第十章 虎が恐れていることは

第19話

 翌日から大雨が二日間降りました。おかげで出発が延びてしまいました。道がぬかるんでいては進めないからです。夏の雨はいつでもうっとおしいものですが、かわりにいいこともありました。湘雲と八郎は、息州の街を端から端までよく見て回ることができたのです。また、おしゃべりする時間もたくさんありましたから、晴や上佳、東向、そして西方の草原や砂漠の国についても、湘雲はたくさん知ることができました。教えてくれたのはおもに斉家でしたが、エメチも時々は晴のことを教えてくれました。北人の間では、未だに栄に忠義を誓い晴に仕えない一族もいるそうですが、それよりも晴の科挙を受けたり軍隊に入ったりして取り立てられているものが多いというのは驚きでした。ほかにも、晴には斉家のような異民族もたくさんやってきており、軍には民族ごとの部隊があるのだそうです。そのことを知ると、湘雲はますます複雑な気持ちになりました。栄にいた頃は、女仮を滅ぼしてしまえと言う人は多くいましたし、湘雲もそうしたほうがいいのかしらと思っていました。しかしもし本当に再び戦うことになれば、そのときには栄は女仮人以外にも様々な人達と戦わなければいけませんし、もとは栄人同士である北人とも戦うことになるのです。

 西の草原や砂漠のもっと向こうには、肌の黒い人たちの国もあるのだと斉家は言いました。湘雲もそれは聞いたことがあります。栄のもっと南の港には、そんな遠い遠い国からも商人が船でやってくるという話でした。しかし、実際に見たことはありません。斉家はたった一度だけ出会ったことがあるそうですが、大層びっくりしたと言いました。それにしても、栄や楽安がちっぽけなものになってしまったように湘雲には感じられました。世界には湘雲の知らない国がたくさんあり、湘雲の全然知らない人たちがたくさんいるのです。いつか、一番遠い国までも行ってこの目でそこに何があるのか見てみたい、と湘雲は思いました。

 虎は湘雲達に弱気なところを見られてしまったことを気にしているらしく、あてがわれた幕屋の隅でふて寝を決め込んでいました。湘雲が一緒に街を見に行ってみようと言っても顔さえあわせません。

「ねえ、昨日街に行ったらびっくりしたのだけど、なんと泣き蔘が売っていたのよ。都でもただの蔘なら売っているけれど、泣き蔘は初めて見たわ。本当に土から掘り出すと赤ん坊のように泣くのねえ。あれを食べたら確かに長生きできそうだわ。ねえ、虎も一緒に行って見ない?」

「興味が無い」

「街には河真珠も売っていたわよ。あんなにきれいな橙色なのね、素敵だったわ。それに都より半値は安いのよ」

「さらに興味が無い」

「売られている絹や壺は栄のものだったわ。栄の刺繍を施した絹は高値で売れるらしいの。私も刺繍なら少しはできるから、こっちでは刺繍を売って暮らせるのではないかしら」

「さあ、できればいいがな」

「もう、なによ!元気づけてあげようと思っているのに!」

「誰もそんなこと頼んでいない!放っておいてくれ」

「あなたね、そんな風に隅っこでいかにも落ち込んでいますという様子で、放っておけなんて無理な話だわ」

湘雲と虎のやり取りに斉家は腹を抱えて笑っていました。

「あんたたち、いい相棒同士じゃないか。辻講談すればなかなか儲かるかもしれないぞ」

おもしろがって斉家が言うと、虎は「絶対に御免だ」と言ってますます背を丸めてしまうのでした。

 出発の朝は久しぶりにいい天気でした。地面はまだ少しぬかるんでいますが、空は青く、太陽がぎらぎらと照っています。暑い一日になりそうです。アバハイは仕事が忙しいらしく、出発までの間もなかなか話す機会がありませんでした。今日も朝から兵達に様々に指示を出していました。ここから啓封までは歩きで十日はかかるといいます。結局、兵のほとんどはここで野営を続けることになり、アバハイと湘雲達、そしてお供に三人の兵士だけが啓封へ行くことになりました。彼らは選りすぐりの兵士達らしく、アバハイが出発の朝に傍に呼んで虎の姿を見せてもまったく驚いた様子を見せず、何か尋ねたりもしませんでした。これには八郎も感服したようです。

