第九章 女仮の千人隊長と不思議な虎の歌
第17話
とりあえず今日はここに野営し、これからどうするか考えようということになりました。今夜は湘雲達を歓迎する宴会があるとアバハイが言いました。外に出ると、確かに兵士達が騒がしく行き来して準備をしています。平野に大きな太陽が沈んでいき、空が朱色から紺に、夕闇はやがて夜空へと変わっていきます。星が瞬き始める頃、野営地のまんなかで大きな焚き火が起こされました。そこでは丸ごと一匹の羊が焼かれています。アバハイが乾杯の音頭をとり、宴が始まりました。アバハイの前には羊の焼肉と茹で肉が豪華に並べられています。腸詰に茹でた内臓、鳥の肉もあります。焼いた麦餅もたっぷりです。
湘雲達はアバハイの横に席を用意されました。隊長のアバハイは女ですが、兵士達は皆男です。兵士達がものすごく大声で話し笑うので、湘雲は驚き呆れてしまいました。父の生前、家に男性達が何人もやってきて宴会を開くことはありましたが、もっとおとなしいものでした。アバハイは騒ぎまわる兵士達を平然と眺め、ときに一緒に笑っていました。暑い夏の盛りですから、焚き火を囲んで騒ぐ兵士達のなかにはほとんど下帯だけの姿の者もいます。そもそも男性と話す機会さえほとんど無かった湘雲ですから、おもわずまじまじと見つめてしまいました。
「珍しいか?」
アバハイがくすくす笑いながら聞いてくるので、湘雲は少し恥ずかしくなりました。
「そうですね、楽安では兵士の姿を見ることはほとんどありませんでしたから…」
言い訳でしたが、アバハイは逆に興味を持ったようです。
「栄人はあんまり武人にはなりたがらないらしいね。武人より勉学が大事だと。こっちにいる北人のなかにもそう考えている者は多い」
「ええ、そうです。栄では、男なら科挙を受けてよい成績で合格し、官僚になることが何より大事です」
湘雲は都のことを思い出しました。楽安には国立の太学だけでなく私塾もたくさんあり、地方から勉強のために上京してきた人達が街中にいました。地方にも公の学問所はありますが、やはり水準は都のほうが上です。受験生は少年から老人まで様々で、三年に一度の科挙のたび大変な騒ぎになったものです。
「我々女仮人は、なにより武勇を重んじる。強いことが全てだ」
アバハイは力強く言いました。八郎は湘雲の横で大きな骨付き肉にかぶりついていましたが、その言葉に肉から顔を離しました。
「女仮人、女も武人になるか?」
アバハイはすぐには答えず、謎めいた笑みを浮かべました。
「東向ではどうだ? 東向は貴族よりも武人が強い国だと聞いたことがある」
「そのとおりだ。しかし、東向の武人皆男だ。女、皆結婚し子どもを生む。どこでも同じ、違うか?」
八郎が言うと、アバハイはははは、と愉快そうに笑いました。
「それは我々女仮人でも同じだな。配下の他部族も皆そうだし、北人も栄人も同じだろう。女はそんなものだと男達は思ってるんだ」
随分考えの凝り固まった人間ねえ、とエメチが八郎を鼻で笑います。八郎はむっとして睨み返しましたが、湘雲は身を乗り出しました。
「しかし、こちらに来てから馬に乗って歩く女性を何人も見ました。栄ではそんなことありえません。それに、皆歯も抜いていないし…」
実際湘雲はこちらに来て本当に驚いていました。本で読んでいても、実際に見るととんでもないことだったのです。アバハイは、ふむ、と言って杯を飲み干しました。
「栄人とは違って、我々女仮人は女でも馬に乗る」
それは、とアバハイは湘雲をじっと見つめたあと続けました。
「何よりも体が丈夫であることが大切だからだ。このあたりは温かいからいいけど、我々の本拠地である北の大森林は夏は短く冬は長い。寒さもこのあたりとは比べ物にならないから、生活はそれはそれは厳しい。女でも外で遊んだり馬に乗ったりするのは、そのほうが丈夫な子を産めるからだ」
北の大森林。昔、本でリスが一度も地面に降りずとも百里を進めるほど深い深い森だと読みました。湘雲はそれを再び思い浮かべてみましたが、やはり全く想像もつきません。楽安は冬でもそれほど寒くはなく、雪が降ったことも湘雲が生まれてから数回しかありませんでした。一体どんなところなのでしょう。まあ、私は当分産む気は無いけどな、とアバハイが付け足して豪快に笑うと、まあ!とエメチが目を丸くしました。
「アバハイさまがお嫁に行くなど考えられません。まず私に勝てる者でなければ!」
