第十二章 過去の亡霊と虎が隠したかったこと
第22話
中に入ると、信じられない光景が広がっていました。なんと、人がたくさん行き交っています。ものすごく賑やかでまるで楽安のようです。
「一体どういうことなの?」
「わからん」
斉家が言いました。途方に暮れているようです。
「それにアバハイ隊長達の姿が見えない」
啓封の街はすっかり崩れ果てているはずでしたが、どうしたことでしょう。きょろきょろと辺りを見回して、湘雲はここが楽安のようだと思った理由を悟りました。行き交う人々が皆楽安と同じような、つまり栄人の服装をしているのです。そして聞こえてくる言葉も栄語です。
「みんな、俺達見ていない」
八郎が言いました。確かに皆が湘雲達を無視しています。無視というよりどうやら見えていないようです。今見えている人達は皆幻なのでしょうか。そう湘雲が言うと、斉家は苦虫を噛みつぶしたような顔をしました。
「どうだろうな、もしかしたら俺達のほうが幻かもしれない」
ふいに、近くで何かがちらりと動きました。見ると、猫です。縞模様の猫です。猫は湘雲に向ってにゃあと鳴きました。
「シマ?」
驚いて湘雲は思わず言いました。猫は人懐っこく湘雲を見つめてきます。とてもシマに似ています。まさか、本当にシマなのでしょうか。つい、湘雲は猫のほうに一歩踏み出しました。そのとき後ろから名前を呼ばれた気がしました。何かと振り返ると、なんと斉家と八郎がいません。なんということでしょう!
「罠なのかしら」
湘雲が話しかけると、猫はにゃあと鳴いて走り出しました。どう見てもシマに見えますが、確証はありません。一瞬迷いましたが、ここで立ち止まっていてもどうしようもありません。湘雲は猫を追いかけることにしました。
街はとても賑やかで、道には人々があふれています。しかし湘雲がぶつかることは一度もありません。猫はずんずん進んでいきます。道端のあちこちはシャジク草が咲いています。猫は街角を何度も何度も曲がり、ある書堂の前で止まりました。灰色の煉瓦の壁に大きく開け放たれた窓は楽安でもよく見る建付けです。中から、子供達が声を合わせて書を読む声が聞こえてきました。猫がもう一度にゃんと鳴きます。中を見てほしいようです。湘雲がのぞくと、中には子供達が十人ほど行儀よく並んで勉強をしていました。前には先生とおぼしき男性がいます。「趙先生」と子供が先生を呼びました。
「浮教と気道、そして礼学は三教と呼ばれますが、気道と礼学がわが国の教えであるのに対し、浮教は西方から渡来した教えですね。そうであるのに何故三教と並び称されるのでしょうか」
こんな議論は父達も盛んに行っていました。随分利発な子です。先生は満足そうに微笑みました。
「袁傪、それはもっともな問いだ」
袁傪ですって!?湘雲は目を丸くしました。そうして言われてみれば、子供は確かに城壁の前に現れた男と同似た顔立ちです。子供たちは湘雲のことなどまるで気づきません。袁傪の隣の子供が勢いよく手を挙げました。先生が名前を呼ぶ前に、子供は得意げに話しだしました。
「先生、浮教は西方の異民族の教えであり、礼学どころか気道にも劣ると思います。浮教を信じている人は今すぐそれをやめて礼学のみを学ぶべきです」
「うーん、
先生は柔らかく再考を促しました。
「礼学は確かにこの世で最も正しい学問であるが、しかし人を治め国家を論じるためにある。一方浮教は個人の心の在り方を論ずる。それぞれに違う役割があるのだ。それに浮教はわが国に入って長い。既に我らの教えといっていいのではないかな」
なるほど、と湘雲は思いました。しかし李徴と呼ばれた子供は食い下がります。
「しかし先生、心の在り方に迷うのは心が弱いからです。礼学をきちんと修めれば、迷いなどなくなるはずです。徳は自然と備わると言うではありませんか」
先生は困った顔をして、傪はどう思う?と尋ねました。すると袁傪は一度考えてそれからゆっくりと口を開きました。
