第20話

「ところでアバハイ、お前がよこした鳩梟だけどね、部下に調べさせたよ」

「おお、ありがとうございます」

「なかなか大変だったんだぞ。開都に鳩梟を飛ばすまでしたんだ」

ワンカオが部屋の外に声をかけると、数名の兵士が入ってきました。勧められるままに卓につくと、茶と菓子が用意されました。それから一人の兵士がワンカオに書類を渡しました。ワンカオはそれを開き、全員に見せるように卓に広げました。そこには見たことのない文字が並んでいました。女仮文字です。ところどころには漢字もあり湘雲も読むことができます。「袁傪」と書かれているのが見えました。紫の虎が出たときに、鬻渾が言った名前です。湘雲は虎を見ました。虎の顔は布に隠れて見えません。

「アバハイから頼まれた「袁傪」という人物のことだけど、開都の資料倉庫で確認させたところひとりそれらしい人物がいた」

ワンカオはその「袁傪」という文字を指さしました。

「栄修文十五年の科挙の合格者名簿に名前があった。二十四歳で探花の合格者となっているからかなり優秀だったのだろう。その後もいくつか順調に官職に就いている」

探花とは何だ?と八郎が湘雲に聞いてきました。探花とは科挙で第三位の成績を取った者をいいます。第一位が状元、第二位が榜眼です。科挙に合格するだけでも非常に難しく、一生勉強し続けてもなお不合格のまま終える者も多いのですから、そのなかでも一級の成績を取ったとなればどれほど優秀かは一目瞭然でしょう。宰相やそれと同等の地位に出世できることも約束されます。いくつか、というワンカオの言い方がひっかかります。

「修文十五年ということは、つまり…」

「そう、我らが太祖ウヤス帝が啓封を攻略されたのが栄修文十九年だ。その後栄の官僚としての記録がないのを考えると、戦乱で命を落としたんだろう」

「そうですか…」

湘雲は肩を落としました。もしかしたら今もどこかで生きている人の名前かもしれないと思っていたのです。そうしたらあるいは直接話を聞けるかもしれないと思いましたが、そうはいかないようです。それにしても、探花合格者でありながら若くして死んだというならさぞや無念であったでしょう。湘雲ががっかりしている横で、アバハイは書類を手に取りました。

「この袁傪という人は啓封の出身だったようですね」

「そうだな。父親は官僚ではなかったらしい。確かに優秀だが飛びぬけた特徴も無い」

「合格後に結婚してますね。妻は趙氏か」

それを聞いて湘雲ははっとしました。

「趙氏ですか?」

「ああ、そうだ。栄人では特に珍しくもない姓だと思うが…」

ワンカオは書類の三枚目を手に取りました。そこにあった文字に湘雲は思わず身を乗り出しました。妻は趙徳父娘と書いてあったのです。

「まあ、なんてこと!」

「一体なんだ?」

湘雲の驚きように困惑するワンカオにアバハイが言いました。

「伯父上、送った手紙に紫の虎のことを書きましたが、実はその後私も一度紫の虎を見たんです。そのとき、紫の虎は確かに「趙先生」と言ったんですよ」

アバハイは手短にそのときのことをワンカオに説明しました。ワンカオは顎髭を撫でながらそれを聞いてふむふむと頷きました。

「なるほど、確かに紫の虎の秘密は袁傪という人物が握っているので間違いなさそうだ。しかし…」

「しかし?」

「袁傪も趙徳父も栄人で栄の官僚だ。そこの虎の御仁も栄人のようだ。とすると、どうも我々女仮人には関係がなさそうじゃないか。朝廷の道士が言った虎が一体何のことなのか、ますますわからなくなってきたよ」

確かにその通りでした。皆はうーんと考え込みました。虎が六十年前の啓封に関係があることは分かってきましたが、それが何を示すのか、女仮人の伝説の虎とどう関係があるのかはよくわからないままです。

「例えば六十年前の光る虎が、袁傪が変身したものというのはどうでしょうか」

そう湘雲が言うと、皆苦い顔をしました。

「確かに今目の前に昔人間だった虎がいるんだから、ありえないとは言い切れないが…」

斉家が言います。

「けど、なんで、どうやって虎になったんだろう」

「道士が何かやったんじゃないの?」

「あのなあエメチ、俺は一応道士の端くれだけど、実際人間を虎に変えるようなことができる奴なんて見たことないぞ。道士なんて大体はでたらめさ。適当に色々言って金をもらうだけだよ」