 アバハイとエメチが馬に乗り、湘雲達と兵士は歩きです。アバハイがいっとう綺麗な馬に乗り兵を率いていく様は、まるで一幅の絵のようです。河をひとつ渡っただけですが、景色は湘雲の知っているものとは違っていました。どこまでも続く広い広い平野、空との境は曖昧で太陽で熱せられてゆらゆらと揺れています。なんて広いのでしょう。人家の姿は見えませんし、田畑もありません。このあたりも、戦乱の影響で人がいなくなってしまったのでしょう。じりじりと照りつける太陽を避けるため、斉家は湘雲に竹の編み笠をくれました。これにはとても助かりました。なにしろ本当に暑いのです。楽安の夏も暑いのには変わりありませんでしたが、こんな風に焼けるように暑いという感じではありませんでした。それに日を遮ってくれるような木陰などもあまり無いのです。虎は、大きな笠のまわりに長い布をぐるりと垂れ下げたものを被ることになりました。これなら、体中に布を巻き付けなくてもいいので涼しいし楽です。発案者は八郎でした。東向では高貴な女性が外を出歩く際にはこのような笠を被るのだそうです。アバハイは旅慣れない湘雲をおもんぱかって、一日に何度か休憩をとってくれました。これにはとても助かりました。野営での夜明かしも慣れないものでしたが、寝具もきちんと用意がありましたし、兵達の用意してくれる麦餅や干し肉の汁物もものめずらしく、意外に大丈夫なものでした。

 そして遠く広がる景色のなかに、時々不自然な窪みがあることに湘雲は気付きました。最初は道かと思いましたが、そういうわけでもなさそうです。周囲より落ち窪んでいて特にぬかるんでいたりすることもあります。不思議ね、と思っていると、アバハイが質問するのに先んじて湘雲に教えてくれました。

「あれは昔の大運河だよ。栄人が南へ逃げる前に埋めていったから、今は使えない」

「ああ、これが昔啓封から楽安を繋いでいたという大運河なのですね!」

湘雲は思わず窪みに近寄ります。

「昔はこの運河を船が多く行き来してたらしいね。栄人は、運河をつたって我々が南まで攻め入ることを恐れたのさ。とはいえ、埋められているのはこの辺までだ。もう少し先に行くと、今は細々と農業用水に使われてるのを見ることができるよ」

「全部は埋められたわけではないのですね」

もう一度、湘雲は昔運河だったところを見ました。かつての賑わいはひとつもありません。ここにもう一度水が通ることはあるのでしょうか。 

 歩き出して三日目にもなると、平野には広大な畑が現れました。粟が青々しく繁っていますが、収穫が終わっているところもあります。ちょうど輪作の植え替えの季節で、これからは冬に向けて麦を育てる準備をする季節なのだと斉家から教えられると、湘雲は父の部屋でこっそり読んだ農書のことを思い出しました。

「そういえば稲は夏に、麦は冬に栽培するものと読んだわ。同じ土地で同じ作物を栽培し続けると土地の力がなくなってしまうからだと」

「へえ、あんた物知りだね」

斉家は感心して言います。特に文学は何でも湘雲に自由に読ませた父でしたが、農書については「さすがに女子供には理解できないだろう」と呆れてあまりいい顔をしませんでした。「そんなこと全然無かったわ」と湘雲は今、少し得意になりました。読んだときにはよく分かりませんでしたが、実際に見てみればなるほどと思えます。そういえばもうすぐ立秋ね、と湘雲はふと思いました。

