第七章 女仮からやってきたふたり

第14話

 男が案内したのは、街の外れのほうにある小さな家でした。まるごと借りたほうが何かと便利だから、と彼は言います。その頃には、もう空の端が白んできていました。物売りの声が街のどこかから聞こえます。全員が座れるような椅子など無く、彼らが寝泊りしているらしい床が少し高くなったところに直接座りました。八郎はこのほうが落ち着くようです。男は慣れた手つきでお湯を沸かし、小さな椀に注ぐとそれを全員に配りました。中は少し色づいたお湯で、いい香りがします。呑んでみると、ほんのりと何か柑橘類のような風味がありました。

「これは何?」

「これは干した霜柚子を湯につけたものさ。大したものじゃないけど、なかなかいいだろ。…ああ、栄の人は霜柚子知らないんだっけ?」

湘雲は頷きました。聞いたことがありません。男は袋からその干し柚子を見せてくれました。茶色っぽい黄色の、刻んだ何かです。

「柚子の仲間だ。寒いところでしか育たないんだって。片手で掴めるくらいで黄色くて表面がちょっとぼこぼこしてるんだ。霜柚子は体にいいって俺の国では皆よく食べるんだよ」

「俺の国?」

「まだ名乗ってなかったな。俺は斉家さいかという。きん斉家さいか上佳じょうけい人だ」

彼はにっこりと湘雲に笑いかけました。

 上佳は、女仮の東側に月の形につきでた半島にある国です。上佳のさらに東の海に、東向の島々があります。しかしこの斉家という男は、確かに聞いたことの無いなまりはあるにしても驚くほど流暢に栄の言葉を話します。

「上佳の人は皆栄の言葉を話しているの?」

湘雲が聞くと、斉家は笑いました。

「そんなことはないよ。上佳には上佳の言葉がある。俺の名前は上佳の言葉ではジェガ、という。栄語は上佳に住んでいる北人ほくじんに教えてもらったのさ」

「あの、晴とは何なのです?それに北人とは誰のこと?」

湘雲は面食らいました。耳慣れない言葉ばかりです。斉家は気を悪くすることもなく説明してくれました。

「晴は北の女仮の国の名前だよ。あんたたち栄人は、女仮人の国だからただ女仮と呼ぶが、ちゃんと名前があるのさ。北人は、晴にいる栄人のこと。晴は栄の領土の北半分を奪っただろ?そのとき南に逃げた栄人も多かったけど、残った栄人もたくさんいた。その残った栄人とその子孫を、南の栄人と区別して、晴では北人と呼んでるってわけだ。どうだい、わかったか?」

「全然知らないことばかりだわ」

「そうだろ?ちなみに、晴は女仮人の言葉では晴れガルガルンと言うんだ。女仮人は自らを青いニオワンギヤン鹿オロンと名乗る。発音できるかい?」

「に、にお?ぎゃ?」

「まあ、おいおいだな。女仮ってのは最初栄人が勝手に字を当てただけなんだ。今じゃ本人たちも使ってるけどね」

八郎が自分の国を傴とは呼ばずに東向と言うように、女仮人にも自分達の国を表す言葉があるのです。考えもつきませんでした。斉家は部屋の隅に立ったままの、歯のある女を指しました。

「エメチは北人だよ」

「えっそうなの?けれど名前が…それに、歯を抜いていないわ」

湘雲がエメチと呼ばれた女を見ると、彼女は少しむっとしたようでした。

「わが一族は確かに栄人ではあるけど、古くからグワルギャ氏族長にお仕えしてきた。だから、女仮名を名乗ることも許されてるの。おかげで歯を抜くなんて野蛮な風習からも逃れることができたってわけ」

「野蛮な風習ですって?」

「そうでしょ。だっておかしいじゃない、せっかくの丈夫な歯を抜くなんて。そういうことやってるから栄人は女仮に負けたんだと思うけどね」

「それとこれとは関係ないのではない?」

湘雲は憮然として反論しました。歯を抜く風習のせいで今こんな目にあっているといっても過言ではありませんが、いきなり馬鹿にされると何かおもしろくありません。さらに反論しようとしましたが、エメチが先にそれを制しました。

