第6話 トランペットの松井さん
この空気を何と説明したらよいだろうか。
冷たい? 生ぬるい? いや暖房が効いているから、寒くはない。
でもこの空間からは早く脱したかった。
松井さんは落ちていた本を拾い集めていた。中にはページを折れてしまったものもあるらしく。
丁寧に広げていた。
「あ、あ、あの先輩? いや、そのあれは、事故みたいなもので」
「ディープキス。それは互いの舌をいれあってする行為」
「は?」
「どちらかの口内に傷がある場合、感染症を起こすリスクがあり」
「えっ、いやあの」
「注意が必要」
「……」
松井さんの様子が今まで見て来た深窓の令嬢や『姫』と言った雰囲気からガラリと変わっているのを初めて目にした。
それはもう妖艶そのものだった。
「あなたに触れて欲しい。あなたのそのほっそりとした細い指が触れる。白くて優しい手。あなたに触れて欲しい。でもあなたは残酷な笑みでけして触れない。白くて優しい手」
松井さんがゆっくりと足を滑らせながら、近づいてきた。
止まらず、声を止めず、ゆっくりと近づいてくる。
「あぁ、なんで触れてくれないの。私はもうあなたに触れてもらうしかないのだから」
いつの間に距離を詰められていた。当然だ。
部室の出口から俺のいるところまでほんの数メートル、でも目の前にいるこの人は何者だ?
「あぁ、やっとやっと。でも目を開けたら私のあなたはいないの」
松井さんの手が俺の胸の辺りをとんっと押した。
「ち、陳腐ですね。どこかの官能小説のパクリですか?」
「これはね、私が書いた大人な詩」
え、私なの? ポエマーなの?
「俺にはちょっと分からないかなー、なんて」
松井さんの手が胸からすぅーっと顎まで上がってきた。
背中を触れられていないのに何か電気が走り抜けた気がした。
「私のことかぎまわるなんて、いけない男の子ね」
「な、なんか、いつもと違うっすよね。そんなキャラでしたっけ」
松井さんは俺の顎から手を離し、胸に顔を押し付けてきた。松井さんの目が変わった。松井さんの殺意に踏み入れてはいけない線を超えてしまったのではないかと瞬時に悟った。声色もぐっと低くなった。
「三原さんのことを私知っているのよ。それが小西君って子の差し金ってことも、あなたが三原さんを嫌いなことも、山本さんを嫉妬させたいことも、ぜーんぶお見通し」
図星である。嫉妬は嘘だけど、いや嘘ということにしてほしい。
「俺には分からないなーって」
次の瞬間、目の前の女性の声が一層低くなり、ガラリと変わった。殺気という具体的なものではもはや無く、ぼんやりとした黒いもの、いわゆるオーラの様なものを感じたのだ。
「あんまり調子に乗り過ぎると痛い目に遭うわよ。でもそうね、あなたの英語の課題が不味いなら、『その他』のことを込みで図書室で教えてあげるけど」
「え? 『その他』って?」
「条件があるの。三つだけ」
先ほどまでの殺意なぞ考えられない風にいた元の姫に戻った。
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