第十一章 六十年前の都
第21話
二日後、一行は啓封を目指して舒州の街を出発しました。三人の兵士も変わらず一緒です。発の朝は晴れていました。ずっと城庁のなかにいたので気づきませんでしたが、街を歩いているとどこの店の軒先にも若稲の房のようなものが何本が結ばれて飾られています。あれはトラオ草だよ、と斉家が湘雲に教えました。
「トラオ草?」
「虎の尾っぽみたいだからトラオ草って呼ぶんだって。明後日が立秋だから、皆それにあわせて飾ってるんだ」
「栄にはそんな風習は無かったわ。そんな草の名前を聞いたこともないし…」
それはそうでしょうね、とエメチが馬の上から言いました。
「太祖が虎に導かれて啓封を落とした日が立秋だったことから、晴の繁栄を願ってトラオ草を飾ることになったの。栄でそんなことはしないでしょうよ」
なるほど、確かにそのとおりです。通りでトラオ草の飾りを売る行商人を見つけたので、湘雲は頼んでひとつ買ってもらいました。青々としてふさふさとした房は、確かに虎の尾のようと言われればそうです。八郎はそれを見て、東向ではこれは「猫じゃらし」と呼ぶと言いました。これを猫に与えると喜んでじゃれつくのだそうです。
「トラオ草、たくさんある、しかし虎人参全然売ってないよ」
八郎は拗ねたようにトラオ草をくるくると回しました。
「そもそも上佳出身の俺ですら本物を見たことがないからなあ。出回ってるのだって大体偽物だし、もうそれでいいんじゃないか?」
斉家は言いましたが、八郎は険しい顔で首を振ります。斉家もそれ以上は言いませんでした。
相変わらず、広大な荒野と畑のなかを進んでいく旅です。暑いのも相変わらずでしたが、歩いているとふとした瞬間に涼しい風を感じることができます。楽安では立秋はまだまだ暑く、暦の上では秋の始まりと言われてもぴんときませんでしたが、中原ならば確かに秋の始まりを感じることができることに湘雲は感心しました。ちょうど六十年前の今頃、啓封は女仮の大軍の前に陥落したのです。湘雲は虎をちらりと見ました。虎はおとなしく一行に従っていました。誰とも話しません。城庁での出来事を湘雲は思い出します。暗闇でただの獣になることを恐れて泣いていた虎。虎がこのままただの獣になってしまったら、屈閣や彝兀や鬻渾はどうなってしまうのでしょう。消えていなくなってしまうのでしょうか。夜になっても、虎は布付きの笠をかぶったままでした。あの夜から、虎と一度も顔を合わせていません。
そうして翌日秋分の日、一行の目の前についに啓封が見えてきました。荒野の向こうにでこぼことした土色の城壁がそびえています。崩れかけているのが誰の目にも明らかです。そして、見渡す限りが紅色に染まっていました。シャジク草が一面に咲いているのです。なんだこりゃ、と斉家が声をあげました。
「シャジク草がこんなに咲いてるのなんて見たことないぞ」
気味が悪いな、と斉家は顔をしかめました。確かに、美しく鮮やかな紅色は逆に不気味です。
(あそこに行けば、何がわかるのかしら)
湘雲はいびつな形の城壁を見つめました。期待と不安がないまぜになった胸が高鳴ります。
城壁まであと少しのところまで来たとき、アバハイが急に一行の歩みを止めました。
「どうしたんです、隊長」
斉家が尋ねました。アバハイは斉家には応えず、厳しい顔つきで前途を睨んでいます。
「誰かいる」
そう言われて皆も目をこらしました。あっと湘雲は声をあげました。確かにいます。崩れかけた門の前に人影が見えます。
「潜伏盗賊か何かかもしれませんね」
エメチが言って剣に手をかけました。
「私が先に行って様子を見てきましょうか」
「いや、盗賊にしては身なりがいいようだし、仲間もいないようだ。もう少し近づいてみよう」
アバハイは三人の部下の兵士にはそこに留まるように命じました。
「何かあったら一人は私のところに、二人は舒州に戻れ」
低い声でアバハイは言いつけます。兵士たちはぴしりと頷きました。
ゆっくりと歩いていくにつれ、人影がよく見えてきました。栄の文人の服装をし冠をつけた若い男性です。にこにことしていますが、それがあまりにも場違いなため逆に不気味です。そうしてその人が、知った顔であったことに湘雲はびっくりしました。
「司馬叔達様!?」
そうです。父の友人の、司馬叔達です。なんでこんなところにいるのでしょう。
「知り合いか?」
