第2話

 結婚前の若い女子をさすがに親族も放っておくことはせず、とりあえず湘雲は伯父の一家に引き取られることになりました。父は三人兄弟の三男で、長男のちんは家業を継いで商売を行っており、次男のは優秀であったため科挙に合格し官僚になっていました。湘雲が預けられたのは長男である伯父の家でした。裕福な一家は大所帯で、伯父の正妻のほかに第二夫人も同居しており、それぞれの子どもたちと大勢の使用人で屋敷は朝から夜までひどくにぎやかです。

 湘雲は屋敷の隅の一部屋をあてがわれました。もちろんお屋敷自体立派なものですから湘雲の部屋もそれなりです。しかし、少しだけ日当たりが悪く、風通しがよすぎるところが気になりました。街が静まり返る深夜になると、風が壁の隙間かなにかを通り過ぎる不気味な音がするのです。幼いころからずっと一緒だった珍花が、一緒にこの屋敷に来ることが許されず親族を頼って遠くへ行ってしまったことも心細さの一因でした。せめてシマがいれば、と湘雲は思いますが、シマは父親が死んだ後姿が見えなくなってしまいました。次の家を探して行ってしまったのかもしれません。なにより湘雲がつらいと思うのは、もう本も書画も好きには見ることができないことでした。伯父は、女子にはそういったものはあまり必要ではないと考える人間で、妻や娘たちには伯父がふさわしいと選んだものだけ与えていましたが、それらは湘雲はとっくの昔に読んだものばかりだったのです。しかも、内容も説教くさいものばかりでした。これは思ったよりも堪えました。置いてもらっている身である手前、これがほしいあれがほしいと気軽に言うこともできません。仕方なく、湘雲は屋敷の夫人や子どもたち、侍女達とともに、もう何度も読んだことのある本を読み返すのでした。

 湘雲が伯父の家に来て一月ほど経ったある日のことでした。湘雲は夫人や子どもたちと一緒に庭を眺めて遊んでいました。屋敷の中庭はすばらしいもので、すっかり暖かくなった太陽の光のもとで新緑が芽吹き、控えめに咲く花々は春の風にそよいでいます。樹木は複雑な形に整えられており、繊細な枝には小さくてかわいらしい鳥がとまっていました。

 第二夫人である李氏の長男飛が蝶をおいかけて庭へ走り出すと、正妻である孟氏の三女のしゅんばいもそれに続きました。まだ幼い二人は庭中を蝶を追いかけて走り回ります。絹の長い袖をもう片方の手で押さえながら、李氏が軒先から呼びかけました。

「こら、春梅、女の子がそのように走り回ってははしたないですよ」

 慌てた侍女が走っていって春梅をつかまえました。春梅は激しく暴れて抵抗します。まだ若い侍女はなかなかそれを押さえつけることができません。

「いや!いや!」

「お嬢様、どうか静かにしてくださいよ!」

「いやよ!じゃあ飛のことも捕まえてよ!」

 飛は二人のことを無視して蝶を追い続けています。侍女に抱えられそうになりながらも春梅が飛、飛、と叫ぶので、ついに飛も足を止めて春梅を見ました。それから困ったように母親である孟氏を振り返ります。

「飛は男の子だからいいのよ」

 そう言ったのは今年十六になる孟氏の次女のせきしゅんでした。彼女は柳のようにたおやかで優雅な腰つき、その美貌は近所でも評判でした。結婚の申し込みがひきもきらず舞い込んでくると侍女達がうっとりしながらよく話しているのを湘雲ももう何度も聞きました。湘雲が惜春を見ると、惜春はにっこりと湘雲に笑いかけました。それからとても優雅な足取りで庭に出て春梅のところに行くと、絹の衣の裾が地面につくのもいとわずにしゃがみこんで春梅と目を合わせました。

「男の子はいずれたくさん勉強して試験に合格して偉くならなければならないの、だから丈夫で健康になるようにたくさん走らなければいけないわ。けど春梅、あなたは女の子なのよ。女の子がそんなやんちゃではいけないわ。女の子は優雅で優しくていつでも花のようでいるのが大事なのよ、分かるでしょ?」

 春梅は少しだけ泣き叫ぶのをやめて、少しだけ上にある惜春の目を見ました。

「…けど、やっぱり飛だけ怒られないのはずるい。あたしは今走りたいの」

「自分の代わりに一番遠くまで走ってくれる男の子を見つけるのよ。それがあなたの走るってことよ」

 優しいけれども有無を言わさぬ強い視線でした。そうやって惜春に見つめられたら、さすがの春梅も何も言えません。ぐっと言葉を飲み込んで下を向いてしまった春梅の真っ赤な顔を見て、湘雲は思わず口を開きました。

