第23話

 袁傪たちが去って行った後も李徴はそこに立ち尽くしていましたが、なんとかして歩きだしました。足取りは重く、表情は思いつめています。その姿を見ているうちに、湘雲はあることに気づきました。李徴が一歩踏み出すごとにその足元に黒い影のようなものが生まれていくのです。人型の影は、それぞれに違った形に見えました。歩くごとに影は増え、李徴を取り巻いていきます。黒い中に紫色が時々閃きます。やがて影があまりにも増えて李徴の姿が見えなくなりました。影の塊のなかから、ぐるる、と唸り声のようなものが聞こえました。そう、まるで猫のような……湘雲ははっとしました。もしかして、もしかするとです。そのとき、「どうした?」と声が少し遠くから聞こえました。獣の声が聞こえた、と話す男の声がします。地面を踏む音がして姿を見せたのは手に槍を持った若い見張りの兵士でした。一体なんだろう、と歩いてきた彼は、影の塊を見ました。あっと思った次の瞬間、影が兵士に襲い掛かりました。

 目の前が真っ白く光り、きゃああ、と叫ぶ人々の声が聞こえてきました。たくさんの人が走って逃げていきます。何事でしょう。うろたえていると、湘雲の横にあった木戸がきい、と音を立てて開きました。中からゆったりと出てきたのは一人の男でした。

「あなたは…袁傪さん」

湘雲が男を見ると、男も湘雲を見て微笑みかけてきました。

「ほら、もうすぐ来るよ」

袁傪が前を指さしました。振り向くと、人々の向こうから何か光るものが走ってきます。あれは、と湘雲は目を見開きました。虎です。人々は皆虎から逃げているのです。

 虎は湘雲達の前で止まりました。袁傪は虎を前にしても微笑を浮かべたままです。

「今日は秋分だよ」

袁傪は言いました。虎はゆっくりと顔をあげました。虎は息荒く今にも襲い掛かってきそうです。

「なんの日か、お前が一番知っているだろう?」

そう言うと袁傪の体がぶわりと膨らみました。強い風が吹き、たくさんの影が袁傪の体からびよんびよんと伸びて渦巻きます。いくつもの顔が見えます。

『苦しい、妬ましい』

どの影もそう言っています。趙徳父が書堂から走って出てきたかと思うと、何かに襲われて叫んで消えてしまいました。様々な場面が入れ替わり立ち代わり湘雲達の前に現れては消えます。科挙に何度も落ちたり、詩を酷評されたり、陰口を言われたり、意見を否定されたり、いろいろですが影に映る表情は皆似通っています。そのなかに湘雲は父の顔も見つけました。科挙に合格できず、肩を落とす父の姿。知人が出世していくのを見ているしかない父の姿。そして司馬叔達などと一緒に話している姿。そこにはトラがいました。史珊氏が拾ってきてある日いなくなったあの猫です。史珊氏が怪しげな呪文を唱えると、猫のまわりに紫色の影がたくさん集まってきました。少しだけ怖がらせてやるだけさ、と父は言いました。猫に影がまとわりつき、どんどん大きくなります。猫が苦しそうに鳴きます。やがて中心に光る目が現れました。湘雲が最初に見た、紫の虎です。

『我々を侮った奴らを、少し怖がらせてやろう』

『都の人々を少し怖がらせてやろう』

『そうすれば、陛下も考えを変えて女仮と戦う気になるかもしれない』

『そうだ、そうすればきっと陛下も我々のことを見直してくださるだろう!』

何人もの声がごうごうと響きます。紫の虎は、父とその仲間たちが最初に作り出そうとしたものだったのです!なんということ、と湘雲は思いました。湘雲を殺しかけたのは、もとをたどれば父だったのです。渦巻く影の真ん中には虎と袁傪がいました。袁傪の体がぼわりと膨らみ、渦巻く影がそこにどんどん吸い込まれていきます。影を吸い込んだ袁傪は、湘雲の目の前で虎の形になりました。全体が淡く光り、目は紫色に爛爛と輝いています。紫の虎です!

 虎と紫の虎は睨みあい、それから勢いよくぶつかり合いました。激しく争い互いの体がぶつかる度に光が閃きます。この二匹は、つまり李徴と袁傪なのです。本当は戦ってはならないはずです。

「やめて、戦うのは間違っているわ!」

湘雲は叫びました。そうせずにはいられなかったのです。何度かのぶつかり合いの後、紫の虎が急に動きを止めました。何事かとみると、紫の虎がしゅうっと小さく縮み、兎の形になりました。兎はぴょんぴょんと虎の前で跳ねます。まるで食べてくれと言わんばかりです。虎はがおおと吠えました。

「食べては駄目よ!」

湘雲はとっさに言いましたどうしても駄目な気がしたのです。しかし虎はぱくりと兎を食べてしまいました。

 その瞬間、嵐のようにものすごい風が巻き起こりました。虎が一声大きく天に向かって吠えると、その全身が紫色の炎に包まれました。なんということでしょう!そして虎が湘雲に襲い掛かってきました。

(食われる!)

