第16話

 女仮人は女であっても歯を抜かず馬に乗り、男に負けず勇猛果敢。栄で湘雲が読んでいた本にはそのように書いてありました。湘雲は驚きのあまりぽっかりと口を開けてアバハイを見つめました。八郎も湘雲の横ですっかり驚いています。アバハイは愉快そうに二人を見ました。

「お前が傴人だな?私は実は傴人と会うのは初めてなんだ。なるほど確かに小さい」

八郎はむっとしました。

「俺は鞍岡八郎政利。確かに小さい、しかし武勇で女に負けない」

「何言ってんのよ、私にも勝てていないくせに」

「なんだと、エメチ」

アバハイは二人には何も言わず微笑しただけでした。それから彼女は湘雲を見ました。

「お前が史湘雲だな。栄人の娘。そして、その後ろが、例の虎か」

笠と布を取れ、とアバハイは命じました。虎が何の反応もしないので、湘雲は虎を肘で小突きました。

「言われているではないの、取りなさいよ」

「うるさい、異民族の女に命じられる筋合いはない」

「何馬鹿なことを言っているの」

言い合っていると突然、アバハイは腰に下げた剣を抜きました。あっという間もなく、剣が振り下ろされました。はらりと巻いた布が落ち、虎の顔が現れました。虎もさすがに声がでないようです。

「ほう、本当に虎なんだな。しかし、光ってはいないな」

アバハイは虎をしげしげと見つめました。虎は尊大にアバハイを見下ろします。

「光っていなくて悪かったな」

「おお、聞いたとおり、話もできる」

虎の姿を見ても驚かず、逆に興味津々の様子です。さすがだわ、と湘雲は思いました。その気持ちが顔に出ていたのか、アバハイは湘雲に笑いかけました。

「まずは客人をもてなそう。話はそれからだ」

アバハイは配下の兵士を呼びました。

 湘雲達は幕屋の奥に通されました。豪奢な絨毯が敷かれており、なかなか居心地がよさそうです。配下の兵士が乳のような白くて酸っぱい飲み物を持ってきました今まで嗅いだことのない、腐ったような匂いがします。湘雲は八郎と目を合わせました。八郎も匂いに眉をしかめています。虎はあからさまに嫌そうな顔をしています。虎が何か言う前に、湘雲は虎のあぐらをかいた足の先をぎゅっと握りました。

「何をする」

「余計なことを言う前に懲らしめておこうと思って」

虎はぎっと湘雲を睨みつけましたがそれ以上は何も言わず、腕を組んで目を閉じました。碗には手をつけず不貞寝を決め込むようです。いちいち文句をつけてうるさいよりはましだわ、と湘雲は思い、配られた碗をじっと見た後、勇気をもって一口だけ飲みました。口の中にすっぱい味が広がります。正直なところ、飲み下すのがやっとです。横で八郎がむせています。様子を見ていた斉家が、馬の乳を発酵させてつくった酒だと小声で教えてくれました。斉家もちょっと飲んだだけであまり口をつけていないところを見ると、上佳でも飲まないようです。アバハイとエメチは当然のようにその酒を飲んでいました。エメチはアバハイにぴったりと付き従っており、アバハイの碗が空くとただちに酒を注ぎます。湘雲や八郎に見せていたような強気な態度は微塵もありません。アバハイはあぐらをかいて悠々と座っており、エメチがかいがいしくその世話を焼く様は、まるで物語のなかの大将軍とその愛妾といった風情だと湘雲は思いました。そういう物語は大抵悲劇で終わるのがお決まりですが…。

「エメチ、まるで別人のようだ」

八郎が小声で湘雲に言いました。湘雲は軽く笑って頷きました。

 これまでの出来事を、斉家はかいつまんでアバハイに説明しました。アバハイは馬乳酒を飲みながら話を面白そうに聞きました。時々途中で質問をしたりしますが、どれも的確できびきびとしていて、エメチでなくとも惚れ惚れします。最後まで話を聞き終わったアバハイは、ふうむ、とまるで男性が髭を撫でるように顎をさすりながら考えこみました。