「でも、ちょっとくらいいいのではないかしら。春梅がやりたいと言っているのだし、北の女仮では女でも子どもは皆外で遊ばせると聞くし…」

 皆がぎょっとして湘雲を見ました。孟氏も李氏も驚いて目を見開いています。誰もこの場に湘雲がいたことさえ忘れていたようです。侍女達がこそこそと言葉を交わします。何かひどくまずいことを言ってしまったようです。

 湘雲が目を泳がせていると、惜春はゆっくりと立ち上がって湘雲をその大きな瞳でしかと見つめました。湘雲は思わず息を呑みます。そうすると惜春はにっこりと微笑みました。

「さすが、たくさん本を読んでいろんなことを知ってらっしゃるのね、お姉さま」

「別に、好きなように色んな本を読んでいただけで…」

 湘雲が慌てて言葉を返すと、惜春は口元に手をあててくすくすと笑いました。

「女仮人のこともお分かりになるなんて、やっぱり歯が同じだと気になられるのねえ」

 侍女達がわっと笑いました。すぐには惜春の言葉を理解できなかった湘雲でしたが、すぐにその意味するところに気づいて顔がさっと赤く染まりました。惜春は、湘雲が歯を抜いていないことをからかったのです。惜春、と母の孟氏がとがめるように名を呼びました。はあい、と応えた彼女は、立ち尽くしている湘雲を一瞥して優雅に屋根の下に戻っていきます。呆然と庭に立ったままの湘雲の長い袖の裾を引っ張るものがありました。我に返って見下ろすと、それは春梅でした。まだ目は涙に濡れていますが、むしろ湘雲を不思議そうに見つめています。湘雲はぐっと腹に力を入れて、息を吐きました。

「さあ、春梅も一緒に戻りましょう」

思ったより声が震えてしまいました。自分でもびっくりしてしまいます。春梅は湘雲の何かを悟ったかのように、こくんと頷きました。

 夜、部屋でひとりになっても湘雲は気分が悪いままでした。今までも知らないところで色々と歯のことなどを言われていたことは薄々知っていましたが、面と向かって言われたことは初めてでした。しかも女仮人のようだなどと言われたのです。いくらなんでも酷い言い様です。一向に寝る気になれず、寝台の上でごろごろと寝返りをうちながら、湘雲は自分について考えてみました。

(確かに私は相当おかしな状況だわ、歯も抜いていないのにもう十九になってしまうし、お父様ももういないし…)

 父親とともに好きなものに囲まれて暮らしていた日々のことがどうしても思い出されてしまいます。父が亡くなってからは何かと身辺が騒がしく、この一月は新しい生活に慣れるのに精一杯でした。しかし、今晩はいい加減、これからの自分について考えざるを得ません。今はとりあえずこの伯父の屋敷に住んでいますが、この後どうなるのでしょうか。どこかへ嫁に行くこととなるのでしょうか。歯のある娘が嫁に行くことは可能なのでしょうか…?壁の隙間を通り抜けていく風の音が、耳について眠れません。それでも無理やり目を瞑っていると、そのうちに寝てしまいました。その晩、湘雲は夢を見ました。夢の中では、父親がシマを撫でてどこかへ連れて行ってしまいました。

 それからさらに一月ほどが過ぎ、日中は暑いと思う日も多くなってきた頃、湘雲は正夫人である孟氏に呼び出されました。孟氏の部屋に行くと、珍しくそこには伯父の珍もいました。二人とも、繊細な彫刻の施された椅子に座り、孟氏は背に繊細な青と緑と金の刺繍で飾られた座布団をあてています。風通しがよくなるように窓は全て開け放たれており、日除けの薄い麻布が風になびいています。珍伯父にはこの屋敷に来て以降ほとんど直接会う機会がありませんでした。商売が忙しい珍伯父は奥に来る日も多くは無く、来たとしても夫人や子ども達と会うだけで、湘雲にまで顔を見せることはなかったのです。恰幅がよくいかにも気前がいい商人といった風貌の珍伯父は、頬を赤くてかてかさせていて機嫌がよさそうです。湘雲が部屋の入り口でまごまごしていると、珍伯父はおおらかに笑って二人の前の椅子を勧めました。