「まあ今はそのことはいいわ。それより斉家、その虎に話を聞いてちょうだいよ、アバハイ様がお知りになりたいのは虎のことでしょ」

エメチは虎を指差しました。虎は、部屋の隅を陣取って目を瞑って座っていましたが、突然指されて片目を開きました。

「小娘、一体どういうことだ」

「私達はね、虎を殺すことが目的なの」

エメチはにやっと笑いました。さすがの虎も少し肝を冷やしたようです。なんだと、と言いかけたところに斉家が割って入ります。

「おいエメチ、嘘を言って怖がらせるなよ」

エメチは素知らぬ顔です。

「そもそも、何故俺の姿が見える?」

虎は斉家に言いました。少し怒っているようです。これまで、八郎以外に彝兀のまやかしが効かなかったことはありませんでした。そうでなければ今頃とっくに捕まっていたはずです。湘雲も不思議に思っていました。

「知っていて私達に話しかけたの?」

「そうだなあ、半分くらいは」

「半分?」

「そこの東向人のおかげで分かったんだよ」

八郎が顔をしかめました。

「どういうことだ?それと、俺の名前、鞍岡八郎政利だ。八郎と呼べ」

「わかった、八郎さんね。いや、実はね、俺達は晴の密命を受けて虎について調べるために、ここに来たんだ」

「密命?」

驚いて、湘雲は言いました。女仮と虎にどんな関係があるというのでしょうか。八郎も驚いたようでした。

「女仮人が、紫の虎について知っているということか?」

「まあな」

斉家は、何故自分達がここに来たのかを話し始めました。


「六十年前の戦乱に、虎が関わりをもっているのを知っているか?」

斉家は皆を見渡しました。湘雲が答えます。

「女仮人が啓封に攻めてきたとき虎に乗っていたという話は本で読んだけれど」

「それも間違いじゃない。晴軍には今も虎部隊がいる。だが、それとは別に、光る虎が出た、という言い伝えがあるんだ」

「光る虎?」

斉家が言うのはこういう話でした。

 当時、女仮の軍は破竹の勢いで栄の領内を進み、ついに啓封まで迫りました。しかし啓封は堀と三重もの城壁で囲まれた都市であり、容易に進入することはできません。陣頭指揮をとる女仮王にして晴太祖、英雄ウヤスが一体どうしたものかと迷っていると、どうも都のなかが騒がしくなりました。何事かと見ると、なんと閉じきってあった城壁の正面の門がばりばりと音をたてて壊され、中から光るものが飛び出て来ました。よくよく見ると、それは光る虎でした。虎は外に出てくると一声、空に向かって大きく吼えました。ウヤスは、これぞまさに天啓だと、開かれた城門から都に攻め入りました。こうして、ついに啓封は陥落したのです。

 湘雲には初めて聞く話です。斉家は話を続けました。

「それ以来、虎は晴にとって神聖な存在になった。ところで四か月ほど前、かつての栄の都の啓封に、光る寅が再び現れたらしいんだ」

「誰が見たの?」

「啓封に潜んでる盗賊の一味よ」

奥で腕を組んだまま立っていたエメチが言いました。

「啓封はすっかりさびれて人も住んでないの。おかげでいまや盗賊やならず者の隠れ家になってるんだけど、そいつらが「光る虎に襲われた」って命からがら逃げてきたんだよ、盗賊が役所に助けを求めてきたんだから笑えるよね」

なんとも眉唾な話です。湘雲は眉をしかめました。

「それ、本当なのかしら?」

「それを調べる役目を皇帝から仰せつかったのが、俺達の親分、アバハイ千人隊長ってわけだ」

斉家が得意そうに言いました。もし本当に虎が現れたなら、晴にとっては瑞祥です。栄と戦争を始めよという天命かもしれません。調査をいいつかったアバハイ隊長は、さっそく配下を使って調査を開始しました。すると、ちょうど栄の都で最近虎が出没しているというではありませんか。そこで、まずは斉家とエメチが派遣されたのでした。

それにしたって、と湘雲は思いました。渡航には許可証が必要なはずです。女仮人の栄への渡航は基本的に禁止されていますし、まして斉家は異民族です。そう言うと、斉家はふところからきれいに折り畳んだ紙を出して見せました。半分の印が押された、許可証です。湘雲達が街に入るときに使ったものと似ています。

「ちゃんと本物だよ。なに、こういうのはな、役人にちょっと袖の下を渡せばこっちのもんなのさ」

「そういうものなの?」

なんとも呆れたことです。ということは、街にいる女仮風の服装の人々のなかには、きっと本当に向こう岸からやってきた人達がいたのでしょう。斉家は許可証を再び大事にしまうと、話を続けました。

