第4話
夏至節の日は、女性も堂々と街を出歩いてよいことになっていました。楽安では夜遅くまで街中に灯りがともされ、あちこちに屋台が出て簡単な料理やお菓子を山ほど売り、街角の舞台では劇や手品などが様々に披露されるのがお決まりでした。使用人達も休みが与えられ、年寄りから子どもまで、皆が街に繰り出します。お屋敷でも男性達は早くからでかけてしまい、女性達も入念におめかしをすると、昼過ぎには呼んであった人力車に乗って出かけていってしまいました。若者達が様々な神様に扮して街中を練り歩く行列を見るためです。これは湘雲も幼い頃から毎年楽しみにしている夏至節一番の催しでした。湘雲は一緒の車で出かけないかと誘われましたが断りました。珍花が「ひとめ自分で確認したらいい」と言っていたことがどうにも気がかりだったのです。今日ならひとりで出歩いてもそれほど目立ちません。
あれから、湘雲は珍花に言われたことをずっと考えていました。湘雲はだまされているのだと珍花は言ったのです。湘雲は珍伯父に売られるのだと。湘雲は結婚の話をもちだしたときの伯父と孟氏のことを思い返してみました。二人ともとても湘雲を騙しているようには見えませんでしたし、孟氏は心底湘雲を心配してくれているようでした。
(それとも、それも全部演技だったのかしら…?私が世間知らずで嘘を見抜けていないだけなのかしら)
そう思うと段々不安になってきて、湘雲は落ち着かない日々を過ごしたのです。そこで湘雲は決めたのでした。夏至節の日に、結婚相手の王さんの家をこっそり見に行ってみようと。
家のものは皆出かけてしまい残っているのは一番年寄りのばあやだけです。そのばあやが玄関前の椅子で居眠りしている横をすり抜け、湘雲は街に足を踏み出しました。街を歩くのは父が亡くなってこの屋敷に来たとき以来です。珍伯父の屋敷は普段から人通りにぎやかなところにありますが、しかし今日のにぎわいは普通ではありませんでした。それこそ足の踏み場もないというほどに人が行き交っていて、自分の足下すら見ることができません。人にもみくちゃにされながら、珍花は頭の中に都の地図を思い浮かべました。父と住んでいた頃に何度も眺めていたので、王家の場所もわかります。出歩いたことはほとんどありませんが、きっとなんとかなるでしょう。
そう思って出てきましたが、祭りの日の人では予想以上でした。前から歩いてくる人に突き飛ばされ、後ろから来る人に押され人並みに流されてなかなか前に進めません。そういえば以前は珍花とともに家から少し出た大通りでパレードを眺めることくらいしかしたことがありませんでした。
「でも、それが正解だったかもしれないわ」
息も絶え絶えになりながら、湘雲は前からやってきた駱駝と衝突するのを間一髪で避けました。駱駝の口が肩をかすめ、唾が襟にべとりとつき、湘雲は顔をしかめました。駱駝に乗っていた人は全く気づかぬままです。一言文句も言ってやりたくなりましたが、人波に立ち止まっていることができず湘雲は進むしかありません。
そうしてひどく時間がかった末になんとか王家の商店の前まで来たときは、湘雲はすっかり疲れはてていました。地図では王家の場所には大きな燕の絵が描いてあり不思議に思ったことがありましたが、なるほど、玄関の美しい木目の鉄木の柱に大きな羽を広げた燕の彫刻が掲げられています。燕の巣が王家の自慢の品だというのは本当のようです。王家の前を着飾った人たちがたくさん通り過ぎていきますが、玄関には全く人影がありません。よく考えれば珍伯父の家と同じく、ほとんどの人が祭りで街に繰り出しているのに違いありません。当主の王さんももちろん既に外出していることでしょう。私ったら馬鹿だわ、と湘雲は思いました。少し考えればわかりそうなことだったというのに、どうにも珍花に言われたことを考えすぎて思いつかなかったのです。ここまでこんなにも苦労してやってきたというのに無駄骨だったとは、さすがに自分でも自分が人の言うことを信じすぎているということを自覚せざるを得ませんでした。
