第18話

 そのとき、ひとつの歌が聞こえてきました。火を囲んで酒盛りを楽しんでいた兵士達のほうからです。少し調子がずれたりしますが一向に気にしていません。湘雲には全く耳慣れない歌でした。歌詞も栄語ではありません。やがて声は二、三と増えていき、兵士達は誰も彼も大きな声で楽しそうに歌い始めました。肩を組んで笑いあうもの、思い思いの踊りを踊るもの、歌自慢をここぞとばかりに披露するもの、様々です。恋の歌だよ、とアバハイが教えてくれました。

「戦いが終わって村に帰ったら、美しい娘を妻にしよう、あの美しい娘は誰の妻か、もちろん俺の妻だ…」

アバハイは少し節をつけて栄語で歌ってくれます。湘雲は聴きいりました。

「美しい歌ですね。でも…」

「でも?」

アバハイが怪訝な顔で湘雲を見ます。湘雲は慌てて続けました。

「あの、その娘が本当にその男を待っているかはわからないと思ったのです。もしかしたら、別に好きな人がいるかもしれないし、結婚よりしたいことがあるかもしれないでしょう?男が勝手に期待しているだけかもしれないわ」

湘雲がそう言うと、アバハイは小さく吹き出しました。

「言われてみればその通りだな。男はいつでも女など勝手にどうとでもできると思ってる。待っててくれと言われても私もごめんだ」

ふたりでくすくすと笑っていると、斉家と話していたエメチが「私をさしおいてアバハイ様とお話するな」と飛んできたので、ふたりはさらに笑ってしまいました。

 やがて兵士達は別の歌を歌い始めました。栄語の歌です。おかげで湘雲も理解することができます。

「これは知っているわ」

湘雲は言いました。わけあって離れて暮らす夫の帰りを待つ妻の気持ちと、都の春の情景を歌ったもので、夏至節や新年のお祝いのときによく歌われる歌です。旋律は似ていますが違うところもかなりあります。



春到長門春草青

江梅些子破

未開匀

碧雲籠碾玉成塵

留暁夢

驚破一甌春


花影圧重門

疎簾鋪淡月

好黄昏

二年三度負東君

帰来也

著意過今春


はる長門ちょうもんいたり 春草しゅんそうあお

こうばい 些子さしぶる

いまひらにおわず

へきうん 籠碾ろうてんして ぎょく じん

暁夢ぎょうむとどむる

驚破きょうは一甌いちおうはる


えい 重門ちょうもん

れん たんげつ

黄昏たそがれ 

二年にねん三度さんど とうくんそむ

かえきた

著意ちゃくいして今春こんしゅんを過ごさん




湘雲もつられて歌いだしました。ただし時々兵士達とは調子がずれてしまいますが。この詞はまだ栄が北半分を失う以前、啓封で作られた作品です。だから北に残った北人の間にも、南の栄人の間にも同じく伝わってきたのです。もちろん六十年間お互いに行き来が無かったのだから、それぞれに違うように変わってしまったのは当然のことなのでしょう。それでも、やはり同じ歌には違いがありません。

 機嫌よく歌っていた湘雲でしたが、ふと、人々が囲む焚き火から離れた暗闇に二つの光があることに気付きました。はじめは蛍かと思いましたが、それにしては大きく、そして動きもしません。

(なにかしら…)

よくよく見つめていると、光がゆらりと大きく揺れました。もしかして、と湘雲は思い当たって体を固くしました。すると、後ろからがっしりと力強く肩を掴まれました。アバハイです。

「あれはもしや、紫の虎か」

アバハイは幾分楽しそうに、低い声で言いました。

「たぶん、そうです」

湘雲は光から目を逸らさずに言いました。よくよく見ると、二つの光の周りを、きらきらと光る紫色の靄が囲んでいます。そうです。紫の虎の目です。しかし、以前のようにぎらぎらと光ってはいません。むしろ柔らかな、優しい光です。斉家達も気付いたようで、エメチはすぐに腰の短刀に手をやりましたが、アバハイが制しました。しばらく無言で対峙します。後ろでは、兵士達が全く気付かず、愉快に歌を歌い続けています。虎の目は、時折ゆらゆらと揺れます。それが歌にあわせて揺れているように、湘雲には思えました。