「ふふ、そのとおりだね。私も私より弱い男はごめんだ。それにまずはエメチに勝ってもらわないといけない。今はもうエメチが私の妻のようなものだし」
そう言われて、エメチは顔を真っ赤にしました。エメチは本当にアバハイ隊長が大好きなのねえ、と湘雲は感心しました。
「実際、アバハイ隊長は特別だが、それでも晴は実力があれば認められる機会が多いのも事実だよ」
振り返ると、大きな皿を持った斉家が立っていました。皿にはこんもりと米と肉が盛られていていい匂いがします。肉を米に炊き込んだものだと斉家が説明しながらとりわけてくれます。
「女の正規の武人は、晴でも俺が知る限りアバハイ隊長くらいだ。隊長はそれだけ特別なのさ。けど晴では才のあるものは民族は関係なく取り立ててもらえる。エメチの一族みたいにもとは栄人でも忠義があれば問題なく政府や軍の職につけるし、俺みたいなただの上佳人の平民でも雇ってもらえる」
斉家が手振りで勧めるままに、湘雲は炊き込み飯を指先にのせて食べてみました。口に含むと、羊肉の香ばしい香りがふわりと広がります。
「おいしいわ」
「うん、うまい」
八郎は横で夢中で食べています。来たばかりの頃は羊肉の匂いが臭い臭いと言っていましたが、すっかり慣れたようです。アバハイは満足げに頷きました。
「さすがに女の軍人というのは私くらいだ。私は子供の頃から剣も武術も誰よりも強かったから…というより、周りの男どもが軟弱すぎると言った方がいいかな? それで、特別に軍に入ることを許可された。エメチのような間諜なら女も少なくはないが…私は特別待遇の軍人として、皇后様直属の軍を率いて、表の軍ではなかなかできない仕事をやっているわけだ。例えばこの、虎の事件のようにね」
アバハイの言葉に皆が虎のほうを見ました。虎は焚き火から離れた暗がりで座っていました。布をかぶったままなので顔は見えませんが、不機嫌な空気を漂わせています。いかにもおもしろくないという表情をしていることが手に取るようです。
「どうだ、虎殿。食事は口にあったか?」
ぐるる、と布の中から唸り声が聞こえて来ました。返事のつもりなのでしょうか。失礼なやつだわ、と湘雲は口を尖らせました。
「聞いているではないの、答えなさいよ」
「こんなもの被せられておもしろいわけがないだろう」
「だって仕方がないわ。普通に顔を出したら虎だとばれてしまうもの」
「くそ、北に来たのは間違いだった」
「あら、私はこちらに来てよかったと思うわ。少なくともこちらでは歯を抜いていなくても目立たないし」
「お前はそうかもしれないがな。大体、食事も大雑把な料理ばかりだ」
虎の前の皿にはかじりかけの麦餅がありました。明州の街で見かけたものより大きく、丸く平べったいのを折っているので三角のような形です。アバハイはそれを目ざとく見つけました。
「麦餅は口にあわないか? 啓封が本場だったというから啓封近くの出身の兵士に作らせたんだが」
ふん、と荒い鼻息が聞こえました。
「俺が知っている啓封一の店の麦餅はこれの百倍はうまかった。作った兵士は素人だろう。中の餡に水分が多すぎだ。おかげで皮がべしゃっとしてしまっている。それに本当は餡には豚の脂の刻んだのと香青菜を合わせるのが正しい。豚の脂を香青菜がいなしてちょうどよくなる…」
そこまで言って、虎は息を呑みました。自分で言ったことに驚いたようです。湘雲達もびっくりして目を丸くしました。
「虎、あなた、麦餅に詳しいのね」
「やっぱり啓封にいたことがあるんじゃないか?」
斉家は明るい声で聞きます。虎は何も言いませんでした。布の下で一体どんな表情をしているのでしょう。
「その麦餅屋に行ってみれば色々思い出すんじゃないか」
「確かにそうね!私達啓封に行くべきだわ」
すっかり湘雲はその気になりました。それで思い出せればしめたものです。
しかしそこで八郎が、ふと思いついたように皆を見回しました。
「その麦餅屋、今もあるのか?啓封、六十年前の戦争で陥落した、聞く」
むう、と斉家は頷きました。そういえばそうです。花の都と謳われた啓封は燃え落ちたと聞いています。
「俺は啓封には行ったこと無いんだ。すっかりさびれてるって聞いたけど、本当か?」
斉家がエメチに振り返ると、エメチは眉をしかめました。
「光る虎が出たというとき、最初に啓封に様子を見に行ったのが私だった」