目をつぶった湘雲でしたが、かわりに硬い金属の音が聞こえました。

「しっかりしろ!食われたらここまで来た苦労が水の泡でしょ!」

目を開けると、そこにはエメチがいました。剣で守ってくれたようです。爪を払われた虎は後ろに飛び退りました。

「エメチ!今までどこにいたの?」

「それはこっちが言いたいよ。気が付いたら皆とはぐれちゃってた。竜巻みたいなのが見えてやってきたらあんたがいたってわけ」

エメチは虎を睨みつけました。虎は再び向ってきました。エメチは剣で応戦しますが、防戦一方です。虎が強すぎるのです。あわややられるというとき、今度は屋根から小さな人影が飛び降りてきました。だん、と虎の背中に向って刀を振り下ろします。八郎です。間一髪で避けられましたが、その刀は虎の尻尾を切り落としました。虎は悲鳴のような鳴き声をあげました。

「湘雲殿、やっと見つけた!」

八郎は湘雲に笑顔を向けました。切り落とされた尻尾は紫色に光ったまま、地面の上でうねうねと動いています。八郎はそれを拾い上げました。おーい、と向こうから手を振って走ってくる人がいます。斉家です。その横には馬に乗ったアバハイもいます。尻尾を失った虎はばたんばたんと暴れています。アバハイは馬上で弓を構えました。一矢目は虎のすぐ横を掠めました。すかさず二の矢を構えるアバハイに、湘雲は叫びました。

「待ってください!殺さないで!」

アバハイは怪訝な表情をしました。そのすきに、虎はだっと駆け出しました。すごい速さです。

「待って!」

湘雲は言いましたがもはや届きません。そのまま、虎は宙へ駆けあがり、南の方角へ駆けていきました。ぐんぐん遠ざかります。

 湘雲のところへやってきたアバハイは厳しい顔をしていました。

「殺すつもりはなかった。腐っても瑞祥かもしれないからな。しかし逃してしまった」

あれはなんだ?とアバハイは湘雲に聞きました。

「あれは、虎です。虎で、袁傪で、そして栄の怨念の塊です」

「一体どういうことだ、さっぱりわからないぞ」

「栄に百年以上もずっとずっと蓄積した怨念が、虎の姿になったのです。それがたまたま、女仮の助けとなっただけで……もしかすると、あの虎のせいでまた栄と晴は戦争になるかもしれません。とにかく、たぶんあの虎は楽安に行ったのだと思います」

アバハイ達はよくわからないようでしたが、話している湘雲自身もよくわからないので当然でしょう。きっと虎が生まれたのはたまたまなのです。たまたまあのときに、虎が生まれてしまったことが全ての悲劇の始まりだったのです。湘雲は、虎が楽安に向かったことを確信していました。栄に積もり積もった怨念が無会うのは、栄の都に違いありません。

 遠くから、わあわあと大勢の雄叫びが聞こえてきました。ついで熱風が吹きつけてきます。斉家が大きな身振り手振りで慌てて走って来ました。馬に乗ったアバハイに置いて行かれていたのです。隊長大変です!と斉家が大声で叫びました。

「女仮軍が攻めてきてます、ついでに火事です」

「何ばかなことを。女仮軍がこんなところにいるはずがない」

「でもいるんです!」

湘雲は二人の間に割って入りました。

「アバハイ様、今私たちが見ているのは、六十年前の啓封の姿です。幻なのです」

「六十年前?」

湘雲は手短に見たことを話しました。信じられないという面持ちのアバハイは、うーん、と腕を組みました。

「ではここで今見た建物も人も聞こえている声も、全て幻ということか。確かに以前来たとき啓封はすっかり荒れ果てていたから、おかしいとは思っていたが…」

「そうなのです。紫の虎が引き起こしたのです」

「しかし、幻にしては本当に熱い」

八郎が額に浮かんだ汗をぬぐいました。確かにそのとおりです。見ると、湘雲達の近くまで炎が及んできています。炎の燃えあがるごうごうという音が聞こえます。あちこちから悲鳴が起こり、空が端から橙色に染まっていきます。炎も幻なら熱いのも気のせいなんじゃないの、とエメチが言いますが、斉家が「いや」と首を振りました。