「この虎が人間だったときのことを思い出せば、何かわかることがあるかもしれないと、そういうわけで連れて来たんだな」

「そうなんです、アバハイ隊長」

「つまり、この虎と、紫の虎が、啓封に出た光る虎とどんな関係があるのか、或いは全く関係が無いのか、誰も何もわからないということか」

アバハイが鋭い目つきで湘雲達を見渡しました。その通りなので、斉家も少々苦い顔をして頷きます。アバハイはにっといたずらっこのように笑いました。

「おもしろい。そのほうが私のやりがいがあるというものだろう。エメチや斉家だけに解決されたら私がつまらない」

アバハイは碗の馬乳酒をぐいっとあおると、虎殿、と湘雲の横で体をまるめて座っている虎に呼びかけました。虎は面倒くさそうに目を開けました。アバハイはそんな虎の態度に怒ることもなく、体ごと虎に向き合いました。

「虎とだけ呼ぶのも申し訳ないんだが他に呼びようがない。例えば名前とか、こっちに来て思い出すものは何かないか?」

虎はふしゅう、と息を荒く吐きました。何本も生えている髭が揺れます。

「何もわからないと言っているだろう」

「ふうむ、そうか…今のところ、手がかりは麦餅とシャジク草だけということか」

そこで、あっと斉家が思いついたように言いました。

「隊長、明州の街で紫の虎が出たとき、こいつの倀が『袁傪』と言ったんです」

「袁傪?」

「誰の名前なのか分かりませんが、麦餅よりは手がかりになりそうですよ」

湘雲は懐から紙を取り出しました。

「紫の虎がこの詩を詠んだときに、倀が言ったのです。もしかしたら何か関係があるのかも…」

詩を見せると、アバハイは一度詠みました。女性にしては低く朗々とした素晴らしい声です。

「うん、結構いい詩だな。でも聞いたことがない。その袁傪とやらがこの詩の作者なのか?」

「それもわからないのです」

ふーむ、とアバハイは眉を寄せると、外に向かって何か言いました。栄語ではありません。女仮の言葉でしょう。呼ばれて幕屋に入ってきた兵士は、腕に鳩より少し大きい白い鳥を乗せていました。目がくるりとしてなかなかかわいらしい鳥です。アバハイが指示をすると、兵士はすぐに出て行きました。

「今のはなんだ?」

八郎が斉家に聞きました。

はとふくろうさ」

「鳩梟?」

「梟のように賢く鳩のように遠くまで飛ぶ。伝書に使うんだよ」

伝書に使うといえば湘雲は鳩しか知りません。するとアバハイが言いました。

「もともと鳩梟は我々女仮人が使ってきた鳥だからな。栄人はあまり使わないんだろう。賢くていい鳥だ。戦では斥候にも使う」

せっこう?と八郎が怪訝な顔をします。湘雲が文字を書いて見せると理解したらしく眼を輝かせました。

「戦争で使えるなら持って帰りたい。買えるか?」

「残念だが、鳩梟は買うものじゃない」

アバハイは苦笑しました。

「鳩梟は自分で雛を見つけて親と認めてもらわなきゃいけない。鳩梟はどこに行っても必ず親のもとに帰ってくる習性がある。だから我々女仮人は、必ず二人一組が両親になって鳩梟の雛を育て、両親の間を行き来させることで伝書を運ばせるんだ。ただ買えば使えるというものじゃないよ」

八郎は残念そうに肩を落としました。湘雲はアバハイに尋ねました。

「鳩梟は女仮の言葉では何と言うのですか」

「気になるか?珍しいな、栄人は我々への興味など無いと思ってたが」

アバハイは意外そうに言いました。確かにその通りです。湘雲も、都にいたときにはこの世に栄語以外の言葉があるなど考えたこともありませんでした。しかし、今はもう八郎とも斉家ともエメチとも、アバハイとも出会いました。女仮の言葉だって少し知ってみたいのです。アバハイは、湘雲をじっと見るとまるでその心のうちを読んだかのように微笑みました。

賢いゲンギエンニンゲだ」

「げんげんいんげん?」

湘雲はその言葉を口にしてみました。アバハイがくすりと笑います。なんだか偉い坊さんみたいだなあ、と斉家が暢気に言いました。

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