最終章 湘雲、旅に出る
第25話
雲が青い空を流れていく晴れた日です。湘雲は港にいました。これから船で旅立つのです。藍色の着物と袴で冠を被る青年姿もすっかり慣れました。本当はいつもの女の恰好のまま船に乗れたら楽ですが。
「おい、そんな調子では路銀を盗まれるぞ」
背後から注意されて湘雲は振り返りました。
「あら、大丈夫よ、しっかりくくりつけているもの」
「そうやって油断している奴を狙うんだ。これから先が思いやられる」
李徴はぶつぶつとお小言を続けますが、湘雲は機嫌よくそれらを聞き流すことにしました。李徴の腕のなかのシマがにゃあと鳴きます。
あの後、湘雲は皇帝を巧みに(!)言い含めて、自分たちを晴に潜入している間者であると信じ込ませました。皇帝は自分を守ってくれた礼にと、皇帝の印のついた指輪を湘雲にくれました。これさえあれば、栄のなかではどこだって自由に動けます。楽安では、あの後目覚めた人々は何が起こったかをよく覚えていませんでした。虎を見たはずの衛兵達もそのことを覚えていなかったのです。ただ、なんだかすっきりした、と言う人が多くいました。何故だかよくわからないけれど気分が晴れたと口々に言う人々を見ながら、湘雲は空に散っていった影のことを思い出しました。
そうそう、湘雲の家族もちゃんと開放されました。皇帝はちゃんと湘雲の願いを聞いてくれたのでした。没収された財産も戻ってきて、伯父はとても喜んでいたと人づてに聞き湘雲は心から安心しました。湘雲のことはどうもうやむやにされたままのようです。伯父は湘雲は死んでしまったと思っているようでした。それでもかまわないと湘雲は思います。驚いたのは、姪の惜春が駆け落ちしたという話でした。湘雲の代わりに王家に嫁がされることになって、恋人とどこかへ逃げてしまったのだそうです。まさか彼女がそんなことをする人だとは思っていませんでしたし、そもそも惜春に恋人がいたなんて全然知りませんでした。多分家族も知らなかったのでしょう。人は予想のつかないものです。またいつかどこかで彼女と会えたらいいと湘雲は思っています。
アバハイとエメチと斉家はまた明州の街から渦水を渡って晴に帰っていきました。八郎も一緒にです。なんと八郎は無事の虎人参を得ることができました。あの、啓封で湘雲を守るために虎と戦ったときに切った尻尾が、紫の虎が消えた後も消えずしおしおと萎びてまるで人参のようになったのです。うっすら縞模様のそれは、これまで誰も見たことのない不思議な紫色の光を帯びていました。これが本当の虎人参なのかは誰にもわかりませんでしたが、とにかくこんな物珍しいものを領主に献上すればきっと大喜びだ、と八郎は大層喜びました。上佳を経由して東向に帰ることになり、上佳までは斉家も一緒に行くとのことでした。彼によれば、久しぶりに故郷にちょっと帰ってみるのもいいかもしれない、とのことです。
アバハイは、晴の皇帝には虎のことは単なる盗賊の見間違いだったと報告するつもりだと言いました。
「瑞祥などいちいち待つ必要はない。必要なら戦う、その時までは待つ、ただそれだけだ」
とアバハイは言いました。エメチは渦水を渡ったらすぐにノルグン人が勢力を伸ばしつつある北の高原に向かうと言っていました。晴に来るときにはいつでも私を訪ねてくれ、とアバハイは言ってくれました。必ずそうすると湘雲は約束しました。いつか、やはり晴の開都にまで行ってみたいと湘雲は思っています。
もうすぐ出港です。湘雲はもう一度旅財布の口がしっかり締まっていることを確認し、李徴に向かい合いました。
「シマの餌は朝夕二度よ。忘れないでね」
「そんなことくらいわざわざ言われなくともできる。いくら気を付けても足りないのはお前のほうだ」
「なんとかなるわ、たぶん」
「その楽観的な性格、見習いたいものだな」
「あら、是非そうしてほしいわね。あなたこそ、うっかり人前で虎にならないように注意しなさいよ」
湘雲はくすくすと笑いました。李徴は人間の姿に戻りましたが、時々うっかりすると虎の姿になってしまうのでした。やはり一度起こってしまったことを全くなかったことにするのは難しいということなのでしょう。虎は、猫のシマを預かって港近くの村外れで暮らすことになりました。そうすれば、湘雲が旅から戻ってきたら会いに行きやすいからです。一緒に辻講談をするのは嫌ですが、旅の合間に会うのなら李徴はまあまあな友達と言ってもいいと湘雲は思います。
「それではね」
湘雲は言いました。李徴はふふんと笑いました。
「途中でうっかり死ぬんじゃないぞ」
素直でないのは相変わらずです。湘雲はにやりと笑って、それから船から延びる舷梯に足をかけました。世界中を見に行く旅の始まりです。まずは、超の国に行くことに決めています。あの、湘雲が嫁ぐはずだった王さんの家で取り扱っていた真っ青な燕の巣を実際に見に行こうと思います。無謀な旅だと言われても、湘雲は気にしません。
「きっとなんとかなるわ」
湘雲はどこまでも広がる海に向って呟きました。
晴と栄はこの二年後に大規模な戦争をしますが勝敗はつきませんでした。断続的な戦争の間にやがて北のノルグン人が勢力を増し、十二年後には晴は滅びます。その三年後には栄も滅びることになります。アバハイとエメチは晴と運命を共にしました。上佳に帰った斉家は、ノルグン人の侵攻から国を守るため、戦いに身を投じることになります。東向に帰った八郎は海賊になったりノルグン人と戦ったりといろいろありましたが、最後には故郷で出家して穏やかな老後を過ごしました。湘雲は旅のなかで人生を過ごし、やがて伝説の女冒険家として人々に記憶されることになります。李徴は湘雲が都に帰ってくるたびに彼女を迎え、シマと暮らし続けました。しかしこれらは、また別のお話。またの機会にお話しすることになるでしょう。
おわり
幻京人虎奇譚―渡りて行きし物語― くるくる @crcr
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