第八章 湘雲、河を渡る
第15話
渦水の水は茶色に濁っていました。河の向こう岸ははるか遠くにあって見えず、夏らしく薄く青い空との境目はぼんやりとして定かではありません。湘雲は、こんなに広い河を見るのは初めてでした。春のご先祖参りのときには都の側を流れる河のほとりを通りますが、これほど大きくはありません。見渡す限りひたすら川面だけが見える景色は壮観と言うほかありません。暑い盛りの季節です。むわっと蒸し暑いのは相変わらずですが、遮るもののない河辺は、多少涼しさを感じます。
渦水を渡る船は十日に一度、明州と対岸の晴の街息州を往復しています。湘雲達が明州の街にやってきて四日目に、船が息州から到着しました。船着場のある後門が開くと、毛皮などもの珍しい荷物がどんどん運びこまれその日は一日中大変な騒ぎとなりました。間一日を空けて、船は今度は晴へ向けて出発します。
晴へ行くと決めたはいいものの、許可証もない湘雲達でしかも三人もいます。本当に渡れるものか虎はいぶかしんでいました。湘雲もそれを心配していましたが、斉家達と話した次の日、斉家は三人をある立派な屋敷に連れて行きました。毛皮や、見慣れない不思議な装飾で豪華に彩られた室内で四人を迎えたのは、張と名乗る老人でした。全身ぴったりとした女仮風の服に身を包み、帯には動物の形をした金の金具がついています。老人はいかにも好々爺という様子で、にこにことと湘雲達を迎えました。斉家が卓の上にずっしりと重い袋を置くと、老人は中身を確認し、召使の少年に何事か申し付けました。しばらくすると、少年は許可証を三枚持ってやってきました。斉家も何も言わず、老人も何も言わず、従って質問を差し挟む余地も無く、四人は屋敷を後にしました。
「何を渡したの?」
帰り際、湘雲が斉家に尋ねると、斉家はこともなげに「銀二十両」と答えました。銀二十両!湘雲には実際のところがいまいち分かりませんが、それでも大した金額だというのはわかります。八郎は「アカテンの毛皮が三十枚は買える!」と目を剥きました。
「あの親父はそれで稼いでるのさ。見ただろ、あの屋敷」
「それにしたって、お金さえ出せば許可証が買えるなんて」
湘雲はすっかり感心してしまいました。しかし虎は不機嫌そうです。
「本当に大丈夫なんだろうな?俺は責任は取らんぞ」
「大丈夫だよ。なんたってあの親父と役人はグルだからな。街の商人達も皆知ってるんだろう」
ふん、と虎は文字通り鼻を鳴らしました。猫のくしゃみを大きくしたような音でした。都では北の女仮人は大変な恐れられようでしたが、この街では全く違っています。こんなに簡単に晴へ行けるなら、案外、本当に女仮人の女が渦水を渡ってきてもおかしくないわね、と湘雲は思いました。
船員に早く乗れとせかされ、湘雲は慌てて船に乗り込みました。大きな船です。乗客は三十人ほどで、皆明州の街の商人やその使いのようです。乗船の前、後門を通るときに兵士が許可証の確認をします。湘雲は女であることがばれないか内心冷や冷やしていましたが、何の問題もありませんでした。斉家の言ったことは本当のようです。下働きの男達が荷物を次々に載せていきます。見たところ布や生糸や茶が目立ちますが、香木や燕の巣、尾長鳥の光羽など南方の珍しい物産もあります。もちろん栄でも高価なもので、光羽の七色に光る美しさに見とれて思わず船の欄干から身を乗り出して見ようとすると、後ろから「危ない!」と腕を引っ張られました。振り返ると、エメチが湘雲の腕を掴んだまま、冷たい目で見下ろしています。
「ここで落っこちて死なれたら迷惑でしょ」
「ごめんなさい、でも珍しいからつい」
「困るのはこっちなんだからさ、しっかりしてよね、すっとこどっこいさん」
「まあ、なんですって」
「それにしてもあんた、すごいおばあちゃんみたいな喋り方するよねえ」
エメチはからからと笑いました。今日は男物の上着を着ています。髪も頭の上でぐるりと結ってまとめてあり、もともと目元がりりしいこともあって湘雲の目にも少年に見えるから驚きです。しかしおばあちゃんみたいとは聞き捨てなりません。