「学問を修め自然と徳を備えることが最もよいと思いますが、しかし浮教を心の支えとしている人がいるのであれば、それを無理に奪うことはできません。何故ならそれは各人の心の在りようであるからです」
袁傪の言うことはもっともで、李徴という少年もそれ以上は何も言えず下を向きました。喧嘩になるかしら、と湘雲ははらはらします。しかし、袁傪は隣の李徴に向き直ると言いました。
「でも、本当はみんなが徴のようになれたらいいと思う。できない人が多いけれど、本当は徴が正しいよ」
李徴は虚をつかれたのか、ぽかんとして袁傪を見ました。袁傪はそれを見て笑います。李徴もすぐに笑いだしました。湘雲もほっと胸をなでおろしつつも微笑ましい気持ちになりました。心配するまでもなく、二人はいい友達なのです。先生も笑っています。
「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや、と言う。友達は何よりも大事なものだ。二人とも、お互いを大事にしなさい」
先生の言葉に、二人はそろって頷きました。
突然強い風が吹きつけ、湘雲は顔を覆いました。次に目を開けると、目の前には成長した袁傪と李徴、そして趙先生の姿がありました。三人は、今啓封で宰相が進める改革について議論を交わしていました。
「私は実務は官僚には必要ないと思います」
と李徴は言いました。強気な口調は相変わらずでむしろより自信がついたようです。先生はうーん、と顎に手をあて考えました。
「しかし徴、実際に現場で実務がわからず、結果何十年も実務を行っている現場の役人に指示を無視されたり逆にいいように扱われたりということが起きている。そうなっては元も子もない」
「そうでしょうか、私はそうは思いませんが」
「徴の言うことも一理ある」
袁傪は言いました。そして思慮深く続けました。
「学問を学んで徳を備えていなければ、実務の正誤を考えることもできません。役人がやっていることの正誤が判断できなければ、どうすべきかを決めることすらできません」
なるほどねえ、と湘雲は思いました。趙先生も頷いています。そして湘雲は、話題になっている宰相の名前を聞いたことがありました。湘雲は気づきました。今自分は、過去の啓封の姿を見ているのです。あの子供が湘雲達の探していた袁傪その人で、先生は趙徳父なのです。
そこへ、女性と袁傪達と歳のころが同じ女の子が現れました。
「あら、実務も徳も、両方兼ね添えればいいのだわ」
女の子が言いました。「
「徴さんは少し理想の追求が過ぎるところがありますわ。一方で傪さんは現状を認めすぎるきらいがありますわね」
漱玉は容赦なく二人に向って言い放ちました。これには湘雲もさすがに驚きました。袁傪はたじろぎ、李徴は「女のくせに生意気だ」と激怒します。しかし漱玉は怖気づくどころか胸を張ってこう言いました。
「女だから男より頭の出来が悪いなんてことないわ。お父様が一番よく知っているのではなくて?」
ねえ、と女の子は母親である易安居士にいたずらっぽく笑いかけます。これには趙先生もたじたじになったようでした。易安居士がときに夫をも凌ぐ学者であったことは湘雲も本で読んだことがあり有名です。李徴は悔しがり、袁傪は大笑いしました。
窓から見える場面はめまぐるしく変わりました。袁傪は優しく思慮深い青年へ、李徴は自信に満ち溢れた勝気な青年へと成長していきました。二人は趙先生の教え子のなかでもとても優秀で、先生も二人に期待していました。袁傪と李徴、そして娘の漱玉三人も男女の垣根を越えて議論を交わし友情を育んでいきました。そのうち湘雲は気が付きました。漱玉が袁傪に熱い視線を注いでいることに。そうでしょうね、と湘雲は思いました。どちらかと言われたら、湘雲だって優しくて穏やかな袁傪を選びます。気になるのは、どうやら袁傪も、そして李徴も、漱玉に好意を持っているように見えることでした。やがて二人は科挙を受けることとなります。李徴は自信満々でした。必ず高位で合格し、出世してみせると意気込んでいます。袁傪は、自分は李徴ほどではないけれど頑張るよ、と控えめでした。