「もしかして、歌を聴きたいの?」

湘雲は尋ねるともなくそう言いました。虎の目がまたゆらりと揺れます。きっとそうなのだと湘雲は思うことにして、兵士達にあわせてもう一度歌い始めました。アバハイは驚いたようでしたが、湘雲を止めはしませんでした。すると歌声を聴いて、紫の靄が不規則に動き始めました。なんとなく、調子にあわせているようにも見えます。これまでのように誰かを攻撃したりするそぶりも見せません。不思議に思いながら湘雲は歌い続けます。

突然、横に誰かが立った気配がしました。

あん先生」

低い声でした。湘雲は思わず歌うのをやめて横を見ました。そこにいたのは、布をかぶったままの虎でした。いつの間に歩いてきたのでしょう。立ち尽くしたまま、もう一度虎は「易安先生」といいました。

(易安先生?)

一体誰のことでしょう。湘雲は尋ねようとしましたが、それはできませんでした。何故なら、虎のかぶっていた布がぼわぼわと広がり、それにあわせて紫色の靄も形を取り始めまたからです。靄は固まるように中心に集まり、そして虎の形になりました。同時に、かぶっていた布がするりとはがれ、その下から四足で歩く虎が現れました。着ていたはずの服が毛並みの上にひっかかっています。振り向いてみると、アバハイは初めて見た二匹の虎の姿に釘付けになっていました。二匹の虎はゆっくりと近づいていき、そして相対しました。片方は紫に黒の縞、もう片方は黄色に黒の縞で、まるで色を反転させたようにそっくりです。紫の虎の目が紫色に瞬くと、虎の目もちかちかと白く瞬きました。睨みあっているというよりは、見つめあっているようです。虎の横から、彝兀が現れました。いつものようににこにこと微笑みながら、くるくると二匹の虎のまわりを飛び回ります。しかしただそれだけです。そのまま二匹はじっとしていましたが、だしぬけに紫の虎が天を仰ぎ、そして口を開きました。

『趙先生』

これまでの地響きのような声とはうってかわって、まるで人間のような声でした。紫の虎が口にしたのも、人の名前でした。

(易安先生、趙先生…どこかで聞いたことがあるわ)

湘雲は眉根を寄せました。一体どこで見聞きしたのでしょうか。考えて見ますが思い出せません。

 そうこうしていると、紫の虎は突然虎に向かってかあっと口を大きく開き飛びかかりました。虎は逃げようともしません。慌ててエメチと八郎が駆け出します。湘雲も虎!と叫びます。しかし心配は無用でした。虎に噛みかかった瞬間、紫の虎は一瞬でまるで霧が晴れるように消え去ってしまったのです。あとには、呆然とする湘雲達と、暗闇を見つめる虎だけが残されました。今のは何だ、とアバハイがつぶやくように言いました。思い出したように、兵士達の歌う歌が聞こえて来ます。また違う歌になっています。そこで湘雲は、兵士達の声が今まで聞こえていなかったことに気付きました。兵士達も、虎が現れたことには気付いていないようです。斉家がはっとして地面に落ちていた布を拾って虎に駆け寄りました。

「兵士達に見つかったら騒ぎになる」

斉家はそう言って虎に布をかけました。そうしながら、アバハイに視線を送ります。アバハイはすぐに気を取り直して、てきぱきとエメチに宴会を終わらせるよう指示を出しました。礼をしてエメチは素早く身を翻しました。布をかけられた虎はおとなしくしている、どころではなく、身動きすらしません。斉家が布の上から軽く背を叩きしっかりしろ、と声をかけました。アバハイが大股に歩いて近づきます。

「虎殿、幕屋まで歩けるか」

虎殿、と辛抱強くアバハイがもう一度言うと、虎はのっそりと動き出しました。

 幕屋に入ると、虎は無言のまま億劫そうに体を起こし、絨毯の上に座りました。髭も垂れ下がり猫背でしょんぼりと座っている様は、動物なのか人間なのかよくわかりません。外から、八郎が服を両手に抱えて持ってきました。虎が四足になったときに身からはがれてしまったもので、ところどころ破れています。今のままでは裸も同然だと気付き、湘雲はとりあえず虎に袖がほつれてしまった上着を羽織らせました。後で修繕しなければ、と思います。