「それでこっちに渡ってきたんだけど、そしたらすぐに都で女仮人の女が虎を使って宰相の息子を襲わせたなんて事件が起きたんだ。びっくりしたよ。虎を扱えるのは女仮のなかでも特別に選ばれた兵だけだっていうのに、そんな女が栄の都にいるはずないじゃないか。不思議に思って、とりあえず街にやってくる商人にそれとなく色々話を聞いてみてたらね、またおかしなこと言う奴がいたのさ」

斉家が商人のふりをして明州の街で聞きこみを続けていると、都のほうからやってきた行商人が、なにやらおかしなことを言っているのに出くわしました。食事中に仲間に話していたのですが、いわく、人間のように歩いている虎の夢を見た、と。斉家はもっと詳しく聞いてみました。服を着て二本足で歩く虎と、少年が二人、歩いているのを見た気がする、と行商人は言いました。驚いて瞬きをすると、次の瞬間にはもういなかった、と彼が言うと、仲間達は白昼夢でも見たんだろうと馬鹿にして笑いました。

 それだけなら、斉家も聞き流したかもしれません。しかし、それから四日後にもまた同じ話を聞いたのです。今度はもう少し都から明州に近い街からやってきた商人でした。彼もまた、仲間達と食事をしている最中に、歩く虎を見た気がするというのです。しかも少年は二人いて、そのうち一人は見たことの無い変な髪形をしていたそうなのです。彼は大層驚き同行の仲間に言ったのですが、一度目を離すともうそんなものはどこにもおらず、仲間達もそんなものは見たことが無いと言います。虎を怖がりすぎて幻を見てしまったのだろうか、と商人は言い、仲間達は笑っていました。斉家は、ある昔話を思い出しました。子どもの頃に寝物語に聞いた、人食い虎の話です。虎は人を食うと、話したり考えたりする人間の力を得られる、そうしてやがて人間に化けて次に食う人間を街に探しに来る、という話で、子どもの頃は大層恐ろしく思ったものでした。もしかして、と斉家は思いました。虎は人間に化けているから、いくら兵士が探しても見つからないのではないだろうか。

「あり得ない話ではあるけど、昔話ってのは意外と侮れないからな。商人の話を聞くと、どうも北へ向かっているらしいことが分かった。ということはもしかしたらこの明州にいれば会えるかもしれないと思って、ここで待ってたんだ。そうしたらちょうどまさにあんたらが来たんだよ」

斉家は楽しそうにそう言いました。虎はひどく機嫌が悪そうです。

「三人連れで、商人らしくない格好をしていたからな。もしかしてと思って声をかけた。最初は分からなかったんだけどね、途中で何か東向語が聞こえたんだ。その瞬間、突然、今まで話をしていた学者風の男と連れのガキがいなくなって、かわりに男の格好をした女と、東向人と、なんと服を着て二本足で歩く虎がいるじゃないか。これにはびっくりしたね」

湘雲は、最初に正門の前で斉家に会ったときのことを思い出してみました。そういえばあのとき、八郎が虫に刺されたと言っていました。

「確かに、そのとき東向語で痛いと言ったかもしれない」

八郎はばつが悪そうです。しかしどうしようもないことでした。八郎が栄の言葉が不得手だったからこそ彝兀のまやかしにかからなかったように、東向語がわかる斉家もそこでまやかしが解けてしまったのでしょう。彝兀のまやかしについて湘雲が斉家に説明すると、斉家はとても感心したようでした。

「なるほどなあ、おもしろいもんだね。それであんた達は無事にここまで旅して来られたのか」

「そうなの、虎がいなかったら私はとっくに捕まっていたと思うわ」

湘雲はそう言いましたが、実際虎のまやかしが完璧ではなかったことも今回改めてわかりました。現にこうして斉家達にばれてしまいました。ずっとこのまま虎のまやかしに頼っているわけにはいかないようです。ここまでエメチは黙って話を聞いていましたが、口を開きました。

「しかし、…湘雲だったっけ?あんた、本当に都で虎に宰相の息子を襲わせたの?あの紫の虎もあんたの仕業?」

「違うわ!私は全然関係ないの、逆に大変な目に遭ったのよ!」

そうです。そのことを話さなければなりません。

 今度は湘雲が、これまで起こったことを話す番でした。父が死んだこと、都で縁談があったこと、夏至節の日に宰相の息子に襲われそうになったこと、虎に助けられたこと、突然現れた紫の虎のこと、そうして都を出る羽目になったこと。湘雲は話しながら、本当に不思議なことだと思いました。縁談で悩んでいたことなど今話すまですっかり忘れていました。所詮その程度の結婚ならしなくてよかったのでしょう。湘雲は、紙と墨を借りると、紫の虎が詠っていた詩を書き付けました。


偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃

今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高

我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪

此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷


たまたま狂疾きょうしつつて殊類しゅるい

災患さいかんあいつてのがるべからず

今日こんじつ爪牙そうがたれへててきせんや

当時とうじせいせきともあいかりき

われ異物いぶつりてそうぼうもとにあれども

きみすでようりて気勢きせいごうなり

ゆうけいさん明月めいげつたい

長嘯ちょうしょうさずしてほゆるすのみ




「前に一度現れたときも、今日も、紫の虎はこの詩を詠っていたわ」

虎以外の皆は興味津々で湘雲を囲みました。

「なかなかいい詩じゃないか」

斉家が言います。上佳でも詩は学ぶものなのでしょうか。後で聞いてみようと思います。

「これは虎が詠んだ詩なのか?」

斉家に尋ねられて、湘雲は首を振りました。

「昔本で読んだことがあるの。詠み人知らずの詩集に載っていたわ」

「じゃあその詠み人が紫の虎と関係があるってことなのかな?」

「斉家の考えすぎじゃない?単に内容を伝えたいだけかも」

皆あれこれと意見を言い合いますが、決め手に欠けます。斉家が、詩を一度声に出して吟じてみました。太くてなかなかいい声です。詠み終えて、斉家はそうだ、と顔を輝かせました。

「最初の行、殊類というのは虎のことじゃないか?気が触れて虎になってしまったって訴えてるんだ」

湘雲ははっとして虎を見ました。虎は座ったまま目を閉じていましたが、湘雲の視線を感じてゆっくりと目を開き、湘雲を見ました。

「虎は、昔人間だったのよね?」

このことは、まだ斉家とエメチには説明していませんでした。斉家は驚いて声をあげました。

「じゃ、これはあんたのことなのか?」

「さあ、知らないな。俺はそんな詩は知らない」

虎は仏頂面でそう言います。

「本当か?」

「さあ、どうなんだろうな」

「そもそも聞こうと思ってたんだが、あんた、一体何者なんだ?」

斉家の質問は、実のところ湘雲も気になっていたことでした。そして八郎も、エメチもです。皆が虎に注目します。虎は肩をすくめました。

「俺もよくわからない。あの紫の虎が何者かわかれば、あるいは俺のこともわかるかもしれないな」

「前もそう言ってたわね。あなた、いつどうして虎になったか本当に覚えていないの?」

「生憎だがね」

「倀というのは本当にあんたが昔食った人間なのか?」

今度は斉家が、虎に尋ねました。

「それは本当だ」

「それっていつどこで食べたやつだい?」

「そんなものは忘れた」

虎はぶっきらぼうに答えました。斉家はしばし考え込むように顎に手をやっていましたが、やがて虎に向かって「袁傪」と言いました。すると虎はびくりとしました。

「さっきあんたの倀ってやつが言ってた言葉だ。知ってるんだろ?」

「……知らない、そんなものは聞いたことがない」

斉家が顔をしかめました。虎の言っていることはどう見ても嘘です。

「では、どうして昔人間であったことはわかるの?」

「それは…」

湘雲が尋ねると、虎は言いよどんで顔を逸らしました。どうしても言いにくいことがあるようです。エメチはそれらをずっと見ていましたが、そこで背を壁から離し、とん、と靴で床を鳴らしました。

「話さないなら今すぐ切るよ」

手を腰の短刀にやっています。湘雲は肝を冷やしました。

「ちょっと待って、殺すのは駄目よ」

「大丈夫、殺しはしない。ちょっと痛めつけてやるだけだ」

「虎は瑞祥なのでしょう?瑞祥を傷つけるつもり?」

「もとが人間なら瑞祥の虎ではないかも」

鞘から抜かれた刃がひらりと宙で光を放ちました。湘雲は思わず目を瞑ります。しかし聞こえたのは金属同士がぶつかる音でした。恐る恐る目を開けると、八郎が刀でエメチの短刀を受け止めていました。エメチはぎろりと八郎を睨みます。