家の前に立ちすくんでいると、多くの人が湘雲を邪魔そうに避けていきます。仕方なく、湘雲は道端に避難しました。壁に体重を預けると、ほっと息が出ました。どうしようか、もう帰ったほうがいいのか考えてみますが、ここまでくる間にどれだけ苦労したかを思い出すとさらに憂鬱になります。これから人はどんどん増えるでしょう。はあ、とため息をつくと、隣から声をかけられました。
「お嬢さん、珍しいね、おひとりかい」
湘雲が怪訝そうに見ると、そこにいたのはぼろを着たおじさんでした。傍らには小さな屋根のついた車があります。屋台のようです。
「団子を売っているんだ。おひとつどうだい」
おじさんは串にささった団子を差し出しました。こんがりと焼けておいしそうです。ぐう、と湘雲のお腹が鳴りました。
「ありがとう、でも私、今お金を持っていないの」
湘雲が申し訳なさそうに言うと、おじさんは突然悲鳴をあげて団子を取り落としました。
「歯が!歯がある!」
おじさんは慌てふためいて手をばたばたさせながらその言葉を絞り出しました。これを聞いて湘雲ははっとして長い袖で口を覆いました。
「おじさん、あまり言わないで、恥ずかしいわ」
おじさんはわたわたとするばかりです。救いはお祭りで道行く人の目に全く湘雲達が入っていないことでした。皆それぞれの楽しみに夢中で、道ばたで慌てふためくおじさんなど目にもとめません。湘雲はおじさん、おじさんと必死に呼びかけました。
「私、もうすぐ抜歯式なの、でもまだ抜いていないのよ!」
それを聞いておじさんははっとして湘雲を見ました。それからまじまじと見た後、ほうっと息を吐きました。
「す、すまないねお嬢さん…俺はてっきり、女仮人でも出たかとおもっちまったよ」
心底ほっとしたというようにおじさんは言って頭を掻きました。
「女仮人?そんなわけないでしょう」
「確かにそうだ、お嬢さんみたいな若い女の子がそんなわけはねえってのに。最近女仮人が都に入ってきてるというからつい、ねえ…」
「それって人が虎に襲われているという話?」
「しっ、めったに虎だなんて口にするものではねえよ」
おじさんは声を潜めました。皆虎を恐れているようです。これは本当なのね、と湘雲は思いました。
「また三日前にも人が死んだって噂だ。恐ろしいもんだよ。早く北の女仮まで軍を送ってやっつけちまえばいいのになあ」
「本当に女仮人なのかしら?それにそんなに簡単にやっつけられるならとっくの昔にやっつけてしまっているのではない?」
「お上のやつらは北の連中がすっかり怖くなっちまって戦えないのさ。腰抜けめ」
おじさんの語気の強さに湘雲は何も言い返せません。おじさんはもう二言ほど罵り言葉を吐いたあと、湘雲をしげしげと見ました。
「しかしお嬢さん、随分抜歯式が遅いんだね」
もう結構な年だろう、と続けて言われ、湘雲は恥ずかしくて肩を縮こめました。
「ちょっと、父がよい日取りを迷っているうちに…」
「はは、悠長なおやじさんだな」
おじさんはそれで納得したようです。しかしやはり歯を抜いていないことはものすごく珍しいことなのだと湘雲は実感しました。全くの他人と話したのは初めてでしたが、屋台の団子売りにまでここまで驚かれてしまうようです。
道の向こうから駕籠がやってくるのが見えました。屋根の美しい透かし彫りが人波の頭の上に飛び出て見えます。とても豪奢です。
「ありゃ、王の旦那の駕籠だ」
おじさんが指を指しました。
「王の旦那って、ここのお屋敷の?」
「そうさ」
四人の男に担がれた駕籠はお屋敷の前で止まりました。湘雲はなんとか駕籠をよく見ようとぴょんぴょん飛び跳ねます。道行く人に阻まれてよく見えません。すると、おじさんが笑って屋台の台に乗るよう言ってくれました。