畑があれば、当然その近くには村があります。村からすこし行けば、小さな街も現れました。そうすると湘雲達は、大きな農家や役所で休むことができました。アバハイは住民には礼をはずみましたし、田舎の役所では滅多にお目にかかることもない皇后陛下直属の千人隊長ご一行ということで、下にもおかない歓待を受けました。おかげで湘雲達は、栄で旅していたときよりもよっぽど快適に旅を続けることができました。もちろん、虎はずっと姿を見せないようにしていなければいけませんでしたから、部屋に籠りっきりになることが多く、湘雲は少し気の毒に思いました。しかし当の虎自身はますます誰とも話したくないようで、一人きりを自らも好んでいるようでした。

 お世話になった人々は、農民も役人もほとんど全て北人でした。言葉は通じますが、しかし服装は女仮人に近いものもいますし、供される食べ物は湘雲には馴染みのないものが多くありました。こちらではあまり炊いたお米は食べないようで、様々な種類の麦餅や雑穀団子の汁がよく出されました。湘雲が栄から来たことを告げると、誰も彼も本当に驚いていました。中には、戦乱の際に家族と別れたきりになってしまった老人までやってきて、これこれこういう者を知らないか、と聞いてくることもありました。残念なことに湘雲が知っているということは一度もありませんでしたが、がっかりした老人の姿を見るのは忍びなく、「帰ったら尋ねてみる」とつい口約束をしてしまいました。

 虎は、相変わらずひねくれた無口のままでした。湘雲が何度も「ここの景色に見覚えはない?」と聞いても、「知らん」と一言返すだけです。どこまでも続く平野に畑が延々と広がっている景色の中を、湘雲達は何日も進みました。あまりにも景色が変わらずとにかく暑いので、湘雲は自分が進んでいるのかどうかよくわからなくなってしまいまいます。しかしそんななかにも発見はありました。晴に渡ってから初めて、シャジク草が実際に咲いているのを見たのです。畑の畔に小さく咲いたシャジク草の紅色の花をみつけたときには思わず嬉しくなりましたやはりこちら側には咲いているのです。湘雲は花を摘んで、虎に渡しました。

「なんだこれは」

虎は花を渡されて困惑しているようでした。

「かわいらしいでしょう?こういうのを楽しむことも大切だわ」

本当は何か虎が思い出したりしないかと思って渡したのですが、小さな花の可憐な姿はそれだけでも旅の疲れを癒してくれるようです。それに湘雲には心躍ることもありました。なにしろ今自分が歩いているのは、中原なのです。湘雲がこれまで読んできた歴史書や物語に出てくる王朝はすべてここで興亡したわけですし、有名な将軍も皇帝も皆ここで戦ったわけですから、いやがおうにも気持ちが高まります。

 旅に出て六日目には大きな街に着きましたが、街の名前を聞いて湘雲は思わず身を乗り出しました。

「本当に舒州じょしゅうなの!?舒州といったら、四国志の董東の出身地だわ。すごいわ、そんなところに来られるなんて」

「そんなに騒ぐことじゃないでしょ。別に大したことじゃないじゃない」

エメチは興奮する湘雲に呆れ顔です。

「エメチ、あなただって四国しこくを知っているでしょう? とうとうの出身地なのよ?これは大変なことだわ」

「董東は知ってるけど、出身地なんて覚えてないよ」

俺は四国志を知っているぞ!と八郎がぴょんぴょん飛び跳ねました。

「東向の港で、芸人、劇していた。なかなかおもしろかった」

「ふん、傴人でもさすがに四国志は知っているらしいな」

虎はここまで来ても相変わらずの憎まれ口です。八郎は憤慨しました。

「虎、相変わらず失礼な奴ネ。俺の東向の主人、栄の書だけでなく浮教の経典にも詳しい、賢い方だ」

斉家も助け船を出します。

「上佳でもそれなりに有名だよ、四国志は。実をいうと俺もあんまり興味ないんだけどさ」

それぞれ違う反応に、アバハイはまた愉快そうに笑いました。

「とりあえず、まずは城庁に行こう。色々と先に用意させたものも届いているだろうしな」

 舒州の街は、息州よりももっと大きな街です。楽安にはおよびませんが、城壁は立派で、灰色の煉瓦でできた建物が並び、反り返る屋根が連なっています。広く活気ある中央通りでは様々なものが売られています。人々はほとんどが栄の言葉を話していました。しかし女仮人のような服装をしている者も多く、それが本当の女仮人なのか、それともエメチのような北人なのかはもうわかりませんでした。布の垂れ下がった奇妙な笠をかぶる虎のことは、特段誰も気にしていません。途中に寄った村々でもそうでしたが、栄の人々に比べて、晴の人たちは見慣れない恰好をしたものに慣れているようでした。