「おじさま、お久しぶりですわ」

「本当にそうだとも。楽しく過ごしているかね?」

「ええ、おばさま方もお姉さま方も皆優しくて」

ははは、と珍伯父はまたしても大きな声で笑いました。孟氏も一緒に体を揺らして笑います。本当は、惜春に嫌味を言われて以来ほとんど誰とも喋っていませんでしたが。湘雲がこの一月にしたことといったら、たまにこっそりやってくる春梅を、部屋で思いっきり走り回らせることくらいでした。

 ひとしきり笑ったあと、珍伯父はさて、と本題を切り出しました。

「さてね、湘雲、お前ももう今年には十九になるだろう。わかっていると思うが、結婚するのに決して早すぎるということはない」

珍伯父を見たときから何か重大な話でもあるのだろうと踏んではいた湘雲だったので、これだけではそれほど驚きませんでした。

「そのとおりですわ、おじさま」

少し緊張した面持ちでそう応えます。珍伯父はうんうんと頷きました。

「そこでね、伝手をいくつか頼ってみたところ、海産物問屋の王さんがお前を第四夫人にと言ってきたんだよ」

どうだい、と珍伯父は湘雲に少し不安そうに聞きました。海産問屋の王さんというのは、このお屋敷にいる間に一回だけ耳にしたことがありました。李氏が夕食時に、もうすぐやってくる今年の夏至節では燕の巣を使いたいという話をしたときに、それなら王さんのところから仕入れるのがいい、と侍女の誰かが言っていたのです。

「…とても、ありがたいお話ですわ、おじさま」

口から出た言葉は、湘雲の頭のどこか遠くから勝手に発せられたようでした。実際、湘雲はまるで何も感じていませんでした。珍伯父は孟氏と顔を見合わせて安堵の表情を浮かべました。

「そうなんだよ湘雲、本当にいい話なんだ。お前も知っていると思うが、王さんの家はそれは裕福でね。きっと大事にしてもらえるだろう。もちろん持参金などは私たちが用意してあげるからね。何も心配はいらないよ」

「本当よ湘雲。それにね、結婚前にはお前の抜歯のお祝いもやってあげようと思っているの」

ぼんやりと二人の話を聞いていた湘雲でしたが、抜歯と聞いてはっと目を開きました。

「本当ですの、おばさま」

「本当ですとも」

孟氏は力強く頷きました。

「お前の父親はこういってはなんだけど、お前にとっていい親ではなかったわ。抜歯式もしてやらず、一体お前をどうするつもりだったのか…だからね、結局こうなってよかったのかもしれないと思っているのよ」

「そうなのだよ湘雲、私たち一族もね、みんなあの珊のことをおかしなやつだと思っていた。だから一人娘のお前を心配していたんだ。しかしもうこれで大丈夫だ」

 にこにこと笑う二人の前で、湘雲はありがとうございます、と頭を下げました。

 自室に戻る間も、湘雲はなんだか地に足がついていないような心地でした。結婚、それはあまりにも妥当な将来で、誰に聞いてもそうするほかないというものでした。湘雲自身もそう思います。第四夫人というのが気にかかりますが、別にそれほど珍しいことでもありません。それに両親も既に亡く財産もない湘雲のような女であっては仕方がありません。湘雲は、自室に戻るやいなや寝台に飛び込むように寝転がりました。

「持参金を出してくれる裕福な伯父さまがいるだけでもありがたいわ」

口に出してそう言ってみます。確かにそのとおりでした。言葉にするとものすごく説得力が増すように思えます。

「伎楼に売られてもおかしくないのにお嫁に行かせてもらえるなんて、とっても恵まれてるのではないかしら」

そのとおりだ、と自分の中に声が響きます。自分に言い聞かせるというのはとても効果があるようです。それに歯も抜いてもらえるというからこれは大層ありがたいことでした。お前の親はおかしかったと孟氏は言いました。それは確かにそのとおりです。湘雲は久しぶりに、父親のことを考えました。ある日突然、死んでしまった父親。いつも湘雲には優しい父親でしたが、どうして抜歯を絶対にさせなかったのでしょうか。歯が揃った娘では碌な結婚はできないことくらい、父親にもわかっていたでしょう。そうならなおさら、父親が湘雲をどうするつもりだったのでしょうか。自分は娘より長生きするから大丈夫だとでも思っていたのでしょうか。考えても、頭の中に浮かぶのは微笑む父親の姿ばかりでした。

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