第十三章 虎、都に戻る

第24話

 水は止まることなくぐんぐん流れ、景色が飛ぶように過ぎ去っていきます。その上を湘雲達の乗った車を引いて花の牛が滑るように走っていきます。時々人が驚いて逃げていくのが見えます。当然でしょう。あまり人が住んでいない地域なのが幸いでした。船はあっという間に渦水に辿り着き、そのまま渦水を矢のように横切りました。

「栄に入ったわ!」

湘雲の眼前に、見たことのある風景が遠く現れました。行きの旅で歩きながら見ていた風景です。アバハイは目を凝らすように周囲の景色を見ていました。車は荒野の草をなぎ倒しながら進み続けましたが、ふいにがくんと大きく揺れました。みると車を乗せていた水の量が減っているように思われます。

「渦水を渡った時に水を取られたんだ!」

斉家が言いました。

「楽安までもつかわからん!」

街が見えてきました。湘雲が歩いて旅してきた道を今度は逆向きに、しかもものすごい速さで進んでいるのです。車は水と一緒に街沿いの穏やかな運河に突入しました。鋭い矢のように栄の運河を突っ切っていきます。運河に浮かんでいた小さな船がぐわんぐわんと揺れ、せり出している船着き場がばりばりと壊れてふっとびました。逃げて!と湘雲は車の先頭に立って怒鳴りました。

「危ないから!」

突如迫りくる水に人々は我先にと逃げていきます。どうか誰も巻き込まれていませんように!

「お願い、がんばって楽安まで行って!」

湘雲は車のへりをぴしゃりと叩きました。すると心なしか速度があがったような気がします。そのまま湘雲達は突進し続け、ついに楽安の船着き場が見えてきました。川はそのまま門を通じて都のなかへ続いていますが、その門が閉じています。ぶつかるぞ!とアバハイが叫びました。

「頭を守れ!」

湘雲達は必死に車の中で体を縮こませました。花の牛はそのまま門へ突っ込みました。すごい衝撃とともに門がはじき飛びます。そしてそのまま、車はぐらんぐらんと揺れながら盛大な水しぶきをあげて着水しました。死ぬかと思った、と八郎が青ざめた顔をあげました。車は衝撃で急激に速度を落としました。形も揺らんでいます。花の牛からは花弁が何枚もひらひらと落ちてきています。いい加減限界ということでしょう。

「もう少しがんばって!もう少しでいいから!」

そう言われて、花の牛は湘雲に応えるようにぐらぐらと揺れながらも車を引きながら進み続けました。そうしてどうにかこうにか都のなかの船着き場に辿り着いたときには、花の牛はもはや花弁四枚ほどになっていました。全員が岸にあがったところで、牛と車ははらはらと形を無くし、もとの草に戻ってしまいました。なんと殊勝な牛と車だったこと!

 とんでもない帰りの旅を終えて改めて周囲を見ると、なんと何人もの人が倒れ伏していました。まあ!と湘雲は叫びました。死体と思ったからです。しかし駆け寄ったエメチが首を振りました。

「大丈夫生きてる。ただ気を失ってるみたい」

「こっちも死んでない!」

八郎も湘雲に言いました。湘雲は胸をなでおろしました。しかしよくよく見てみると、船着き場だけでなく道端や建物のなかでも人が大勢倒れています。皆一体どうしてしまったのでしょう。それに虎がどこにいるのか全然わかりません。どうしたものかと湘雲は途方にくれました。早くしないと、虎が取り返しのつかないことをしてしまうかもしれないのに!

 すると、湘雲の目の前に小さな光るものが飛んで現れました。蛍のようですが、よく見ると違います。

「屈閣!」

それは、虎の倀である、衛兵姿の屈閣でした。屈閣は少し前に進んで、湘雲を振り返りました。どうやら道案内をしてくれるようです。こっちよ!と湘雲は皆に言いました。屈閣はふわふわと光りながら進んでいきます。どうも禁城のほうに向かっているようです。皆も後に続きます。

「不思議な気分だな」

アバハイが辺りを見回しながら言いました。

「まさか私が楽安をこの目で見この足で走ることがあろうとは」

辺りは不気味なほど静まり返っています。時折倒れている人を踏まないように気を付けながら、湘雲達は屈閣について走ります。

 もうすぐ禁城前の広場というとき、何やら叫び声が聞こえてきました。必死の声です。

「なんだありゃ!?」

斉家が叫びんで指さしました。広場に面した禁城の大門から、誰かが懸命に走ってきます。その後ろに紫色の巨大で不気味な雲が空に渦巻いていて、その真ん中には光る二つの目がありました。虎です!紫色の雲に取り囲まれてぎらぎらと光りながら追ってきます。啓封で見た時より三倍くらいも大きくなっています。