エメチは皆を見回しました。
「街のほとんどの部分は荒れ果ててたよ。そして盗賊や罪人やなんかのいかがわしい奴らが住み着いてる。六十年前の戦乱で大部分の住民が逃げ出したし、その後二度洪水にも遭ったせいで、城壁もすっかり崩れ果ててるから仕方ないけど」
それを聞いて湘雲はがっかりしました。いつか啓封の街並みをこの目で見てみたい、と思っていたのです。しかしそれはどうも叶いそうにありません。
「麦餅屋なんてあったか?」
斉家の質問に、エメチは首を捻りました。
「無いとはいわないけど、とてもじゃないけどまともな店があるようなところじゃなかった。虎が言ってる店があったのは昔の話じゃないの?」
「昔って言ったって、相当寂れて長い街なんだろう?じゃあいつの話なんだ、虎の野郎が麦餅を食べたってのは」
うーん、と全員が考え込みました。
「虎は、実は年寄りか」
「年寄って言ってもねえ…そもそも虎って何年くらい生きるのかしら?」
「長くても二十年くらいだよ。開都の虎部隊の虎がそうだから」
「しかしまさか六十年前の戦乱の前ってことはないよな、それじゃあとんでもないじいさんだ」
皆は虎を見つめました。正確には、布の塊を、ですが。「勝手に年寄り扱いするな」という不機嫌な声が飛んできます。
黙って話を聞いていたアバハイが突然立ち上がりました。エメチに剣を、と命じます。エメチは素早く傍らに置いていた剣をうやうやしくアバハイに渡しました。アバハイは剣の柄を炎の明かりにかざします。そこには精巧な模様の銀細工が施されていました。
「これは虎の紋だ。わが祖父がかつて栄の都に迫ったとき現れた光る虎が、私を守ってくれるという。皇后様からいただいたんだ」
アバハイは少し微笑んでいます。湘雲は柄の模様を見つめました。明かりにちらちらする複雑に絡まる糸のような模様は、確かに体を捻らせて飛び回る虎に見えなくもありません。
「もともと我々女仮人にとって聖なる動物は
ふん、と虎の荒い鼻息が聞こえました。
「俺は女仮人のことなど何も知らん」
「なるほどね、そうすると虎殿はもともと栄人ということか」
「……さあ、知らんと言っているだろう」
「栄の虎か。栄の虎は我々にとっては吉か凶か、どっちになるだろう」
アバハイは剣を鞘からすらりと抜き、暗闇を鋭くひと突きしました。それから体を翻し、またひと突き。それは美しい舞のような演武でした。アバハイが飛び跳ねるたび、刀身に映った炎がきらりと光ます。その動きにみとれていた湘雲でしたが、ふいに気がつきました。虎が吉祥であるならば、女仮はまた栄に攻めてくるのでしょうか。六十年前の戦争はそれはそれは酷いものだったと、湘雲は伝え聞いています。アバハイ達と戦争になると言われてもまったく実感が湧きません。
剣を最後に大きくひとつ振るい、アバハイは動きをぴたりと止めました。きん、と高い音をたてて剣は鞘に収まります。切っ先まで全てが美しく無駄の無い所作です。それからアバハイは、湘雲に顔を向けうっすらと微笑みました。
「さっき飲ませた馬乳酒、なかなか珍しい味がしただろう」
アバハイに見とれていた湘雲は、ぼんやりと頷きました。アバハイはそんな湘雲を見てくすりと笑います。
「実はあれは我々にとってもちょっと珍しい飲み物でね。本当は草原のノルグン人の飲み物だ。ノルグンの軍は強い。我々の精鋭部隊ですら手こずる。というより、我々が弱くなっているのかもしれないが。馬乳酒もノルグンの強さの理由のひとつだ。馬に乗ってどこまでも駆けていき、腹が減れば馬乳酒を飲む。ノルグンの強さを得てみたくて私も飲んでいるんだが、美味しいとはなかなか思えなくてね。やはり外側だけ真似ても駄目なんだろう」
湘雲は驚きました。あんなに悠々と美味しそうに飲んでいたのに、実は違ったのです。アバハイは静かに続けます。
「栄と女仮との戦いもまた、祖父の時代のもっとずっと前から続いている。私もその大きな歴史のなかのひと駒でしかない。六十年前の虎も、もしかすると別に女仮を導くつもりなんか無かったかもしれない。ただ単に都の中で誰かが飼っていたのをうっかり逃がしてしまっただけかもしれない。それに意味を見つけるのはいつも人間のほうだ。虎が例え何であっても、結局決めるのは人間だ」
エメチが少し不安そうにアバハイの横顔をじっと見つめていました。その視線に気づいたアバハイは、ふいににやりと笑いました。