「私は普通に話しているだけよ、失礼ね」
そう反論すると、そばにいた斉家も確かにそうだな、と言いました。
「実は俺も何だか変わった話し方だと思ってたんだよね。言われてみれば年寄りの話し方だなあ、おばあちゃんっ子だったのか?」
「都では皆こうやって話しているわよ、これは普通よ」
「晴でそんな風に話したらおかしく思われるよ」
エメチはにやっと笑うと、帆の準備をしている甲板のほうへ行ってしまいました。なんなのよ、と湘雲は小さく地団太を踏みました。なんとなく、エメチにはよく思われていないように感じます。八郎は二人が言い合うのを横で見ていましたが、エメチが去ったあと湘雲達にこそっと寄ってきました。
「おっかない女だ。女仮人の女皆ああか?」
「そんなことないよ、エメチは誰に対してもああなんだ」
斉家は笑って返しましたが、ただし、と続けました。
「エメチで驚いてるようじゃ、晴に行ってからもっとびっくりすることになるだろうよ」
「どういうことカ?」
「着けばわかるよ」
がこん、と船が揺れました。ついに出港するようです。船頭がなにか叫んでいます。風が少し強めに吹いて来ました。船はゆっくりと、滑るように河に漕ぎ出しました。川面はまっ平らで、よく見ると微かに波があります。当然ですがほかの船の姿は全く見えません。少しずつ、栄の地が離れていき、やがて見えなくなります。やがて、うっすらと、対岸の晴の地が見えてきました。湘雲は船の進むほうを見つめました。一体、晴はどんなところなのでしょうか。
栄の人々が女仮と呼ぶ、女仮人の国、渦水より北を治める国家が晴です。昔は渦水の北も全て栄の領土でしたが、六十年前、女仮が栄を打ち破って北半分を支配することとなりました。女仮人はもともと、馬に乗って北の森林を自由に行き来する狩猟の民です。千里を駆ける駿馬を自在に操り、その馬上から放たれる矢は強く鋭く、岩をも貫くと言われます。また、森に住む虎を飼いならして戦いに用いることでも知られています。男は皆たくましい武人であり、女もまた男達が留守の間家族や家畜を守るために戦うという、非常に屈強な人々として栄では恐れられていました。
明州の対岸の港町、晴の入り口となる街息州は、活気に溢れていました。立ち並ぶ建物は石づくりで栄とはあまり変わりがありませんが、人々は全く違っています。最初に目に付くのは男性の髪形でした。頭頂部の髪を剃っているのは八郎と同じですが、それ以外の部分の髪は頭の形にそって数本ずつに編み上げひとつにまとめ、後ろに長く垂らしています。まとめたところには皆簪を挿しており、なかには美しい石があしらわれた簪もあります。服は明州の街で見たのと同じように体にぴったりとしたものです。女性の髪形も目を引きました。頭を鮮やかな色の布帽子で覆い、髪はひとつの太い三つ編みに結って垂らしているのは皆同じですが、時々額の横を広く剃りあげている人がいるのです。エメチが、あれは既婚女性の髪型だと教えてくれました。そのほかにも、湘雲の見たことの無い鮮やかな刺繍を施した短衣や毛織の帽子、冠を身につけた人々が大勢行き交っています。中には瞳の黄色い人や髭が赤かったりする人、肌の浅黒い人もいます。言葉も様々です。時々栄の言葉が聞こえてきますが、エメチのような話し方で、栄にはないなまりがあります。湘雲は思わず声をあげました。
「すごいわ、こんなにたくさんの人がいるなんて」
斉家は得意そうです。
「西の砂漠の向こうから人がどんどんやって来るんだ。都の開都はこんなもんじゃないよ。ここの百倍はでかいし、もっと色んな人達がいる」
「まあ、楽安とどちらが大きいのかしら」
八郎ももの珍しそうにきょろきょろと街を見回しています。
「西方の民は得体のしれない神を崇め、長幼の序もない蛮族だと言うではないか」
虎のむすっとした声が聞こえました。何故声だけかというと、頭からすっぽり布をかぶせられていたからです。栄と違い、晴には様々な異国の商人達が商売のためやってきています。彝兀の知らない言葉を話す人々がたくさんいれば、そのまやかしは通じなくなってしまいます。さすがに虎が服を着て歩いていれば騒ぎになることは間違いありません。