エメチは呆れて肩をすくめました。実際聞き捨てならないことですが、今はそれにいちいち驚いている場合ではありません。

「とにかく何かがあって、袁傪が虎になって、そして今も紫の虎になってこの世を彷徨っているのかもしれないわ」

「あれは虎の亡霊ってこと?でもそれじゃここにいる虎は何なの?」

「うーん、そうねえ…」

「それに太祖を導いた虎だったとしても、どうしてそうしたのかがわからないな」

アバハイも腕を組み首をかしげました。これ以上考えてもどうしようもありません。八郎が言いました。

「東向でも、戦争のとき、裏切りして敵につく人間必ずいる。袁傪もそれだったかもしれない」

そのとき、虎が突然ものすごい勢いで立ち上がりました。椅子が派手な音を立てて床に倒れます。

「それはあり得ない!」

大声で虎は言いました。あまりに突然で、皆びっくりして虎を見上げました。

「どうしたの?」

「そんなことはあり得ない。あり得ない!」

何事かと驚いた外の護衛が慌てて扉を開けて中を覗き込んできました。湘雲は虎の剣幕にあっけにとられてしまいました。

「何か知っているのか?」

ワンカオが口を開きました。低く厳しい声音です。虎ははっとしたように体を揺らすと、なんでもない、と一言小さく言いました。

「なんでもないとはとても信じられないな。何か知っているのだろう?」

「……知ってはいない。ただ、違うことはわかる。それだけだ」

虎はそのまま扉のほうへ向かいました。

「気分が悪い。外にいる」

おい、と八郎が声をかけましたが虎は全く聞くそぶりもなく、そのまま出て行ってしまいました。なんだ今のは、とワンカオが不思議そうに言います。「あいつはいつもああなんです」と斉家が答えました。確かにその通りです。その通りですが、やはりこちらに来てから明らかに様子がおかしくなっているわ、と湘雲は思いました。やはり、何かあるのです。その何かがさっぱり分かりませんが。

 その日は城庁のなかの宿舎に泊めてもらうことになりました。ワンカオが用意してくれた食事は茹で肉たっぷりの豪勢なものでしたが、虎はあてがわれた部屋に籠ったまま出てきませんでした。食事中はワンカオが舒州の街や開都の様子をいろいろと話してくれて、楽しい時間となりました。アバハイも気の置けない親戚が一緒にいるせいか普段より少し冗談が多くよく笑います。そういえば、とワンカオが何気なく言いました。

「最近、この街で影が勝手に動き出すという怪談話が流行っている。光る虎といい、変な話が多いものだ」

動く影。どこかで聞いたような話です。一体何でしたっけ?

 食事の後、湘雲は一度外から虎の部屋に声をかけてみました。しかし中からは「放っておけ」と不愛想な声が帰ってきただけでした。

「もう、なによ」

湘雲は部屋でひとりつぶやきました。客人用の宿舎の寝室は質素ですが清潔です。久しぶりにひとりで過ごす夜でした。湘雲は寝台にごろんとねそべりそのまま目をつぶりました。行儀の悪いことですが、父と暮らしていた頃は好き勝手にやっていたものです。そういえば、ほんの半年前のことでした。半年の間になんとまあ驚くべきことがたくさんあったことでしょう!珍花は元気かしら、と湘雲はぼんやりと思いました。今、湘雲が女仮、いえ晴にいると知ったらどれほどびっくりするだろうかと考えながら、湘雲はすぐに寝入ってしまいました。

 夜半、湘雲は暑さに目を覚ましました。首筋にじっとりと汗をかいています。夏の夜というのはなにぶん暑いのが困るものです。湘雲は少し新鮮な空気を吸おうと、外に出ることにしました。ゆっくりと扉を開けると、見張りの兵の灯りが遠くに見えました。空には満月に近い月が浮かんでいます。ほんのりと風が吹いていて、湘雲はほうと溜息をつきました。はやく秋が来てほしいものです。そういえば、と湘雲は隣の部屋の扉を見ました。虎はどうしているでしょう。すっかり寝てしまったでしょうか。

 そのとき、すた、と微かな足音が聞こえました。

「何かしら」

あたりを見回しますが、誰もいません。不思議に思ってふと見た城庁の城壁の上に、何かがうごめいたような気がしました。人間?いえ、何か違うようです。たたた、と城壁の上の影が滑るように動きました。まるで猫のような…

(猫? いえ、あれはもしかして…)

おい、何かいるぞ、と遠く声が聞こえました。兵が気づいたようです。湘雲はとっさに影の行ったほうに走りました。影はしゅたりと城壁から地面に降ります。灯りと足音が近づいてきます。

「誰だ!?」

提灯の灯りに照らされて、湘雲は眩しさに目を細めました。現れたのが若い女であったことに兵士は驚いたようでした。湘雲はとっさに笑みを浮かべて兵士にお辞儀をしました。

「あの、すみません、私はアバハイ隊長と一緒にやってきたものです。あまりに暑かったので涼もうと思い外に出たら、猫がいたのでつい…」

「猫だって?」

「はい。でも、どこかへ行ってしまいました」

湘雲が残念そうに言うと、兵士は苦笑しました。

「アバハイ様のお客様か。それは失礼したね。だけどいくら城庁の中とはいえ女の子が夜遅くに一人で出歩いたら危ないよ」

「はい、ごめんなさい」

すまなそうに肩をすくめて、それから湘雲は続けました。

「ところでお願いなのですけれど、その灯り、お借りしてもいいかしら?」

「これを?」

兵士は手に持っていた提灯を掲げました。はい、と湘雲は頷きます。

「宿舎に戻るのが怖くなってしまったのです。いいでしょう? 明日お返しますから」

兵士は軽く笑いました。いかにも頼りない女の子の言いそうなことだと愉快に思ったのでしょう。いいよいいよ、と気軽に提灯を湘雲へ渡してきました。気をつけなよ、と少し馴れ馴れしい口調で言ってもと来たほうへ帰っていきます。