「邪魔するな、傴人」

「ここまで旅、世話になった恩がある。東向の武人は受けた恩にそのぶん報いる」

八郎の言葉に斉家がなかなかやるじゃないか、と他人事のように言いました。感心しているようですが止める様子もありません。エメチと八郎も罵り合いは過熱していきます。

「女のくせに武人になったつもりカ」

「なんだと?私より弱い奴に言われたくないわ」

「お前に負けたことない!」

「やってみればわかるよ、ほら、来てみなさいよ」

「<いいだろう、後悔することになるぞ>」

誰も彼も全然あてになりません。皆勝手なことをしてばかりです。湘雲はかっとなって、「もう!」と叫びました。あわや掴み合いというエメチと八郎でしたが、これには驚いて動きを止め湘雲を見ました。湘雲はつかつかと虎に詰め寄りました。虎は座ったままなので湘雲と高さが同じくらいです。湘雲はその肩を上からぐい、と掴みました。

「しっかりしなさいよ!」

虎はあっけにとられていました。湘雲にそんなことを言われるとは思わなかったようです。

「あなた、何でもそうやってなんでも煙にまいて本当のことを全然言わないんだから!ちゃんと知っていることを言いなさい!このすっとこどっこい!」

これを聞いて斉家がふきだしました。

「なによ、どうして笑うの?」

「いやすまない、だってそんな古い罵り言葉、実際に言った人初めて見たもんだから」

斉家は腹をかかえて笑います。斉家があんまりにも笑うので、つられてエメチも笑い始めました。湘雲は恥ずかしさで顔が熱くなりました。ちょっと下品な小説をこっそり読んでいたときに出てきた言葉でしたが、うっかり口が滑ったのです。斉家が八郎に「すっとこどっこい」の意味を教えたので、八郎も笑い出しました。くく、と押し殺した笑いが聞こえました。虎です。虎も笑っているのです。

「まあ、なんなのあなたまで笑うなんて」

「いや、べつに笑っているわけでは…くくっ」

「笑っているではないの!」

湘雲は恥ずかしさのあまり、虎の肩をぐいぐいと揺すりました。気がつけば夜はすっかり明け、外からは人々の声がにぎやかに聞こえてきます。ぐう、と盛大に誰かの腹の虫が鳴きました。八郎です。

「腹が減ったら戦えない、という言葉が東向にはある」

少し恥ずかしそうに、八郎が言いました。確かに、夜中に起きたのにまだ朝食を食べていません。そのとおりだな!と斉家が大きな声で明るく言いました。

 斉家とエメチが朝食に買ってきたのは煮込み汁と粥でした。粥は楽安でも朝食でよく食べるものですが、特別おいしく感じます。そういうと、斉家は得意げに身を乗り出しました。