 兵士達に今夜の指示を与えに行っていたアバハイが、エメチを連れて戻ってきました。アバハイはどっかりと虎に向かい合って座りました。

「宴が中断して申し訳ないね。食事が足りなかったら言ってくれ。持ってこさせる」

エメチがそつなく全員に椀を配ります。また馬乳酒かと身構えた湘雲でしたが、今度は茶だったので安心しました。高価なお茶を出してくださるアバハイ様に感謝して、とエメチが湘雲に念を押します。まさかこんなにすぐに紫の虎とやらに出会えるとは、とアバハイは感慨深げに言いました。

「エメチ達から聞いてはいたが、実際この目で見るとびっくりするものだね。しかし、全く襲ってくる様子もなかった。それに、虎殿とどうやら友達みたいだ」

アバハイが虎ににっと笑顔を向けると、虎はやっと瞳をぐるりとうごかしてアバハイを見ました。

「友達ではない」

「では何だ?あの紫の虎と無関係だとは言い張るか?さすがにそれは私も信じない」

決して怒鳴ったりしているわけではない優雅な言い方ですが、アバハイの言葉には有無を言わせぬものがあります。虎はぐるる、と呻き、それからくぐもった声でぽつりと言いました。

「本当にわからないのだ。ただ、あの歌を聴いたらわけがわからなくなってしまった」

「わけがわからないとは?」

「あの歌を、知っているような気がしたのだ。そうしたら、何か嫌な感じがして…」

「しかしあれはこちらでも栄でも人気のある歌だろう、湘雲殿だって歌っていた。知ってるのは当然じゃないか」

虎は黙りこくってしまいました。前と同じです。斉家がわざと明るい表情をつくり、おおげさに言いました。

「何かあの歌に嫌な思い出があるんじゃないか。例えば女にふられたとか…だから嫌な感じがするんだ。そういうやつっているだろ」

しかし虎は黙ったままです。エメチの冷たい視線に、斉家はばつが悪そうに茶をすすりました。アバハイはしばし考え込み、それから再び虎を見据えました。

「では質問を変えよう。易安先生とは誰だ?」

「……知らん」

「知らないものを口にするなんてできないと思うがね、私は。では、趙先生は?紫の虎が言っていたぞ」

「……」

虎にも先生がいるのか?と八郎が横から虎を突っつきました。すると、虎はぽろぽろと涙をこぼし始めたのです。これには皆ぎょっとしました。俺はちょっとつついただけだ!と八郎はあたふた弁明します。湘雲は虎の背に手をやって顔を覗き込みました。

「どうしたの?泣くほど痛かったわけではないでしょう?」

「ばか言うな、違う」

せっかく心配してあげたというのに、虎はすげない返答です。しかし、言葉とは裏腹に涙をこぼし続けます。

「違う、泣きたいわけではないのだ。なぜだ、止まらない」

虎は前足で顔を拭いました。毛足に水滴がころころと流れます。やはり、この歌や「易安先生」という人に対して、何か嫌な思い出があるのだろうと湘雲は思いました。何があったのかはどうも虎も思い出せないようですが、それが嫌な思い出であることだけは、本人も分かっているのです。

 ううむ、とアバハイが腕を組みました。

「泣かれてしまっては困るなあ」

「アバハイ様、拷問にかけるという手もあります」

「エメチ、私だって敵ならば容赦なく拷問にかけるが、虎殿はもしや吉祥かもしれないからそういうわけにもいかないよ」

さらりと恐ろしいことを話すふたりです。湘雲は碗をとって虎にすすめました。お茶を飲めば少し落ち着くかもしれないと思ったのです。深く熟成されたお茶は、いい香りがします。

(そういえば、さっきの詞にもお茶が出てくるわね)

そう思ったとき、湘雲の脳裏にひらめくものがありました。

「ああ!」

「どうした、湘雲殿」

「アバハイ様、私、易安先生と趙先生を知っています!」

皆がどよめきました。知り合いか?と斉家が首を伸ばして尋ねてきます。湘雲はぶんぶんと頭を振りました。

「違うのよ、易安先生とは多分易安いあん居士こじのことだわ。さっきの詞の作者よ」

湘雲ははっきりと思い出しました。栄の歴史上稀有な女性の詞人です。それなのにすぐに思い出せませんでした。湘雲は悔しがりました。

「易安居士は、当時啓封で男にもひけをとらないと評判だったと本で読んだことがあるわ。だから今でも歌い継がれているのよ。六十年前の戦乱の後は、楽安に逃れてきたけれどすぐに亡くなったというわ」