斉家が驚いて聞きました。
「ええ、父の友人で確か先月楽安で…」
そこで湘雲はあることに気づいてぞっとしました。全身の血がさっと引いて鳥肌がたちます。
「先月、楽安で虎に食われて、死んだと聞いたわ」
これにはさすがにアバハイも、ほかの全員も皆目を丸くしました。司馬叔達は、にこにことしたまま口を開きました。
「久しぶりですね、湘雲さん。お父様は元気ですか」
まるで偶然通りかかった際に声をかけたというような呑気な口調です。湘雲は戸惑って、思わず「はあ」と答えてしまいました。
「あの、ええと、父は春に亡くなりました」
「なんとまあ、そんなことが」
お気の毒に、と司馬叔達は悲しそうな顔で言いました。ちょっと湘雲、と苛立った声をかけたのはエメチです。
「何普通に会話してるの!そんな場合じゃないでしょ!」
「それはそうだけど、でもほかになんと言っていいかわからないわ!」
「どう考えてもおかしいじゃない!」
「そんなこと言われたって困るわよ!」
二人が言い合っているところに八郎が大声で割り込んできました。
「おい、湘雲殿!何かおかしいぞ!」
「そんなのわかってるわ!」
勢いよく振り返ると、司馬叔達は悲しそうな表情のままゆらゆらと揺れていました。その周りを、何か紫色の雲のようなものがぐるぐる取り巻いています。確かに変です。
「そうですか、お亡くなりになりましたか。私を殺した報いでしょうなあ」
司馬叔達は言いました。まるで飼っていた金魚が死んだような軽い口調ですが、聞き捨てならない内容です。「私を殺した」ですって?
「あの方が言ったのですよ、ちょっと怖がらせてやりましょうってね。あの方が提案したんです。それに韓忠臣様も賛成してくださいました。ほら、去年今の宰相様に陥れられて政界を追われた韓忠臣様ですよ。女仮に出兵して北を取り戻すべきだという韓様の意見には私も賛成でしたから。今の皇帝はてんで駄目です。女仮を怖がるばかりで、宰相の言うままに屈辱的な講和を結んで…」
よく見ると、司馬叔達はぺらぺらの体をしていました。そのぺらぺらの体が勢いよくぐわんぐわんと左右に気味悪く揺れます。
「私はまだ科挙には二度しか落ちていないんだ…私はきっと次は合格できるはずだったのだ…それなのに死んだ…死んだ…死んでしまった…死んでしまった!」
司馬叔達が叫ぶと同時に、ぐるんと宙で一回転しました。
次にこちらに顔を向けたとき、その顔は先ほどとは変わっていました。湘雲はそれを見て、あまりにも驚いて声を出すこともできませんでした。口をぱくぱくさせることしかできません。
「お、お父様!?」
やっとそれだけ言うことができました。久しぶりに見る父は少し青白い顔をしていました。
「湘雲や、どうしてこんなところにいるんだい?」
声も記憶にある父親の史珊氏そのものです。湘雲はすっかり混乱してしまいました。
「どうしてって、お父様こそどうしてここにいるの?」
思わず問いかけると、史珊氏は悲しそうな表情を浮かべました。
「お前はどうしてお父さんをおいて楽安を出てしまったんだい? ずっとお父さんとふたりで暮らしたいと言っていたではないか」
切羽詰った声でした。湘雲は父のそんな声を聞いたことがありませんでしたから、そんな風に言われるとまるで自分が悪かったように感じてしまいました。確かに父とふたりで暮らしていたときはそういうふうにも思っていました。しかし今はもうそういうわけにはいかないのです。
「私をひとり置いて先に死んでしまったのはお父様のほうだわ」
湘雲は言いました。
「それから、本当に色々あって大変だったの。殺されかけたのよ。けれど、色んな人に助けてもらってなんとかここまで来られたわ。それに殺されかけたのはお父様のせいでもあるのよ。お父様が私の歯を抜いてくれなかったから…」
「歯を抜くことは許さんぞ!」
史珊氏が突然大声で言いました。父親がこんな風に大声で怒鳴るのも湘雲は聞いたことがありませんでした。初めてのことにどうしていいかわかりません。
「歯を抜いたらお前が嫁に行ってしまう。湘雲や、お前が私を置いてどこかに行ってしまうなんで絶対に駄目だよ。大体この世はおかしなことだらけだ。私は科挙に落ちるし、親戚は皆お前の歯を抜いて嫁に出せと言うし…」
何言ってんだ、と斉家が呆れたように言い返しました。
「科挙に落ちたのは自分のせいだろう。それに娘は犬や猫じゃないんだぞ、好き勝手にしたいと思うのが間違ってるよ」
