十一歳 やさしい花

 孫は『やさしい花』のように咲いていた。ほっそりとした身体に着せた白いブラウスのそでのドレープが、たおやかに揺れる。膨張色を着込んでも、まったく膨らんで見えない小さなつぼみ。それが開花する。ピアノを弾く時間、ミヨシくんは、まるで「咲いている」かのように、可憐かれん生命力エナジーに充ちていた。


 十一歳のミヨシくんは、書棚から新しい教材を選んだ。

『ブルグミュラー二十五の練習曲』

 古典クラシックで使われる調性の基本を理解して、音階スケール終止和音カデンツ分散和音アルペジオを弾きこなすミヨシくんには、最適のエチュード集だ。

 大抵、バイエルの次の過程に選ばれる教材。ハノンで基礎を固めているミヨシくんには相応であり、私は孫の選択に賛同した。


「必ずしも一番から順に弾く必要は、ないよ。好きなタイトルを選んで御覧」

 私の提案にミヨシくんが選んだ曲は、

 ブルグミュラーの十番『やさしい花』だった。

「ミヨシくんみたいなタイトルだね」

「そうかな。お母さんみたいなタイトルだよ」


 私は娘を『白百合の病』で亡くした。病の進行を妨げるために選択される薬剤が、娘の気持ちを波立たせ、生来の穏やかな性格からは程遠い攻撃性をまれに見せていたことが、記憶によみがえる。孫にも同じ処方が選択され、この、おとなしい雛鳥ひなどりのような子をどれぐらい凶暴にするのであろうとハラハラしたが、まったくの杞憂きゆうであった。ミヨシくんは常に『やさしい花』だった。


 イワノ医師の云いつけどおり、直接、太陽の光や外の強風を浴びせぬよう、守られるべき温室育ちの花である。私が育てているのは、まごうこと無き孫であり、十一歳の少年であった。けれども彼は、もの云わぬ花のように、黙々と折り紙とピアノに興じていた。


 私は時々、蠟燭ろうそくあかりだけで育つ幻の植物を脳裏に描く。

 茎の細い白い花には、水と肥料と薬を忘れずに。

「ミヨシくん、今日の、お昼は何を食べようか」


 朝食は、いつもパンペルデュ。一晩、卵液たまご牛乳ミルクを混ぜた液にひたした食パンを、バターを溶かしたフライパンで、あっさりと焼き上げる。雪のような粉砂糖を散らす。ミルクティーを添える。此処ここにも牛乳ミルクをたっぷりと。

 これだけカルシウムを摂取していると云うのに、孫は十歳のころと同じ身長で、運動を制限された生活の中、滋養食で体重を増やすことも無い。すべての活動は終末に向かう。カロリーは生命を維持するための数字に変換される。


「お昼は、今日も、おじいちゃんと半分ずつが、いい」

「同じものかい? 筋向いのレストランで、テイクアウトするフェットゥチーネは、どうかな?」

 なるべく滋養のあるものを提案する。私を生活習慣病に導くぐらいのハイカロリーなランチを、いつも、ふたりで半分ずつしていた。孫は十歳の胃の大きさで、未来へ成長しようとするエネルギーが働かない病に侵されているゆえ、半分の量が丁度好ちょうどいいらしい。私の健康対策にも好都合だ。

「うん。菠薐草エピナル入りの翠色すいしょくの、あれは美味おいしくて大好きだ」

「では、そうしよう」

 ゆくりなく私の好みの料理メニュー。ミヨシくんと私の嗜好は似ている。


 今日も私はレストランに予約の電話をして、ランチをテイクアウトする。ついでにディナーも注文しておく。


 住居のキッチンは、パンペルデュ専用に使われるようになって久しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る