扉が開き、中から出てきたのは大層恰幅のよい白髪のおじいさんでした。おそらく還暦が近いでしょう。腹の突き出ている様は珍伯父を越えています。旦那様!と奥から年とった女性が慌てた様子で出てきました。最初は奥様かと思いましたが、飾り気のない質素な服を見ると侍女でしょうか。何やら話していますが全く聞こえません。湘雲が見ていると、突然おじいさんはその女性をはり倒しました。女性は地面に倒れます。湘雲はぎょっとしました。団子やのおじさんがどうした?と湘雲に声をかけます。
「…今、その王の旦那さんという人が、侍女か誰かを殴ったの」
湘雲の声は震えていましたが、おじさんはなんでもないという顔をしました。
「まあ、そういうこともあらあな。しかし王の旦那は確かに使用人を殴るので有名らしい。うちの常連さんの娘さんもあの家に奉公にあがっていたが、恐ろしくてすぐに辞めたそうだ」
「そんな…」
王の旦那というその人は家の中に入っていってしまいました。湘雲はまだ呆然としていましたが、おじさんが、そろそろいいかあ?と聞いてきたので我に返りました。慌てて台から降ります。ありがとうございます、とお礼を言うと、おじさんはにかっと笑って団子をひと串湘雲に差しだしました。
「ほら、これあげるよ。女仮人と間違っちまったからな、そのお詫びさ」
湘雲はまだぼーっとしていましたが、おじさんがおしつけるようにその串を湘雲に渡すので思わず受け取りました。じゃあ、と言っておじさんは屋台を引きながら行ってしまいました。
おじさんが行ってしまうと、湘雲は一人になりました。手に串を持ったまま立ち尽くしていると、前から後ろから歩いてくる人たちが湘雲などまるで見えないかのようにぶつかっていきます。何度目かにぶつかってきた人に舌打ちをされて、湘雲はやっとのろのろと歩き始めました。家に戻らなくては、と頭のなかでかすかに思いますが、体に思うように力が入りません。さっき見た、王家の旦那が侍女をはり倒した姿が頭にこびりついて離れません。父親は変わり者でしたが湘雲や珍花を殴ったりすることはありませんでした。珍伯父の家でも、高価な杯を勝手に質に入れた侍女のひとりが孟氏に鞭で打たれていたのを見たことはありましたが、それくらいでした。玄関先で当主自ら侍女を殴るなんて、普通ではありません。
(いいえ、でも、あの侍女が何かとんでもない悪事をしでかしたのかもしれないし…)
しかし団子やのおじさんの言っていたことも気になります。それに王家の旦那さんは湘雲より歳がかなり上のようでした。確かに年齢については誰からも聞いていませんから、嘘をつかれた訳ではありません。しかし、自分と歳が三まわりは離れていそうな人の第四夫人となると、珍花の話が本当であるかはわからないにしても、湘雲にとって手放しで喜べる結婚でないことだけは間違いありません。ていよく厄介払いされたということでしょうか。
(…けれど、実際に私のような財産も父親もいない、歯も抜いていない娘が結婚できるだけでもありがたいのかもしれないし…)
そんなことを考えながらただただ人に流されて歩いていたせいで、気がつくと、湘雲は人通りの少ないうらぶれた通りにいました。あたりを見回してみますが、全く見覚えがありません。知らないうちにこんなところまで来てしまったようです。土が踏み固められただけの道は陰がじめじめとしているし、端には何か汚い水が流れています。両側の壁はところどころひびが入り、少し崩れているところもあります。まだ明るい時間ではありますが、あまりよい場所ではなさそうです。
(いやだわ、はやく人の多いところに戻らないと…)
湘雲が身を翻したそのときです。突然、湘雲は後ろから羽交い締めにされました。叫ぼうとしますが、口を押さえられて声が出ません。そのまま引きずられていきます。湘雲はありったけの力で暴れました。手足をばたばたとさせますが相手の力が強くかないません。一体何でしょう!