 その背中が十分に遠くなったのを確認してから、湘雲は身を翻しました。城壁の隅のほうを目指します。真っ暗ですが、小さな息遣いが確かに聞こえます。湘雲はゆっくりと近づきました。

「虎なのでしょう?私よ、湘雲よ。どうかしたの?」

灯りで照らしてみた先の様子に、湘雲は驚きました。城壁を背にしてそこに丸まっていたのは紛れもなく虎でした。こちらを少しおびえるように睨みながらぐるると低く喉を鳴らす姿は、獣の虎そのものです。そして、その口は赤く染まっていました。ぐったりと伸びた兎が歯の隙間からぶら下がり血を滴らせています。

 一瞬、湘雲は迷い込んだ本物の野生の虎かと思いました。そうだったらとても危険です。しかし、湘雲を見て逃げ出そうとした虎に反射的に「待って!」と言うと、虎は動きを止めました。やはりあの虎なのです。湘雲は意を決して虎に近寄りました。

「兵士に捕まるかもしれないわ。そうなったら困るでしょう。部屋に戻ったほうがいいと思うの」

ゆっくりと言う間、虎は緊張しているようでした。しかしやがてふう、と息を吐き体の力を抜きました。ぼとり、と口から兎が地面に落ちました。

 湘雲はもう一度虎を見ました。これまで、虎はずっと湘雲達と食事をともにしてきましたが、食べ方は人間そのものでした。虎の前足で器用に箸も使っていました。それで湘雲はこれまで、虎が「虎らしい」食事をするなど考えたこともありませんでした。人間を食べたというのも信じられませんでした。しかし、今目の前の虎を見ると、背筋が冷やりとするのを感じます。

「兎を食べたの?」

湘雲は聞きました。聞いてしまったと言ったほうがいいかもしれません。虎は長いこと黙っていましたが、ついに口を開きました。

「灯りを消してくれ」

「灯りを?」

「これ以上、この姿を見られるのは忍びない」

湘雲は黙って提灯の灯りを吹いて消しました。辺りは真っ暗になりました。誰にも言わないでくれ、と虎は言いました。

「時々、こうやって虎の姿になって獣を食わないではいられないのだ」

目が慣れてきて、虎の姿がぼんやりと見えてきます。虎はとてもしょんぼりとして見えました。

「普段は抑えているが、時々どうしようもなくなってしまう。昔から時々そうだったが、最近は、こうやって虎の姿で獣を追いたい気持ちがますます強くなってきた。」

「…では、これまで旅してきた間も?」

「そうだ」

湘雲の脳裏に浮かんだのは、明州の街に着く前に野営をしたときのことでした。それに虎が勝手にいなくなっていた夜がしばしばあったこと。そのときは不可解に思いましたが、こういうことだったのです。

「こちらに来てからずっと我慢していたが、ついに今日、我慢しきれなくなってしまった」

虎の声には切実さがありました。湘雲は思わず言いました。

「でも、兎は私達も食べるわ」

「そういう問題ではない。問題は、獣を追って食うとき、俺は完全に虎になってしまうということだ」

「完全に?」

「人間であったことを忘れてしまう。ただの獣になってしまう。そのときには、ただただ獣を追って食うということ以外に何も考えられなくなってしまう。俺という人間がいなくなってしまって、ただただ目の前の獣を食ってしまいたい、それ以外はどうでもよくなってしまうのだ」

俺は恐ろしい、と虎は言いました。

「このまま完全に、ただの虎になってしまうことが。俺は本当に恐ろしいのだ。俺は虎になりたくない」

虎がすすり泣いていることに湘雲は気づきましたが、敢えて言うのは憚られました。そのかわり、湘雲は何も言わずに虎の首筋を撫でました。夜露に濡れたのか、虎の毛はしっとりとしていました。

「啓封に行きましょう、何かわかるわ、きっと」

何を根拠に、と虎の言う声は小さく震えていました。湘雲は言いました。

「根拠は無いわ。でも、何もしないでいるよりはましだわ」

虎はそれ以上何も言いませんでした。湘雲も虎の首筋を撫でながら黙っていました。

「もしあなたが本当にただの虎になってしまったら、私、世にも珍しい栄人の女虎使いになって、それで稼ごうかしら」

冗談めいてそう言って見せると、虎はふん、と鼻を鳴らしました。

「それで俺は曲芸でもするのか? 最悪だ」

「あら、案外楽しいかもしれないわ」

二人は何も言わずしばらくそこにいました。そのあと、それぞれ部屋に戻りました。

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