 城庁は街の中心部にあり、ひときわ大きな楼が遠くからでもよく見えました。頑丈そうな塀に堅く守られています。前門に到着すると、すぐに何人もの迎えの兵士が出てきました。兵士達は既に聞き及んでいるようで、湘雲や八郎について何も言うこともなく一行を中へ案内しました。広い庁内ではたくさんの役人が忙しそうに働いていますし、軍隊もきびきびと訓練を行っています。

「舒州はこの大きさの街では栄に一番近いからな。対栄の軍事拠点としても重要な街だ」

城内を歩きながら、アバハイは湘雲に説明します。思わずアバハイを見上げた湘雲でしたが、しかしアバハイは優しく微笑んだだけでした。一行は城庁の大きな建物のなかの小さな一室に案内されました。入口には兵士が二人立っていますが、湘雲達を引き留めることはしません。

 中に入ると、そこには屈強ですが柔和な表情の壮年の男性がひとり椅子に座って待ち構えていました。女仮人の男性らしくきりりとまとめられた髪には、虎の形の簪を挿しています。その人はアバハイを見るなり椅子から立ち上がりました。

「<久しぶりだなアバハイ。相変わらずの活躍に父君が頭を悩ませてるぞ。たまには実家に顔を出せ>」

「<叔父上こそお元気そうでなによりです。結婚しろと言う以外のことでご助言いただけるなら、私は喜んで父上にお会いしますよ>」

アバハイの返しに男性は豪快に笑いました。何を言ったのか湘雲には全然わかりませんでしたが、女仮の言葉であることは分かります。いくつか言葉を交わした後、彼はアバハイの後ろに控えていた湘雲達を興味深そうに見ました。

「なるほど、随分珍しい一行だね。北人に上佳人に、さらに傴人に栄からやってきた娘とは!」

「叔父上、傴人ではなく東向人と呼んでほしいそうです」

「ああ、そうか。それは失礼した。どうも、私が舒州都督ととくグワルギャ氏ワンカオ。アバハイの叔父だ」

ワンカオはにっこりと笑いかけましたが、軍人らしい厳格さもその瞳に感じられました。湘雲達のことは既に知られているようです。湘雲は軽くお辞儀をしました。八郎もきりりとお辞儀をします。

「さて、そしてその後ろの御仁が例の虎殿か」

ワンカオは二人の後ろをゆっくり見やり、そして虎に近寄りました。虎は傘をかぶったまま微動だにしません。

「どうぞよろしく。お名前をお聞きしても?」

「……名乗る名前はない」

「そうですか。では何とお呼びすれば?」

「好きなようにすればいい。しかし舒州の都督が女仮人とは、嘆かわしいものだな」

「はは、まだそのようなことを言う者が北人の老人にはたまにおりますよ。私にも至らない点は多いとは思いますが精進いたします。ところで、一度お顔を拝見したいのですが、いかがでしょうな」

虎があんまりにも失礼なことを言うので湘雲は冷や冷やしましたが、相手のほうが一段上のようです。虎もそれを悟ったのか、黙りこくりました。ワンカオがそれでも微笑を浮かべたまま待っているので、虎も根負けして笠を取りました。虎の顔が現れます。ワンカオは一瞬目を見開きましたが、すぐにどうもありがとう、と言うと踵を返しました。虎は何か言いたそうに眉を寄せましたが、結局何も言わずにまた笠をかぶりなおしました。

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