「やかましい!」
史珊氏は激昂しました。突如、その背後からぶわりと風が巻き起こりました。
「私の学説を間違っていると言った
声は空気を震わせて辺りに響きます。風が強いので目を開けているのが難しいほどです。どうしてだ、どうしてだ、許さない、許さない……恐ろしく恨みのこもった声が一行を包みます。
「やめて、お父様」
湘雲は耳をふさぎました。史珊氏はずっと、ただただ優しい父親でした。まさかこんなに鬱屈とした気持ちを抱えていたとはちっとも知りませんでした。科挙だって、一度挑戦したきりだったと聞いています。湘雲はてっきり、父親は官位や出世には父親は興味が無いのだと思っていました。歯を抜くのに反対していたのだって、単に湘雲を痛い目に合わせたくないだけだと思っていました。本当はずっとこんな風に思っていたのでしょうか。
そのとき、エメチが叫びました。
「湘雲、しっかりしろ!そいつは本物のお父さんじゃないよ!」
湘雲ははっとしました。そうです。父親は死んだのです。意を決して父を見つめました。
「お父様は死んだわ。あなたは何なの?」
湘雲が強くそう言うと、父親の顔がまるで墨を水に溶かしたときのようにぐにゃぐにゃと歪みはじめました。風が一段と強くなります。
「下がってろ!」
斉家が前に出ました。手には数珠を持っています。何やら経を唱えて印を結んだ手を突き出すと、父親だった姿はぶわりと膨らみ突風が吹き抜けました。目を開けたとき、門の前に立っていたのは若い男性でした。もちろん司馬叔達ではありません。知らない人です。しかし、それにしてはどこかで見たことがあるような気もします。男性は、穏やかに微笑みました。
「私にはそれは効かないよ」
表情と同じように温和な声です。一体誰でしょう。
「……袁傪」
そう言ったのは虎でした。虎は被っていた笠を脱ぎ捨て、前に出てきました。おい、と斉家が声をかけますが全く聞こえていないようです。袁傪!?あの男が、袁傪なのでしょうか。
「変わったけれど変わらないね」
虎は信じられないといった様子です。小さな声で「何故こんなところに」と言いました。その声は震えています。袁傪は表情を崩さず、ふふ、と笑いました。
「びっくりしただろう」
「びっくりしたとも」
「何故だい?」
「何故って…」
虎は口ごもりました。
「お前がこんなところにいるはずがない」
「何故断言できる?」
「それは…」
虎は黙りました。
「言えないだろうね」
袁傪が言います。虎は唸って頭を抱えました。袁傪は微笑みを絶やしません。
「言えるわけがない、何故なら…」
突然不思議なことが起こりました。袁傪の背後の門がおおきくゆらゆらと揺れはじめたのです。城壁もまるで炎が燃え上がるように膨らみ、崩れていたはずの部分がなくなっていきます。
「見ろ!あれはなんだ」
八郎が指さした先、袁傪の背後の門に灯りがともりました。灯りはどんどん増えていきます。湘雲は気づきました。崩れていた啓封の城壁と門が元の姿を取り戻しているのです。やがて、声が聞こえ始めました。地の底から響くような声です。詩でした。紫の虎が詠っていた詩です。袁傪が詠っているのです。すると、ぎいい、と音を立てて門が開きました。中から光があふれてきます。虎がいきなりがるると唸って地面に這いました。袁傪を威嚇するように睨みつけています。湘雲は驚いて虎に駆け寄ろうとしましたが、次の瞬間虎が四つ足のまま駆け出しました。袁傪に向ってまっすぐ走ります。袁傪は全く逃げる様子もありません。あわや衝突というとき、袁傪の姿がふっと後ろに遠ざかりました。虎は袁傪を追います。そのまま虎と袁傪は啓封のなかに入って行ってしまいました。
「追うぞ!」
アバハイが馬を駆って真っ先に走り出しました。エメチが続きます。残された三人は慌てて後を追います。二人は躊躇なく門の向こうに消えていきました。門の向こう側はやはり見えません。
「入ったらいきなり死んだりするのは嫌だな」
走りながら斉家が言いました。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず!」
八郎が叫んで中に飛び込みました。斉家も続きます。湘雲は目をつぶってえいっと中に入りました。
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