「皇帝をお守りしろー!」

誰かが叫びました。なんと、追われているのは皇帝のようです。確かに龍の刺繍が施された豪奢な金糸の服に身を包んでいます。意外と若いのね、と湘雲は思いました。湘雲と同じくらいの歳に見えます。衛兵達は怯えながらも槍を繰り出そうとしますが、紫色の雲が彼らをとりまくとすぐに皆ぱったりと倒れてしまいました。倒れた人々からは影がむっくりと立ち上がり、ゆらゆら揺れながら虎のほうに歩いていきます。

『悔しい、羨ましい…』

影は皆口々にそう呟いています。おどろおどろしい声が広場に満ち、湘雲は背筋をぞわりとさせました。それらの影を吸い込んで、虎を取り囲む雲は一段を大きくなりました。

「こうやって都中の怨念をどんどん集めているのね」

湘雲は言いました。ずっと走ってきたので息が切れそうです。

「それで一体どうするつもりなの!」

皇帝は懸命に逃げていましたが、ついに広場の真ん中で転んでしまいました。あまりの恐ろしさに腰を抜かしてしまったようで、立ち上がれません。虎はそんな皇帝にゆっくりと近寄りました。

「朕に近寄るな!朕は皇帝だぞ!」

必死に皇帝が泣き叫びます。虎はぞろりと前足を動かし、皇帝にずいと顔を近づけると口をかぱっと開けました。食べる気です。

「やめなさい!」

湘雲は叫びました。

「これ以上人を食べてはいけないわ!」

虎は体をびくりとさせて動きを止めました。湘雲は虎と皇帝の間に滑り込むと、手を広げて皇帝の前に立ちはだかりました。きっと虎を睨み、虎と対峙します。

「駄目よ。私が皇帝を大事に思うからそう言うのではないわ。あなたにこれ以上後悔してほしくないから言うのよ。次に人を食べたらきっと人に戻れなくなるわ」

虎は何も言わず、口を開けたまま動きません。湘雲は続けました。

「あなたはきっと人間だったとき、嫌な人だったのでしょうね。私、見たからわかるわ。高慢で、そのくせ繊細なの。自分でその気持ちが抑えきれなくなって、虎になってしまったんだわ。そうして大事な人も皆なくしてしまったのよ」

じっと動かない虎の光る眼を、湘雲は見つめました。

「あなたは親友の袁傪も食べてしまった。鬻渾は袁傪だわ」

湘雲は息を大きく吸い込みました。

「そしてあなたの名前は李徴」

虎の瞳がひときわ大きく輝きました。虎をとりまく紫の雲がごうごうと天に向かって巻き上がります。虎の口からひとつの小さな光がふわりと飛び出し、そして人の形になりました。鬻渾、いえ、袁傪です。啓封で過去の幻をみたときに、袁傪に何か見覚えがあるように感じたのは、先に鬻渾に会っていたからだったのです。袁傪は、啓封の幻と同じく穏やかに微笑んでいました。虎の目からすっと光が消えました。そこにあるのは、ガラス玉のような瞳です。

「徴」

袁傪が呼びかけました。優しい声音です。虎の目から涙が溢れました。

「傪」

虎が、ゆっくりと袁傪の名前を呼びました。袁傪はひとつ頷きました。

「ようやっと会えたね」

微笑みながら、虎に手を差し伸べます。

「ずっとそばにいたけれども、徴は私のことをずっと思い出せなかった。寂しかったよ」

虎はそれを見て逡巡するように頭を何度か降りました。

「俺は、とりかえしのつかないことをしてしまった」

ぼろぼろと涙がその目からこぼれました。虎の背後では紫の雲が竜巻のように渦巻いています。

「俺が、趙先生も食い、お前も食い、そして女仮軍を啓封に導いてしまった。俺が一度栄を滅ぼしたのだ」

わかっているよ、と袁傪は応えました。虎は嗚咽しました。

「そんなつもりはなかったのだ、そんなつもりはひとつもなかった。俺は、気がついたら虎になってしまっていた。そんなつもりは本当になかったんだ」

虎の姿がだんだんと揺らぎ始めました。紫の渦巻く雲から、幾筋かずつ、影が離れて飛んでいきます。

「お前がずっと羨ましかった。お前がずっと妬ましかった。本当は俺のほうができるはずだと、ずっとそう思っていた。俺のそんな心が、俺を虎に変えたのだ…」

渦から離れる影が多くなり、虎もどんどん小さくなっていきます。虎の口からまた一つ光が飛び出てきました。今度は彝兀です。彝兀は人の大きさになったとき、そこにいたのは趙徳父その人でした。彼もまた慈愛の表情を浮かべています。虎はどんどん小さくなり、ついに人の大きさほどになりました。

「すまなかった」

虎は、大粒の涙を流しながら絞りだすように言いました。

「本当に、すまなかった」

その瞬間、残っていた渦が爆発するように空に飛び散りました。強い風が巻き起こります。湘雲はなんとか目を開けて空を見上げました。飛んでいく影のなかに、湘雲は父の顔を見ました。啓封で見た憎しみに溢れた顔ではなく、穏やかな、湘雲の見慣れた表情をしています。お父様!と湘雲は叫びました。