「おい、そういうことをあんまり大声で言うなよ」
斉家は呆れて虎の肩をどつきました。幸いにも、周囲の誰にも虎の言ったことは聞こえていなかったようです。
「あんたも頭が固いやつだな。別にどんな神様を信じてたって商売がうまくいきゃそれでいいだろ。栄には栄人ばかりだけど、こっちにはいろんな奴がいるんだから、いちいち他人のことなんか気にしてたらやってけないよ」
「これから先ずっと布をかぶっていなければならないのか?」
虎は斉家の注意は無視です。まったく子供っぽいったらありはしないわ、と湘雲は呆れてしまいました。ちょっと考えてみるから、と斉家は虎をなだめるように言いました。
一行は、まず斉家達の拠点に向かいました。歩く道々全てが珍しく、ついついあちらこちらと目移りしてしまいます。女性が馬に乗って出歩いているのにも何度か遭遇し、湘雲は驚きました。栄では女性が馬に乗るなど考えられないことです。それに歯を抜いていません。本で読んだことは本当だったのだ、と湘雲は嬉しくなりました。おかげでここでは、湘雲もちっとも変ではありません。それにしても不思議な気分です。栄では、子供は別として歯を抜いていない女子なんて見たことがありませんでした。それなのに、今では逆なのです。歯を抜いている人のほうが珍しいのです。だったら歯を抜いていないことをそんなに気にすることなかったわ、と湘雲は思いました。悩んでいたことが、急にちっぽけに思えてきます。
少し歩いて着いた先は明州の街で借りていたのと同じくらい小さな家でした。三人を残して出て行ったエメチと斉家ですが、斉家は両手いっぱいに布や袋を持って先に帰ってきました。いい匂いがします。
「腹が減っただろ、麦餅を買ってきたよ」
斉家が卓上に広げたのは、様々な種類の麦餅でした。ふわふわしたものから平べったいものまで色々です。中に具が入っているものや、葱が練りこんであるものもあります。食べてみると、それぞれ違った味がして不思議でしたがどれもおいしいことには変わりありませんでした。それから斉家は衣服も買ってきていました。どれも女仮のぴったりしたものです。湘雲はそちらに着替えることにしました。斉家が女の姿で出歩くには女仮の衣服のほうがいい、と言ったこともありますが、第一にはちょっと着てみたかったからです。上着は白の麻布でできていて膝の上までの長さがあり、胸から腰にかけて赤と緑の糸で鮮やかな刺繍が施してあります。袴は紺です。着てみると、なかなか動きやすくて快適でした。
「湘雲殿、似合っているぞ」
八郎が褒めるので湘雲はにっこり笑いました。八郎も、こちらでは気兼ねなく東向の衣服を着ることができるので機嫌がよさそうです。袖の短い麻の上着に幅の広い袴を履き、膝から下は布をぐるぐる巻いて靴ではなく草で編んだ履物を履いています。
一方斉家は、虎をどうやって外を歩いてもいい姿にするか四苦八苦していました。手足は隠せても、やはり困るのは顔です。明らかに虎なのです。最終的に、目から下に濃染めの布をぐるぐると巻き、頭に大きな竹の笠をかぶることになりました。衣服も栄風のゆったりしたものでは目立つので、袴と長靴に袖のない長い外套を羽織ることで体全体を隠します。ちぐはぐな恰好に、湘雲と八郎は大笑いしました。
「笑うな。好きでこのような恰好をしているわけではない」
「ああ、そうね、ごめんなさい」
湘雲は笑いを飲み込みますが、八郎はこらえきれずにまた笑いだします。斉家が、変な恰好だけどまあ大丈夫だろうと気楽に言いました。
「これで何か人間だったときのことがわかれば安いもんだろ。もしかしたら人間に戻る方法もわかるかもしれないじゃないか」
「ふん、そんなものがあればいいがな」
「おい、もっとやる気をだせよ、あんたのことだろ」
「お前達は光る虎とやらのことがわかればいいのだろう、俺とは関係ない」
「わかんないじゃないか、もしかしたら何か関係あるかもしれないし」