(どうしよう、どうしたら…)
そこで湘雲はおじさんに団子の串をもらったことをとっさに思い出しました。まだ手に持ったままのそれを、おもいきり自分の口を塞ぐ手に突き立てます。細い竹串でしたが反撃には十分な固さがありました。ぐわ、という男の声がして力が緩みます。その隙に逃げようとすると、腕を捕まれて引っ張られました。このやろう、と叫ぶ声がします。湘雲は死にものぐるいで手足を闇雲に振り回しました。
「離しなさいよ!こっちこそこのやろう!」
「ちくしょうめ、この女!」
湘雲は自分を襲ってきた男を見ました。身なりはそれなりによさそうな若者ですが、顔がすっかり歪みきっています。湘雲は串を何度も男に振り下ろしました。何回か手ごたえがあり男が叫びますが、まだ腕は掴まれたままです。
このままだと負ける、と思ったとき、「うわあ!」と叫び声があがり急に腕が自由になりました。生ぬるい風が強く吹き付けます。
「何⁉」
とっさに目をつぶった湘雲でしたが、にゃあん、と猫の鳴き声が聞こえた気がして目を開けます。なんとなくシマの鳴き声に似ていたからです。すると今度は体がふわりと浮かびあがりました。誰かに抱えあげられています。驚く間もなく、悲鳴をあげて男が吹っ飛んでいきました。道に投げ出されたその男は、くそ、と悪態をつき再び立ち上がって向かってこようとしました。そのとき湘雲が体を硬直させたのは、その男のせいではありませんでした。男の背後に突如、大きな紫の雲のようなものが湧きあがってきたのです。もやもやとしていて真ん中は特に色が濃く、そして二つ、紫に光るものがあります。まるで目のようです。湘雲が動けずにいると、後ろから声がしました。
「逃げるぞ、こっちまで巻き添えをくったらたまらん」
「え?」
気がついたときには、湘雲を抱えた何者かはものすごい速さで走り出しました。抱えられたまま湘雲が見たのは信じがたい光景でした。紫色の霧が急激に真ん中に集まったと思うと、大きな獣のような形になって男に襲いかかったのです。男は逃げる間もなくその獣にがぶりと食いつかれてしまいました。男を咥えたまま、ぎらぎら光る目がこちらを見たような気がしました。大きな猫のようにも見えます。やがてまた形を失い紫のもやの塊に戻ると、それは北へ向かって飛んでいってしまいました。
ただただ驚くばかりの湘雲でしたが、動きが止まったので振り返って見て、さらに驚いて悲鳴をあげました。
「なんだ、助けてやったのに、失礼だな」
随分と偉そうな口調です。
「だって、あなた、」
湘雲は口をぱくぱくとさせました。湘雲を抱えていたのは、人間ではなかったのです。湘雲が力一杯体をねじると、そのものはあっさりと湘雲をその手から逃がしました。湘雲は距離をとり、改めてその姿を上から下まで見ました。学者のようなゆったりとした服を着て冠まできちんとつけていますし、靴もしっかりと履いてるようです。しかし、顔はふさふさと毛で覆われていいます。中心部は白い毛ですが、額や頬は縞模様です。目は大きくぎろりとしていて、長い髭が左右に生えており、口には牙が見えました。
「あなた、もしかして、女仮人なの?」
湘雲が恐る恐る聞くと、獣は一瞬驚いたように目を見開きましたが、やがてこらえきれないというように笑いはじめました。
「そんなわけないだろう、女仮人は人だ」
獣があまりにも笑うので、湘雲は段々腹が立ってきました。初対面でこんなに笑われては腹立たしさしかありません。
「では、なんだっていうの」
人間じゃないの、ともう一度尋ねると、虎は笑いを抑えておもしろそうに湘雲を見つめて言いました。
「俺は虎だ」
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