幻京人虎奇譚―渡りて行きし物語―

くるくる

第一章 湘雲、虎に会う

第1話

 えいの都である楽安らくあんで、一人の女の子が生まれました。今から十八年前のことです。まるまるとしたその赤ん坊はしょううんと名づけられました。父親であるさん氏は裕福な商家の三男で、商売はからきしでしたが、詩を詠んだり画を描いたりするのは大好きな、優しく少し変わり者の男でした。母親も優しい人でしたが生来病弱で、湘雲が幼いころに病で亡くなってしまいました。

 史珊氏は実家の資金を頼りに本や書画を収集し、それらを人に貸したり時には詩や書画の代筆をしたりして生計を立てていました。ずばぬけた才能があるわけではありませんでしたがそれなりの腕前だったようで、家には本や書画を借りに、あるいは代筆の依頼をしに、多くの客が訪れていました。客のほとんどは科挙の受験生や合格後も役職にありつけない人々などでしたが、それなりに出世している人も中にはいたようです。父と彼らは夜中まで酒を飲んでは語り合うこともしょっちゅうでした。父は親戚づきあいはほとんどしていませんでしたが、友人と呼べる人はそれなりにいたということです。そのため、ものすごい贅沢ができるわけではありませんでしたが、特に食べ物や着る物に困るということもなく、父の大きな愛に包まれて湘雲はすくすくと育ちました。史珊氏は妻が死んでからさらに湘雲のことを溺愛し、湘雲が興味を持った本や書画はすべて湘雲に与えました。おかげで、普通だったら女子は読む機会もないような本まで手当たり次第に思うままに読むことができましたし、わからないところは父に教えてもらうこともできました。父とほぼふたりっきりの生活でしたが、本を読み、絵を描き、いくらでも空想に遊び、湘雲はあまり寂しいと思うこともありませんでした。そうやって湘雲はのびのび育ちましたが、ひとつ問題がありました。湘雲の父親は優しいけれども変わり者、とさっき言いましたがどのように変わっていたかということについてはまだお話していませんね。それはつまりこういうことです。

 栄には、女子は皆、歯が生え変わると上下の前歯を抜くというしきたりがありました。ですから栄では大人の女性は皆、笑うと口の中がぽっかりと空いているのです。それこそが大人の女性になった証しであり、栄の男性にとってはぽっかりと空いた空間は、たまらなく美しく見えるものでした。

 しかし、湘雲はもう十九歳になるというのに、歯が上下ともしっかり揃っていました。湘雲を溺愛していた父親が、歯を抜くとかわいそうだと言って譲らないのです。年の頃を迎えた湘雲がどんなに頼んでも、父親は決して許しませんでした。そんなわけで、湘雲が笑うとびっちりと揃った歯が並んでいるのが一目瞭然でした。それを見るたびに史珊氏は満足そうに優しく微笑みました。

「歯を抜くのはとっても痛いぞ。そんな痛い目をわざわざ見なくてもよいではないか。心配することはない、お前は今のままでも十分かわいらしいのだから」

父親にそう言われて逆らえる娘はいません。湘雲はそのたびに仕方なく、「そうですわね、お父様」と言って引き下がるほかないのでした。

 そうは言っても、湘雲も十八、いい加減結婚についても考えなければならない年です。親戚や近所の同年代の女の子達はどんどん縁談が決まっていきます。侍女のちんは、誰かの縁談の話を仕入れてくるたびに、まるでこの世の終わりのごとく目に涙を浮かべて騒ぎました。

「かわいそうなお嬢様、ご主人があんなお人だから歯も抜いてもらえずに…歯のある娘を嫁にとってくれるお人なんかありゃしないのに、一体ご主人は何を考えておいでなのか」

「珍花、お父様を悪く言ってはよくないわ」

「ああ、申し訳ございません。でもお嬢様、歯が全部しっかりあるだなんて、これじゃまるで北の人じゃありませんか」

大げさに珍花は騒いでみせます。湘雲は溜息をつきました。

「珍花だってじょ人のことを本当に見たことは無いんでしょう?もしかしたら女仮人だって歯を抜いているかもしれないわ」

女仮とは北にある異民族の国です。六十年前の戦乱で、栄は領土の北半分を女仮に奪われてしまいました。女仮人はそれはそれは野蛮で恐ろしい人々で、男は不思議な形に頭を剃って虎を使い、女も歯を抜かず馬にも乗ると言われています。当時の栄の都であったけいほうが陥落した際には、皇帝の一族をはじめとして多くの人々が殺されたほか捕虜となって北へ連れ去られました。花と例えられた都が燃え落ちる様はまるで地獄のような光景だったそうです。それ以来、栄の人々の女仮への恐れと憎しみは増すばかりでした。とはいえ実際に戦乱があったのはもう昔のこと、今では実際に女仮人を見たことがある人間は、軍人を除けば年寄りばかりです。北方からまた女仮が攻めてくるという危機感も段々に薄れていました。湘雲の一族はもともとこの南側の都市で現在の都である楽安を本拠としていたこともあり、実際に女仮人を見たことがあるものはいませんでした。