「まあせいぜいがんばることだな」
ああ言えばこう言うとはまさにこのことです。虎は出会った時から始終こんな感じでいらいらするのですが、しかし、それでも一番最初に紫の虎から一応は湘雲を助けてくれたのでしたし、八郎と出会った宿場街でもやはり湘雲を助けてくれました。悪ぶっているだけで本当はいい人、いえいい虎なのではないかと湘雲は諦めずに考えていますが、それも自信がなくなってきます。
「そういえば、紫の虎、最近見ていないネ」
八郎が思いついたように言いました。確かにそうだなあ、と斉家は腕を組みます。
「都のほうから来た商人達も、あれきり虎は一度も出ていないと言ってたよ」
確かに不思議なことでした。湘雲が楽安にいた間には何度も人を襲ったりしていたというのに、今は時々湘雲達の前に現れるだけのようです。もしかして、と湘雲は思いつきました。
「紫の虎は私達を追ってきているんではない?」
「馬鹿言うな。そんなことあるわけないだろう」
虎は即座に否定しましたが、それだって根拠はありません。
「やっぱり、紫の虎はまた姿を見せる気がするわ」
湘雲は言いました。理由はありませんがそんな気がするのです。
そこへ、エメチが帰ってきました。エメチは虎の恰好を見るなり目を見開きましたがそれ以上は何も言わず、全員を見渡しました。
「アバハイ様が虎とお会いになりたいって。街の外に幕屋を張ってらっしゃるから、今から行くよ」
「アバハイ隊長が来てらっしゃるのか」
斉家の声も弾みます。以前、斉家やエメチが仕える人だと聞きましたが、一体どんな人なのでしょう。
「千人隊長、千人の部隊の隊長いうことか?」
八郎が尋ねると、そうだとエメチが答えました。
「正規軍では十人隊長のうえに百人隊長がいて、それを束ねるのが千人隊長。アバハイ様は正規軍ではなく皇后様直属の
「お前より強いか?」
「もちろん。アバハイ様より強い者などそうはいない」
エメチはうっとりと言いました。八郎は少し怯んでいるようです。もともと勇猛で名高い女仮人ですが、そのなかでも指折りの武人となれば一体どんな戦士なのでしょうか。背丈が十尺もある屈強な大男でも驚きません。
街を出ると、外には荒野が広がっていました。まったく人影は見えません。栄の側と同じく、渦水の近くには人は住んでいないようです。荒野の真ん中に、白い幕屋が固まって建っていました。湘雲は幕屋を見るのも初めてでした。幕屋はちょっとした家ほど大きく、いくつも集まっていると村のようです。その周りには馬が数十頭もゆったりと草を食んでいます。ただ河を渡っただけなのに、全く違う世界へ来たようです。
エメチに率いられてそのなかに入っていくと、兵士達が物珍しそうに湘雲達を見ます。真ん中にひときわ大きな幕屋がありました。屋根のてっぺんには銀の鹿が輝き、太陽の光を受けぴかりと光ります。エメチが一歩前に出ると、見張りの兵士が鮮やかな刺繍で彩られた入口の布を持ち上げました。
「アバハイ様、エメチでございます」
「うん、入れ」
女性の声です。兵士ばかりと思っていましたが、侍女も連れてきているのでしょうか。エメチは一礼し中に入りました。湘雲達も後に続きます。
入った瞬間、湘雲は目を疑いました。ほんのり暗い幕屋のなか、正面の椅子に座っていたのは、すらりとした美しい人でした。高い額、切れ長の瞳、長い髪を頭の上でまとめ一本に編んで垂らしています。頭頂部を剃ってはいません。
「アバハイ様」
エメチと斉家がひざまずきました。湘雲と八郎も慌ててそれにならいますが、虎は立ったままです。
「エメチ、斉家、ご苦労だったな」
聞き間違いではありません。湘雲が身じろぎすると、アバハイ様と呼ばれたその人は、ははは、と大きな声で笑いました。
「後ろが言っていた者達か。よく来てくれた。私がアバハイだ。グワルギャ氏マンタイの娘、アバハイ」
正面のその人はひじ掛けにもたれにっと笑いました。
「そうだ、私は女だ」
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