「本物の火でなくとも、俺達がそれを火だと思えば本物と同じように熱く感じるし燃える。幻ってのはそういうもんだ」

そんなのおかしい!とエメチは斉家に詰め寄りますが、ますます熱くなってきているのは本当でした。それに煙がまわってきて息苦しくなってきています。まずいな、とアバハイが言いました。

「炎に囲まれている」

「走って逃げられないカ?」

「いや、斉家の言うとおりなら炎を抜けるときに焼け死ぬだろう」

「それは困る!東向に帰らなければ!」

八郎は持ったままの紫色の尻尾をぎゅうと両手で掴みました。それは皆同じです。生きて帰れなければいけません。なんとかならないか?とアバハイは斉家に尋ねました。斉家は一瞬考え込み、それから意を決したように首に下げていた玉の飾りを外して手に持ちました。

「水は火を制す。今ここが六十年前の啓封なら、運河とつながっていたはずだ。その水を呼び込もう」

斉家は何やら手早く地面に文字と図形を書き周りに玉を置きました。湘雲には何を意味しているのか全くわかりません。

「いいか、俺もこんな大きな呪法はやるのがはじめてなんで、何が起こるかわからない。しっかり掴っててくださいね隊長!」

斉家は【ムル】!と叫んで図形を指さしました。初めて聞く言葉です。上佳の言葉でしょうか。

 直後には何も起こりませんでした。やっぱり駄目か、と皆ががっかりした次の瞬間、突然地鳴りが起きました。激しい揺れに立っていられません。

「今度はなんだ!?」

エメチが叫びます。ざあああ、という音が聞こえてきました。まるで増水した春の河のような音です。きょろきょろとあたりを見回します。すると街角から道にさらさらと水が流れてきました。

「成功したんだわ!すごいわ斉家さん!」

湘雲は手を叩きました。しかし斉家は苦い顔をしています。

「これで済むといいけど」

そう言ったそばから、道にどおっと大量の水が流れ込んできました。やっぱりか!と斉家が叫びます。みるみる水は量を増し湘雲達の足元で嵩を増していきます。

「俺の道術がちょうどよくできたことは一度も無いんだ!」

「これじゃ、もしかして水が増え続けたら私たち溺れ死ぬんじゃないの?」

エメチが湘雲にしがみつき声をあげました。顔が怯え切っています。どうやらエメチは水は苦手なようです。

「斉家!なんとかしろ!」

アバハイが声を荒げました。

「なんとかしろって言われても!」

斉家は切羽詰まった様子で頭をがしがし掻き辺りを見回しました。ふと、近くの家の窓辺に、紅色の花が咲いている小さな鉢が置いてあるのが目に留まりました。シャジク草です。これだ!と斉家は言って顔を輝かせました。じゃぶじゃぶとしぶきをあげて窓辺に寄ります。

シャジクタルクジプルだ、こいつを手がかりにできる」

水は今や膝の高さに迫ろうとしています。斉家は花を摘んで足元に投げました。花が水に浮かびます。一体どうするつもりでしょう。

タルクジ】!

斉家が叫ぶと、花と草が勢いよく膨らみました。草が車輪の形になり、枝が伸びて車になります。赤い花は車を引く優美な牛になりました。

「乗れ!」

斉家が車を指します。皆が車に乗ると車はすぐに水の流れに乗って浮き上がりました。水はどんどん嵩を増し、ついに屋根より高くなりました。水に浸かった啓封の姿が一望できるほどです。

「斉家!すごいぞ!」

アバハイは感嘆して言いました。

「やればできるじゃないか!すっかりただの通訳の仕事ばかりになっていたが、道術もこの調子で頼むぞ!」

怒鳴るように言うのは、ごうごうという水の流れのなかではそうしないと聞こえないからです。斉家は気まずそうに笑いました。

「そうですね!そうできたらいいですけど!」

言ったそばから、湘雲達の乗った草の車はすごい勢いで流れ始めました。その流れにのって花の牛も軽やかに走り出します。都の屋根屋根が過ぎ去り、ついに啓封の城壁を飛び出してしまいました。

「水は止められないの?」

湘雲は言いました。

「無理だ、一回起こした水は引くまで止められない!」

「そんな!このまま私達どこへ流れていくの?」

水はぐんぐん草をなぎ倒し野原を、畑のなかを流れていきます。車もどんどんそれに乗ってすごい速さで進んでいきます。湘雲は水が一本の流れになって河のようになっていることに気づきました。水はかつての運河の後に流れ込んで河になっているのです。このまま運河のとおりに流れていけば、やがて楽安に辿り着きます。かえって都合がいいということに湘雲は気がつきました。

「このまま楽安まで行きましょう!」

「なんだって?」

皆が驚いたように湘雲を見ます。湘雲は固い決意を込めて言いました。

「虎を止めるのよ!私達、楽安まで行って虎を止めるの!」

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