「だけど、易安なんてそんなに珍しい号でもないぞ。本当にそうなのか?」

斉家の質問に、湘雲は興奮して「本当よ」と返しました。

「易安居士の夫というのがちょうとくという人よ。学者だったの」

趙先生とは、その夫のことに違いありません。皆も「なるほど」と口々に言いました。

「確かにその夫婦で間違いがなさそうだ。趙徳父という夫も妻と一緒に南へ逃げたのか?」

「いいえ」

昔本で読んだとき、湘雲は心を痛めた記憶があります。六十年前の戦に巻き込まれて、夫である趙徳父は死んでしまったのだそうです。夫婦仲のよい二人だったので、易安居士は大層嘆き悲しんだということでした。二匹の虎がこの二人の名前を口にしたのは、単に歌の作者を言っただけなのでしょうか。確かにこれまでも、倀は詩の題名を教えてくれたりしました。湘雲の疑問に、アバハイが「いや」と答えました。

「わざわざ先生と呼んでいるのだから、やっぱり何か特別な何かがあるんじゃないか。特に栄人はよく評判の文人や学者を先生と慕って教えを乞うだろう?子孫や親戚を知っているというのもあるかもしれないが…」

「もしかしたら本当の虎の先生だった、あるかもしれない」

八郎が言いました。エメチが反論します。

「それじゃあ虎は六十年前に啓封にいたことになる。そんなばかな。虎の寿命は長くても二十年と言ったでしょ」

「この虎普通ではないネ。六十年も生きるかもしれない」

八郎はむきになって返しました。実際そう言われると確かにそんな気もします。なんにしろ、今となっては「ありえない」ということはありえないのです。

 湘雲は虎を見ました。虎はさすがに泣きやみ、うつむいていました。どうかしら、と湘雲は聞きました。

「どう、とは何だ」

「何か思い出したりしたかと思って。易安居士に思い当たりはある?」

「生憎だな。易安居士…知っているのかもしれないが、何か頭に靄がかかったようだ。その先がわからない」

虎は力なく頭を二、三度振りました。無意識に、敢えてその靄を取り去ろうとしていないのかもしれません。

「虎は、思い出してみたいと思う?」

湘雲は虎に正面から向かい、尋ねました。虎は思いがけない問いに少し驚いたようでした。

「どういうことだ」

「確かに紫の虎は気になるし、私は汚名を晴らして楽安の家族を助けないといけないわ。けれど、虎に無理矢理嫌なことを思い出させるのもなんだか悪いなと思うの」

「今まで散々遠慮もなくやってきただろう」

「まあそうね」

少々思い当たる節はありますが、無視することにします。

「私は啓封に行ったらいいと思うの。行ってみたら、何かわかりそうな気がするから」

言ってみると、それは確信に近くなりました。

「行ってどうする」

「あなたが何か思い出すかも」

「根拠も何も無いではないか」

「でも行かないよりはましだわ。そうでしょう?あなたが、何かを思い出してもいいと思うなら」

虎は瞳を泳がせました(人間とは違う虎の瞳でしたが確かにそう見えました!)。行くなら俺も行くぞ、と八郎が後ろから言いました。

「男、怖いことから逃げるのはよくない」

「あら、女だってそうよ」

エメチがすかさず言います。そうだわ、と湘雲も言いました。俺も一度啓封に行ってみたいと思ってたんだよなあ、と斉家が続けすました。少しわざとらしい声です。

「だそうだ。どうする?虎殿」

アバハイが虎を見つめました。虎はさすがに困ったようでした。

「別に、俺はどちらでも…」

またいつもの煮え切らない態度です。湘雲はついに堪忍袋の尾が切れました。

「たまには自分がこうしたいとかああしたいとかしっかり言ってみたらどうなの?いつでも人に任せっきりで情けないと思わないの?」

これは半分は自分に当てはまる言葉でした。なにしろ、これまでろくに自分の将来のことも考えず暮らしてきたのはまさに湘雲なのです。

「ねえ、行きましょうよ」

湘雲は言いました。自分で決めるのは勇気のいることですが、そのぶん自由でもあります。湘雲の勢いに押されたのか、虎は小さくこくりと頷きました。おお、と八郎とジェガが明るい表情になります。アバハイがにやりと笑いました。

「そうと決まれば早い。明日、すぐ出発しよう」

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