次の場面は、袁傪と趙先生一家が楽し気に話しているところでした。李徴はいません。よくやった、と先生は袁傪の背を叩きました。まさか第三位で合格とは、と破顔します。袁傪が科挙に合格したようです。袁傪は「私の力ではありません。先生のおかげですし、運がよかったのです」などと謙虚に言います。本当にすごいです、と趙先生の横で漱玉が言いました。心なしか頬を赤く染めています。袁傪も褒められてうれしいのか照れた様子です。そんな二人を身ながら、先生が「実は」と切り出しました。漱玉と結婚してはどうだろうか、と。漱玉はますます顔を赤くして母の陰に隠れました。袁傪も何も言えずにただ頬を染めます。「若いわねえ」と易安居士がほがらかに笑いました。二人の結婚はこうして決まりました。これからについて話を弾ませていた袁傪達でしたが、袁傪がふと顔に影を落としました。
「徴がなんと言うでしょう」
「何って、君と娘が結婚することが?」
「はい」
「特に問題はないだろう。徴はいつもうちの漱玉に言い負かされては怒ってばかりじゃないか」
「そうでしょうか」
「そうだとも。今回の結果にしても、徴は二十四位合格で君のほうが上ではないか。実を言えば、昔から私は徴より君を買っていたんだよ」
「あなた、そんなこと言わないのよ」
易安居士がたしなめますが、機嫌のいい趙先生はちっとも意に介しませんでした。ああ、やっぱり先生もそう思っていたのね、と湘雲は思いました。
ざあと風が強く吹きました。湘雲が次に見たのは、袁傪と漱玉がふたりで部屋にいるところでした。緊迫した雰囲気です。「とにかく君だけでも脱出するんだ」と袁傪は漱玉に強く言いました。
「女仮軍はもう都のすぐそばまで近づいているという。野蛮な女仮人が万が一都に侵入してきたら何をされるかわからない。とにかく逃げるんだ」
「でもあなたは」
「私は政府の役職についている以上、それをまっとうしなくてはならない。楽安の知り合いのところを手配してある。お母さまと一緒に頼むから逃げてくれ」
娘は目に涙をいっぱいためて頷きました。そして部屋を出ていきます。入れ違いに趙先生が入ってきました。二人はこれからのことについて話し合います。邯端の街も陥落したようです。気が付くと、湘雲の周りも慌ただしくなっていました。家族連れや女性が大きな荷物を抱えて足早に去っていきます。窓の中には、これまでの部屋とは違う風景が見えていました。お役所らしき建物の外で、人々が走り回っています。袁傪の周りを数人の同僚が取り囲んでいます。「一体どうしよう」と口々に言いあっては混乱しているようです。袁傪はつとめて落ち着いた口調で「とにかく皇帝をお守りして職務を果たそう」と言います。誰かが、李徴が皇帝に女仮軍との全面対決を建議したと言いました。
「陛下ご自身も前線で戦われるべしなどと言っていたよ。それは素晴らしく流麗な上奏だったが…」
「無理だろうな」
袁傪の表情は暗くなりました。
「女仮軍はわが軍の数倍も機動力に長けているし選び抜かれた戦士たちは非常に屈強だ。まともにやりあえば我が軍に勝ち目はない。それに、陛下は戦いを好まれないお方だ。とても前線に出られるようなことは…」
周りの人々も頷きあいました。
「あいつはいつもそうだ、現実にはとてもやりきれないようなことを言い通そうとする」
「全く困った奴だ。こんなときまで現実がわからんとみえる」
まあそう言うな、と袁傪は苦笑して腕を組みました。
「徴も徴でかわいそうな奴なのだ。徴自身が特段間違っているわけではないから、何故自分が違ってしまうのかわからないんだよ。昔からそうだ。本人が悪いわけではない」
同僚たちはさすが袁傪だ、と言いました。話題は次へ移っていきました。窓の外からそれを見ていた湘雲は、袁傪達から見えない建物の影に、人がいることに気づきました。それは李徴でした。目を見開き、ぶるぶると震えています。ああ、と湘雲は口を覆いました。さっきの会話を聞いてしまったのです。
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