「そりゃ見たことなんかありませんけど、とんでもない野蛮人だっていうのは誰だって知っていますよ」

珍花はまるで見てきたように確信を持って言います。

「それに最近、妙な噂があるんですよ」

珍花は声をひそめました。

「妙な噂?」

「最近、女仮人が都に入りこんだんじゃないかというんです」

「どういうこと?」

湘雲が顔をしかめると、珍花は口にするのも恐ろしいと体を震わせてから、さらに湘雲に近づいてとてもとても小さな声で恐ろしげに続けました。

「虎が出るっていうんですよ」

「虎?」

 湘雲に、珍花はゆっくりと頷きました。

ここのところ、科挙の受験生や官僚が襲われる事件が多発しているというのです。襲われた人たちはみな優秀だと評判のものばかりで、深夜にひとり道を歩いていたところ突然後ろから襲いかかられたということでした。命からがら逃げ延びた人の話では、耳元でなにか獣の鳴き声を聞いたとか。そして確かに彼らの体には、何かとても大きな獣に噛まれた跡が痛々しく刻まれていたのでした。楽安には馬や牛、駱駝をはじめとして犬や猫など様々な動物がいます。不幸にも野良犬に噛まれて死ぬ人はたまにいますが、襲われた人々の噛まれた跡は、とても犬とは思えない大きさらしいのです。それほど大きく獰猛な動物がいるなんて楽安はもちろん周辺の村でもありえないということで、人々はそれを虎ではないかと恐れているのでした。六十年前の戦乱のときには、女仮人の操る獰猛な虎に多くの兵士が噛み殺されました。今回のこの事件も、女仮人が都に侵入し、虎を使って人々を襲っているのではないか。そのような噂で今都はもちきりだというのです。

「それに朝お隣のお屋敷の召使から聞いたのですが、なんとついに死者が出たそうなのですよ」

珍花は低い声音で訴えました。

「ご主人のお友達にしゅくたつ様っていらっしゃるでしょう。その方だそうで。昨日、夜に一人で歩いていたところをガブっとやられてしまい、運悪く朝まで誰も通りかからなかったものだからそのまま…」

そのとき、にゃあ、と湘雲の足元から鳴き声がして珍花はひいっと飛び上がりました。

「何ですか今のは!?」

「シマよ、いい加減慣れてちょうだい」

湘雲は猫を抱き上げました。虎のような縞模様をしているので「シマ」と呼んでいます。父親が二か月ほど前に気まぐれに拾ってきたのですが、珍花は猫が苦手なのでした。湘雲はシマを赤子をあやすように揺らしながら、どこに行ってたの?とシマに尋ねました。昨日は夜になっても帰ってこなかったからです。珍花はシマを威嚇するように睨みながら、まさかお前が司馬様を食ってしまったんじゃないだろうね、と言いました。その名前には湘雲も聞き覚えがありました。何度か父のところに遊びに来ていたので、たしか挨拶したこともあります。丸顔でぼんやりとした無口な人という印象でした。多分いい人だったのでしょう。科挙を何年も受け続けているようでしたが、ついに合格することもなく死んでしまったとはかわいそうなことです。自分の知っている人が死んでしまったと聞くと、さすがに湘雲も少し恐ろしく感じました。

「まあ、不運な方だったのね」

「そうでしょう!本当に恐ろしいですよ。何の罪も無い人を襲って殺すなんて、女仮人というのはまあなんて残酷で恐ろしい奴らなのか…」

そして珍花は、歯を抜かずにいればそんな野蛮な連中と同じになってしまうと、心底悲しく悔しい様子でいつもこう言うのでした。

「なんてあわれなお嬢様!」

シマがにゃあ、と呑気に返しました。

そういう珍花には既に飽き飽きしていましたが、自分で侍女を諌めておきながらも、しかし湘雲とて自分の将来に興味がないわけではありませんでした。自室の窓から晴れやかな空を見上げながら、湘雲はふと物思いにふけります。父親は湘雲のことをかわいいと言いますが、しかし実際のところそれは親の欲目です。それくらいのことは湘雲にもわかっていました。珍花の言うとおり、歯を抜いていない娘が結婚できる可能性は低いでしょう。いっそ珍花に歯を抜いてもらおうかとも何度か思いましたが、女子が歯を抜くというのは単に抜くだけはいけないのです。しかるべき抜歯師を呼び、父親の名のもとに歯を抜き、その日は親族も招いておおいにお祝いします。湘雲も従兄弟のお祝いには行ったことがありました。抜いた歯は結婚式の日まで大切にとっておき、夫に自分の貞節の証しとして送ります。お金の無い家は抜歯師を呼べないので自分で抜くこともあると聞きますが、それは特に湘雲の一族のような裕福な人たちの間では、恥ずべきことだとみなされていました。このままずっと結婚せずに一人で実家に留まるのだろうか。湘雲はそのような人生を考えてみます。父親は変な人間ではありますがしかし湘雲にはとても優しい父親ですし、そんな父親は手伝いながら自由に本を読んだり書画を眺めたりしながら空想にふける生活は、実のところ嫌ではありません。むしろ、結婚すればその家の家事をとりしきったり親戚づきあいをしたりしなければなりません。子育てもしなくてはいけませんし、とても今のように好き勝手に暮らすことはできないでしょう。それを考えると結婚できなくてもいいのではないかと楽観的な気持ちになりますが、しかしそうやって世情に疎い湘雲でも、いつまでも実家に留まっている女というのがそうそういるものではないことは知っていました。珍花は、そういう女は大体道院か浮教の寺送りになるのだと言います。

「ねえ、私どうしたらいいと思う?」

湘雲は膝の上で寝ているシマを撫でながら聞いてみました。しかしシマは心地よさそうににゃあと鳴くだけでした。

 そんな湘雲の悩みは、春のはじめのある日に突然吹き飛びました。父親が亡くなったのです。風邪をこじらせてのことでした。前日までは「あと一日寝ていればよくなるだろう」と湘雲も珍花も考えていたのに、その日の夜のうちに言葉を交わすことができなくなり、そのまま次の日の昼を待たずに亡くなってしまったのです。あまりに思いがけない急な死でした。葬儀は父親の兄弟がだしました。湘雲自身はわけもわからないままあっという間に様々な儀式は終わってしまい、そしてすべてが終わったときに湘雲は気づきました。いきなりひとりぼっちになってしまったのです。

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