前奏曲
火曜日の邂逅
ピアノは生きている。最適な温度と湿度を保つ環境で、エアコンやファンヒーターの風を直接、当てないように気を配る。ミヨシくんも
「ミヨシくん、直接、風に当たると身体に悪いよ」
私の言葉に、ミヨシくんは素直に頷いて窓を閉じた。
翻っていたカーテンの揺らめきが、容易く収束する。
この子の病は、さんざん揺らいで、収まりがつかないと言うのに。
余計なことを思っては、いけない。
この穏やかな暮らしを、孫は希んでいる。
ピアノと折り紙。それだけで、物質的な恩恵を享受していると感じているらしい美しき、私の白百合。
この子は、少し風に当たり過ぎただけで、一定時間、水分の補給を忘れただけで、
孫の検査データが、晩年の娘のデータに酷似してきたのは、彼が二十歳の誕生日を迎えたころだった。私の愛娘も、また白百合の病であった。関節の変形の果てに、枯れる病。娘を亡くしたのは、一昔前の話だ。
そもそも、遺伝性の謎多き奇病。エビデンスを裏付けようにも、患者数が少なすぎる。故に治療は手探りで、何が正解なのか分からない。
「ミヨシくん、ずっと飲んでもらっていた薬だけれど、もう飲まなくていいよ」
もはや手の施しようがない、とは言えなかったのだろう。担当の先生は、精一杯の気遣いを見せた。
「痛み止めだけ、出しておこう。不安なら入院することも、できるよ」
孫は、そんな提案を断って
自宅に。私の仕事場に。夕暮れのピアノ教室に。
♪♪♪
ミヨシくんと私の、ふたりの生活が始まった当時の話を少しだけ。
「おじいちゃん、ピアノを弾かせて」
そう言って、たどたどしく鍵盤をはじくのかと思いきや、ミヨシくんはイ調短音階を鮮やかに鳴らした。
「イ短調だね。誰の手ほどきで?」
「お母さんの真似。音階は合計二十四色。イ短調は女性的な柔らかい色だよ」
お母さんの色だ。手ほどきを受けたことは、なかったけれど。
驚かせることを言う。充分だ。
「では、こんなのは、どうかな」
私たちはピアノの前に寄り添い、連弾の楽譜を眺めた。退屈なはずの
「私は第二ピアノを弾こう。ミヨシくんは
ピアノを前にミヨシくんは、初見で奏でた。曲目は『ハノンの子守唄』だ。これは、ハノン四番を穏やかにアレンジした連弾曲。トレーニングに選ぶ教材は楽しいに、こしたことがない。もはやバイエル、ブルグミュラー、チェルニーの流れを、正統派と呼ぶか旧式と呼ぶか、判断が分かれる時代だ。
私は生徒の進路と性格に合わせて、チェルニー、ハノン、メトードローズを使い分けた。生徒自身に選択してもらうこともあった。私のレッスンには、テンプレートが無い。
しかしながら、どれも退屈な教材であることは否めない。少しでも楽しく、指のトレーニングができるように、私は連弾譜を採用することが多かった。
孫は楽しくて仕方がないふうだった。指が
「おじいちゃん、ピアノって、こんなに楽しいんだね」
おじいちゃん。孫の呼び声と、奏でたばかりの曲の余韻がハミングする。
「こんなに気持ち良く伴奏できたのは、おじいちゃんも久し振りだ。次は、こんなのも、どうかな?」
ギターで演奏されることの多い旋律。ピアノ・ソロにアレンジされた『禁じられた遊び』にも、孫は目を輝かせた。私とミヨシくんの生活の時間、それは禁じられてはいないが、遊戯そのもののように甘やかだった。
私の提案する曲に、とどまらなかった。楽譜棚から引き出しては譜を読み、理解する孫の姿が在った。譜面だけではない。私の蔵書。
私の職業がピアノ講師で、良かったと思う。外に働きに出ることなく、
♪♪♪
「僕にはミヨシの世話は無理です」
娘の夫であった男性、つまりミヨシくんの父は、息子と一緒に暮らすことを拒んだ。そのときのミヨシくんの、心細さを隠した表情を
「分かっているよ。白百合の病は、きみのせいじゃない」
私は、父親とミヨシくん、双方に向けて言った。
「ミヨシくん、私は、きみの亡くなったお母さんの父親なんだ。病室で会っていたから、知っているよね。一緒に、暮らしてみようか」
私の提案に、ミヨシくんは頷いた。父親は、ミヨシくんが生きているかぎり、月々の医療費を振り込む。それだけを約束して去った。
ミヨシくんは、両親の離縁と母親の死を知った少年だ。一旦、父親に養育されるも、母親と同じ奇病を発症したせいで、将来を期待される
「ミヨシくん、今日から
♪♪♪
あの日から十年が経った。
ふつうなら、こどもは、おとなになる。大きくなったね、と御世辞にでも言える時間の経過だ。だが、彼は白百合の病。変わらない大きさで窓辺に佇んで、いた。
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