「さようなら!どうか安らかに!」

父親は頷いたように見えました。そしてそのまま、彼方に飛び去って行きました。

 全ての影が飛び去って行ったあとには、人が立っていました。やつれたその姿は、湘雲が啓封で見た李徴そのままでした。泣きじゃくる李徴の肩を袁傪が優しくあやすように抱きました。

「もう過ぎたことだ。そうだろう徴。俺達は親友だった。これからも、永遠にそうあり続けるだろう」

李徴は激しく啜り泣きながら頷きます。袁傪はその肩をぽんと叩き、それから振り返って湘雲を見ました。ふと気が付くと、袁傪の横には趙先生ともうひとり、男性が立っていました。屈閣だった人、李徴が最初に食べてしまった衛兵です。彼もまた笑っています。



偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃

今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪

此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷



袁傪はその詩を詠いました。背後で雲が晴れ、その隙間から紅の太陽が顔を出しました。空は既に半分藍色に染まり、小さな星が見えます。湘雲は振り返りました。そこには、小さな月の姿がありました。もう夕方も終わろうとしています。

「敢えて敵したあなたのおかげだ」

袁傪は言いました。最初は何のことかわかりませんでしたが、そう言われて、袁傪が言っているのは詩の内容のことだと気付きました。すると、シャジク草の牛車に乗ってここまでやってきたことが湘雲の脳裏に浮かびました。軺とは小型の馬車などを指します。

「君は已に軺に乗りて気勢豪なり…もしかしてこれも私のことなのね?」

湘雲が言うと、袁傪は優しく頷きました。この詩は袁傪と李徴の境遇を詠んだものだと思っていましたが、それだけではなかったのです。この詩は、虎が人間に戻る方法を示唆してもいたのでした。袁傪は、ずっとそれを湘雲に訴えていたのです。

袁傪の体を、太陽の光が文字通り貫きました。体が透けているのです。傪!と李徴が叫んで縋りましたが、袁傪はゆるやかに体を離し、李徴に向ってもう一度微笑みました。

「またな」

その言葉を残して、袁傪は消えました。趙先生と、衛兵も消えていました。そこには、李徴だけが残っていました。

 湘雲は李徴に近寄りました。李徴は袁傪の消えた後を呆然と見つめていました。湘雲はその肩に触れました。骨ばった、間違いなく人間の肩です。

「私、虎使いにはならずに済んだみたいね」

湘雲がそう言うと、李徴はきょとんとしましたが、その後ふっと笑いました。

「飯の種がなくなって困るだろうな」

「あら、相変わらず失礼ね」

ふと、湘雲の足元に動くものがありました。びっくりして見下ろすと、そこにいたのは猫でした。あのシマです。やっぱり猫はシマだったのです。

「お前ももとの姿に戻れたのね」

そう言って撫でると、シマは機嫌よくにゃんと鳴きました。湘雲!とエメチが走ってきました。ほかの皆も続きます。

「虎の前に走って行ったときにはどうなるかと思った。本当に向こう見ずだよあんたは」

エメチはそう言いますが、心配してくれていたことは湘雲にだってわかりました。湘雲はふふっと笑いました。アバハイが湘雲の肩を抱きます。

「なかなか度胸があって驚いたよ。どうだ、これから私のところで働くか?」

これはなかなか嬉しい申し出です。その後ろでは斉家と八郎が笑っていました。すると、背後でうわあ、と驚く声がしました。振り返ると、腰を抜かしたままの皇帝があんぐりと口を開けていました。そうです、すっかり忘れていました。

 近づいていくと、皇帝は怖がって後ずさりました。逃げようとしているようですが、立てないので逃げられません。

「何だったのだ、あれは。女仮人が攻めてきたのか?」

皇帝は小さな震える声で言いました。

「お前も女仮人か?」

皇帝の顔は真っ青になっています。随分と気弱な性格のようです。確かに、これでは臣下に侮られるのも道理でしょう。

「陛下、あの虎は女仮人とは関係ありません。栄人の怨念そのものです」

湘雲は言いましたが、皇帝はよくわからないようでした。無理もありません。

「お前が虎を倒し、朕を守ったのか?」

皇帝は、弱弱しく湘雲を見上げました。湘雲はそこでふと、いいことを思いつきました。我ながらこれは素晴らしい考えです。湘雲はにっこりと笑いました。

「ええ、そうです。実は陛下、我々は陛下をお守りするよう特別に仰せつかって、ずっと晴…いえ、女仮に潜入していたのです。ついさっき、陛下を守るために栄に帰ってきたのですよ。だからこのように女仮の服を着ています」

後ろで斉家があまりのことに噴き出しました。湘雲は知らん振りです。

「陛下、御身が大事なら、私の言うことを聞いてくださいます?」

湘雲は皇帝にずいと迫りました。皇帝はぶんぶんと顔を振りました。

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