水曜日の電話

 窓辺に佇み、路地を行き交う自動車や人の流れ、あるいはそらを、彼は見ていた。


 私は、そんな孫を見ている。綺麗に、なったね。思わず言葉が口をつきそうだったが、飲み込んだ。


「ミヨシくん、食事の時間だよ」


 晩年の孫の咽喉のどを滑り落ちていけるのは、純水と、薔薇色ばらいろの紅茶に角砂糖と洋酒を溶かし込んだものと、手作りのジュレとプティング、ミルク、トマトスープ。


 もうひとつ、あった。煙草のけむりである。


 これは実に不可解で、科学的な根拠も無いが、孫の雛鳥ひなどりのような咽喉の腫れを癒やす、一種の薬になっているらしい。種類はピアニッシモが良かった。他の烟では駄目だった。とりわけ、ピアニッシモ・アリア・メンソールが良かった。偶然にも、私が愛飲している煙草の銘柄。血は争えないと言ったところか。


 研究が進んで、特効薬のようなものが画期的に開発されることを、私は願った。とにかく、美しい白百合の生命の最期を、先延ばししたかった。


 近々、訪れるであろう最期を、予感しているのだろうか。ミヨシくんは見おさめるように、天を眺めた。かと思えば、忙しなく折り紙を始める。私の蔵書の中に、折り紙のテキストがあり、千代紙や和紙もあふれていた。


 折り紙は、私の妻の趣味だった。長生きして、趣味を楽しむつもりだったのであろう。テキストと材料を買い込んでいた。にもかかわらず、妻は自動車事故に巻き込まれて、天に召された。これも、また一昔前のことだ。


 すっかり葬式に慣れてしまった。

 妻、娘、今度は孫を送る立場になるのだろうか。


 ミヨシくんは小さい食卓で咳をした。また、咽喉を腫らせているようだ。


 こういうとき、どうすればよいのか、彼はわかっていた。一本の煙草を取り出す。私は無言でを点ける。


 ミヨシくんは烟を吸い込み、トマトスープを飲み、その動作を交互に繰り返して、なんとか一杯のスープとミルクだけの軽い昼食を終えた。向かいで、同じものにパンを添えて食べていた私も、さじを置いた。


「じゃあ、おじいちゃんはレッスン室に行くよ。今日の生徒さんは、ちょっとだけ、やんちゃな男の子と、ちょっとだけ、おしゃまな女の子と、それから……」


 住まいに引いている旧式の電話の呼び出し音が、私の声を掻き消した。すぐに受話器を取る。電話の向こうには、新規でレッスンを希望する若い女性の声がした。高くて細い雛鳥のような声だ。


「はい。いますぐにでも、レッスンに入って頂けますよ。

 最速で、来週月曜日の夕刻」


 レッスン依頼の電話が鳴るのは、久し振りだ。今、ちょっとした流行はやりの、おとなピアノの依頼。電話口の女性は、二十二歳の社会人で、ササオカと名乗った。ササオカさん。少女のような声音の、おとな。


「ええ。歓迎いたします。是非いらしてください。

 ササオカさん、お待ちしております」


 ミヨシくんは、痛み止めを咽喉に押し込みながら、私とササオカさんの会話を聴いていた。


 ♪♪♪


 やんちゃな少年と、おしゃまな少女が、順番にレッスンを終えて帰り、次の生徒である老婦人を待つ時間、階段を駆け降りる音が聴こえた。この足音は、ミヨシくんだ。


 階段は静かに降りなさいね。そんな注意をするのを止めた。転ばなければ、いいだけの話。どんな足の運び方でも、転ぶときは転ぶのだから。


「まぁ、ミヨシくんじゃない。こんにちは」

 扉の前で、老婦人とミヨシくんが、挨拶を交わしている。

「こんにちは。今日も、見学させて頂いて、大丈夫でしょうか?」


勿論もちろんよ。ミヨシくん、あなた、本当に綺麗ね。天使の輪っかが見えるわよ」


 老婦人の言葉に悪気はない。ピアノ歴半年の老婦人は、ミヨシくんが奇病で、その艶やかな黒髪がウィッグであるなど、夢にも思わない。天使の輪っかが見えるわよ、が常套句なのだ。


 白百合の病の特徴なのか定かではない。とにかく孫の髪から、色素が抜け落ちていった。若くして白髪に変わる気持ち。辛いであろうと察する。


 私は煙草と洋酒と洋食を日常的に摂取する。そんな長年の習慣の蓄積だろうか。比較的、若い時期から、血圧や血糖値が高値を示していた。一方で老化を感じることは無いが、急速に総白髪になることを想像してみる。遣る瀬無い。


 慰めになるのか分からない。躊躇ためらいつつ、

 私は孫に、漆黒のピアノの艶のウィッグを与えた。


「おじいちゃん、ありがとう」

 そう言って、受け取ったウィッグを彼は、いつも付けていた。


 最近、白色だった髪に何故か、黄金きん朱色あかが混ざったような色が付き始めた。ずっと飲んでいた薬を止めたせいなのか、それとも病の進行によるものなのか、分からない。


 そして娘が、そうであったように、少しずつ関節に変形が見られるように、なった。主に、ひじひざに顕著だった。


 外見的な変化を隠せるウィッグと洋服は、うまく孫に馴染んでいる。ハ長調の蝶々と、ハ短調の蝶々で、楽曲の明暗を弾き分ける老婦人の近く、揺り椅子に掛けるミヨシくんの姿が在った。


 それは永遠を信じたい、永遠に其処そこに在って欲しい姿だった。

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