「だろう?この街で一番おいしい店なんだよ。やっぱりせっかくならうまいものを食わないとな。食べ歩いて見つけたんだ」

「斉家さん、上佳でも同じものを食べるのですか?」

「まあ似たようなものかな。ちょっと味は違うけど」

「……おいしい」

八郎が粥をすすりながら小声で言います。まあそうだろうな、と斉家が相槌を打ちました。

「俺はまだこの街しか知らないけど、食い物は栄が一番うまい気がする」

「へえ、東向にも来たことあるカ?」

「いや。でも俺が生まれ育った上佳の港街には、東向人の商人の村があるんだ。だから東向人の知り合いも結構いてね、言葉もそいつらに習ったよ」

「斉家殿、もしかして<富川プチョン>の生まれカ?」

「なんだ、<富川浦>を知ってるのか?」

二人は湘雲にはよくわからないこともありました。女仮のそのまた向こうの上佳や海の向こうの東向など、湘雲にはこれまで考えもつかなかった世界です。

エメチは湘雲が見たことのないものを食べていました。丸くて白くて香ばしい匂いがします。焼いてあるようです。

「それは何?」

聞かれるとエメチはちょっと面倒くさそうな顔をしましたが、二つに割って湘雲に見せてくれました。

「これは焼きむぎもちだよ。こっちの人はあんまり食べないみたいね。私達はよく食べるけど」

小麦を練って焼いたもので、中には煮込んだ豚肉が入っています。他にも様々な具を入れるのだそうです。

「へえ、おいしそうね。女仮人の食べ物なの?」

いいや、と虎が言いました。

「栄人の食べ物だ」

「そうなの?でも私は都で見たことが無いわ」

「俺は昔食べたことがある。人間だったときに、食べていた」

これには皆驚きました。

「どういうこと?覚えているの?」

虎も自分の口から出た言葉にびっくりしたようでした。とても困ったという顔をしています。

「…知らんと言ってるだろう」

むっつりとして小さな声です。湘雲は皆と顔をあわせました。

「ほかに覚えていることはないの?」

虎は顔をくしゃりとしかめました。何回か話し出そうとしては口を閉ざし、それからやっと、口を開きました。

「思い出そうとすると何も思い出せない。ずっとそうだ。ただ、今焼き麦餅を見て、それを食べたことがあると思った。」

ふうん、と斉家が興味深そうに顎をさすりました。

「じゃあ、紫の虎を見ると何か思い出すか?」

斉家の問いに、虎は目を細めました。見るからに答えたくなさそうです。しかし斉家が辛抱強く待つ様子なので、虎はしぶしぶ言い出しました。

「…最初は何も思わなかった。しかしあれが詩を詠んだとき、確かに、何かを思い出した気がした。それが何なのかを思い出せない。ただ、ひどく、嫌な感じがする…」

虎のひげがふるふると震えています。よほど気分が悪いようです。

 湘雲は再び、詩を書き付けた紙を取り出して見返しました。殊類とはやはり虎のことなのでしょうか。だとすれば「われ異物いぶつりてそうぼうもとにあれども」の「異物」もやはり虎のことを示していると言えそうです。しかし、次の句の「きみすでようりて気勢きせいごうなり」の「君」が一体誰のことなのかがわかりません。自分の苦境と相手の成功を比べているような雰囲気ですが、もしかするとどちらかが虎で、どちらかが紫の虎なのでしょうか。

 そこで斉家が不思議そうに言いました。

「しかし、焼き麦餅は南の栄人は食わないんだろう?」

湘雲は頷きました。湘雲はそんな食べ物を見たことがありませんでしたし聞いたこともありません。都で見かけたこともありませんでした。

「虎も言ってた通り、焼き麦餅は晴では皆よく食べてるけど、もともとは北人、つまり栄人の食べ物だと聞いてるよ。六十年前の啓封の名物だったらしい」

つまり、と斉家は言いました。

「虎が焼き麦餅を食べたことがあるってことは、虎が晴、渦水の北側に来たことがあるってことだ。それがいつなのかわからんが、行ってみれば思い出すことが増えるんじゃないか?」

思いがけない提案でした。

「たしかにそうかもしれないわ」

湘雲は、女仮を目指すきっかけになったシャジク草のことを思い出していました。そうです、シャジク草だって、今の栄には無いものなのに、虎は知っていたのです。もしかしたら、虎は実際に渦水の北側でシャジク草を見たことがあるから知っていたのではないでしょうか。そしてそれは、紫の虎との因縁が渦水を渡った向こうにあることを示しているようです。斉家は言います。

「俺達と一緒に、晴に行かないか?そうしたらもっといろいろわかることがあるんじゃないかと思うんだ」

おい、とエメチが声を荒げました。

「勝手に決めるな」

「アバハイ隊長だって虎に会ってみたいかもしれないだろ?」

「斉家はそうやっていつも、アバハイ様の名前を出せばなんとかなると思ってるんだから」

「まあまあ、それに本当に女仮に勝利をもたらす吉祥虎かもしれないじゃないか。皇帝に差し出せばすごい褒美がもらえるかもしれないだろ」

なあ?と斉家は虎に言いました。俺は差し出されるつもりはないぞ、と虎は不服を申し立てますが、斉家は取りあいません。

「まあまあ、もしかしたらそういう気持ちになることもあるかもしれないだろ」

茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせます。先に口を開いたのは湘雲でした。

「行きましょう、晴へ」

「お前が何故決める、関係ないだろう」

虎は動揺しています。湘雲は再び虎の肩に両手を置きました。

「よいでしょう、そもそも北を目指してここまで来たのよ、だったらもっと北まで行けばいいんだわ」

湘雲としては最初から女仮に行ってみようと思っていたわけなので、渡りに船です。八郎も立ちあがりました。

「俺も行く。虎は北にたくさんいる、聞いているから」

虎はまだ納得していないようでしたが、既に反論できる空気ではありません。虎は深く溜息をつきました。

「まったく、どうしてこんな奴らと一緒に来てしまったのだろう」

湘雲はくすくすと笑いました。

「最初に私を助けたのが運の尽きね」

晴へ。渦水の向こうの、見たことのない場所へ。湘雲の胸はすでにそこに向っていました。

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