「心配するなエメチ。私に迷いはない」
違います、とエメチは慌てて言い返しました。
「私は戦いの場がなくなったら困ると思ったんです。そうしないと私が戦功をあげる機会がなくなってしまいますから」
これには八郎が大笑いしました。
「エメチ、大した武人!<あっぱれだ!>」
「今何て言ったの?」
「素晴らしいと言った」
「本当に?」
「エメチ俺を信じないか」
アバハイも愉快そうに笑いました。
「さすがエメチだ。心配しなくても、すぐに草原のノルグンと戦う機会がある。ノルグンは最近我らの領内に何度も侵入してきているからな。エメチにはきっと役に立ってもらわなくちゃならないよ」
「お任せくださいませ、アバハイ様。きっと敵の首級を取って見せます」
三人は楽しそうに戦について話しています。湘雲はまたしても驚いていました。女であっても、アバハイもエメチもまるで戦争を楽しみにしているようなのです。女仮人とはそういう人たちなのでしょうか。すると斉家が言いました。
「まったく、どこの奴でも武人は血なまぐさくて嫌になるね。戦争になれば、俺達みたいな普通の人間は巻き込まれて困るだけだってのに」
なあ?と湘雲に顔を向けます。湘雲は少しほっとしました。本当ね、と相槌を打ちます。斉家は頭の上で腕を組み、呆れたように溜息をつきました。
「俺は国の都合で戦ったり死んだりするのはごめんだな。女仮には恩があるけど命を懸けるほどじゃないし、上佳のためなら死んでもいいとも思わない。俺は俺のために生きたいよ」
斉家の言い分は湘雲には新鮮でした。男というのは誰しも国のために働きたいものだと思っていたのです。父の生前、湘雲の家に遊びに来ていた人達も、いつも国家の運営や政治制度についてばかり語っていました。そう言うと、斉家は呆れたように笑いました。
「そりゃあ尽くすべき相手がいればそう思うかもしれないけど、俺にはそんな奴いないんだ。だから、自分がおもしろく生きていければそれでいいと思ってるよ。晴に来たのも、能力があれば異民族でも雇ってもらえるって聞いたからだし」
「上佳にも働き口はあったのでしょう?」
無くもないけどね、と湘雲に斉家は言うと、それから独り言のように続けました。
「俺の父親は上佳の貴族なんだけど母親が妓女でね。母親の身分が低いから、父親の屋敷でも召使いみたいに扱われて本当に毎日つまらなかったんだ。それで屋敷を飛び出して、上佳に来てた北人の道士に弟子入りしたってわけ」
「どうして道士に?」
「浮教の寺は規律が厳しいだろ?道士のほうが楽できると思ったんだ。実際師匠はかなり適当な人だったけど、いい人だったよ。三年前に死んだけど」
「そうなの、それは大変だったのですね」
湘雲は軽々しくこんな質問をしたことを反省しました。しかし斉家の表情は明るいものでした。
「まあ俺くらいの奴はたくさんいるからどうってことないさ。大体あんただってなかなか大変なことになってるじゃないか。当分は晴にいるつもりなのか? 女ひとりでやっていくのはどこでも大変だぞ。今のうちからアバハイ様に言って働き口でも紹介もらったほうがいいと思うよ」
そう言われて、湘雲ははたと気づきました。そうです。成り行きで晴にやってきた湘雲でしたが、具体的なことは何も考えていませんでした。そもそも一度栄に戻って伯父の一家を助けたいと思っていますが、それもどうしていいのか全然分かりません。もし彼らを助けることができたとしても、ではその後は一体どうしたらいいのでしょう。何も思いつきません。アバハイもエメチも八郎も斉家も、それぞれに自分がやりたいことが明確です。では、湘雲のやりたいこととは何なのでしょうか。今まで十八年も生きてきて、全然考えたことがありませんでした。惜春のようにどうしても結婚したかったわけでもないし、かといってほかに何か具体的な目標も思いつきません。父親に甘やかされて育ったせいで、こうなってしまったのです。
「なんてこと!」
湘雲は思わず口にしました。やりたいことが無いというのは困ったものです。「だから言ったじゃありませんか、お嬢様!」と頭のなかで珍花が言うのがありありと浮かびました。これは早急に、自分の身の行く末について考えなくてはならない、と湘雲は眉間に皺を寄せました。
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