを、抱き締める。

「ひとりぼっちにさせて悪かった。許しておくれ」

「許す? 何を許せば、いいの? おじいちゃん、変だよ。何も悪くないのに」


 そんな夜が繰り返された。凍結が近付く花の生命を抱く夜の私は泣いているから、ミヨシくんが涙を拭いてくれる。かろうじて指は無事だ。膝に続き、ひじも変形への前段階のように腫れ始める。本来の美しい骨を侵していく。


 じわじわと進む病態に恐れを成して、私はふるえる。

 孫は他人事ひとごとのように静観している。


 不相変あいかわらず、病への愚痴ひとつこぼさないミヨシくんは、私の把握する現世の視界から、不可視の遠い世界へ飛んで行く鳥のようで、その双眸ひとみは愁いを知らずに透きとおっている。

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