第13話
まだ鶏も鳴かない真っ暗ななか、湘雲と八郎は宿をこっそり出ました。まだ夜中と言っていい時間帯です。街は静まり返っています。夜間は外出禁止なのです。見張りの兵士をやり過ごしながら、湘雲と八郎は道を進みました。提灯も使えないため湘雲は足元さえ定かではありませんが、八郎はどんどん前に進みます。随分夜目が効くようだと言うと、東向では夜間に戦争をすることもよくあるので慣れていると八郎は答えました。それにしても東向とは一体どんなところなのでしょうか。八郎の話を聞いていると、とにかく戦争ばかりで随分と恐ろしい場所のように思えます。
後正門までやってきました。八郎と湘雲は建物の陰に隠れて城門を見ます。
「どう?誰かいる?」
「見張りの兵がいる。しかしおかしい。寝ているようだ」
「こんな時間だから仕方ないのではない?」
「いや、ありえない」
八郎は猫のような足取りで建物の陰から飛び出しました。湘雲も後を追います。八郎は静かに兵士に近寄ると様子を調べました。近くで見るとやはり、兵士はぐっすりと眠り込んでいるようです。
「触っても起きない。眠らされているネ」
八郎が低い声で言った時でした。
「そう、私が眠らせたんだよ」
急に背後が明るくなり湘雲は目を細めました。八郎が湘雲の前に飛び出して刀を構えます。
「誰だ!」
「そんなに身構えないでよ、兵士は眠らせているだけだから。それにあんた達を今すぐどうこうしようとは思っていない」
声の主は少し愉快そうです。湘雲は必死にその姿を見ようと目をしばたかせました。少し慣れてきた目に、その足元がまず映りました。靴は足首まであるぴったりしたもので、湘雲は初めて見るものです。素材は皮でしょうか。袴もぴったりしています。腰にくくりつけた短刀、ぴったりした濃い色の女仮風の上着、手には小さな松明のようなものを持っています。そしてその顔。
「あなた…!」
湘雲が見たその顔は、屋根に立っていたあの女でした。女は湘雲に、またにかっと笑いました。しっかりそろった歯が灯りのなかに白く浮かびます。よくよく見れば、かなり若い女でした。もしかすると湘雲より年下かもしれません。
「お前が俺達を呼びだしたのか」
八郎は刀を光らせました。女は両手を挙げて八郎に向ってひらひらさせました。
「刀を下げてほしいんだけど。私達はあんた達と話したいだけなんだから」
「私達?」
女の背後から、すっと男が姿を現しました。
「どうも、俺のこと覚えてるかな?」
男はぺこりと頭を下げました。一体誰、と湘雲は思いましたが、男の頭に巻いた布のその刺繍が目に留まりました。
「あなた、昨日城門のところにいた…」
「そうそう、覚えててくれてうれしいなあ」
男もまたにっこりと笑いました。あの、城門の前で湘雲達に声をかけてきた男です。怪しい商人くずれの男だと思っていましたが、さらに裏があるとは思いませんでした。あのときの猫背と卑屈な言葉遣いとは打って変わり、堂々とした態度です。
「手紙を書いたのも俺だよ。来てくれて本当にありがとう。まずは話を聞いてほしいんだ。虎について、少しはあんた達の力になれると思うよ」
「あなた、誰なの?女仮人なの?何を知っているの?」
湘雲の問いに応えず、男は八郎に視線を移しました。驚くべきことに、彼の口から出てきたのは栄語ではありませんでした。
「<東向人、刀を下ろしてくれや。俺達はただ本当に少し話がしたいだけなんだからよ>」
「<…おぬし、何故我がひむかいの言葉が話せる?見たところ女仮人でもなさそうだが……まさか>」
八郎が言い終わる前に、男は八郎の背後を見て眉をぴくりと動かしました。
「おっと、本命がお出ましだ。待ってたぜ、あんたを」
なんのことかと思った湘雲でしたが、背後に温かい息を感じました。人間ではありえない、しゅうしゅうと威嚇するような音。湘雲は慌てて振り返りました。
「あなた、いつの間にいたの?」
虎です。足音も何もなかったのでちっとも気づきませんでした。虎は湘雲を見下ろすと、これみよがしに不愉快そうに唸りました。
「宿に戻ったら姿が見えず、かわりに明らかに怪しい手紙が置きっ放しにしてあった。馬鹿だとは思っていたが、のこのこ出掛けていくとは本当に馬鹿だなお前らは」
「馬鹿とは失礼ね。あなただって結局来ているではないの」
「うるさい、お前達と一緒にするな」
はは、と男が笑いました。
「なかなか愉快じゃないか。虎さんとは仲良くなれそうな気がするよ」
「ほう、俺の姿が見えているな?」
虎は凄んで言いましたが、男はにやりとするだけでちっとも怖がる様子もありません。一体どういうことなのでしょう。
突如、風も吹かないのに女が手に持っていた松明の火が消えました。
「なんだ!?」
男が狼狽えて辺りを見回します。真っ暗ななかで、何かがいくつもうごめいているのが見えました。芋虫に手が生えたようなその姿には見覚えがあります。湘雲は城門の前を指しました。うごめく影達の真ん中で、また紫色の粒がふたつ光っていました。目です。その周りには紫の靄が渦巻いています。紫の虎が出たのです。それを見とめるや、女がだっと走り出しました。
「おいエメチ!」
「わかってる殺しはしない!」
女は素早く腰の短刀を抜いて飛び上がり、紫の虎に短刀を下ろしました。すると驚くべきことが起きました。寝ていた門番の兵士の胸元から黒い影のようなものがにゅうっと出てきたかと思うと、細長い手が伸びて女をはね返したのです。予想外の攻撃に、女は体勢を崩し地面に倒れます。
「エメチ!」
男が倒れた女に駆け寄ります。紫に光る二つの目の周りにうごめく影が寄り集まり、それは虎の形になりました。
「<もらった!>」
八郎が背後から刀で切りかかりました。しかし自在にしなる紫の虎の尻尾がぶんとうなって八郎を打ち伏せます。八郎も地面に転がり呻くことになりました。
紫の虎は全身がぎらぎらと光っていました。炎でもない、不思議な光です。おかげでその姿がよく見えます。大きな虎でした。目が爛爛と光っています。ぐるる、低い鳴き声が響きます。虎は湘雲の隣に立ったまま、じっと紫の虎を見ています。
「お前は、何者だ?」
虎が話しかけました。紫の虎の形が、ほんの少しゆらりと揺れます。虎の言葉に反応しているのでしょうか。
「お前は、誰だ?」
虎はもう一度、ゆっくりと問いました。暗闇はしんとして、何の音もありません。見つめていると、紫の虎がまたゆらりと揺れました。そして、低い低い音が体を震わせるように、小さく響き始めました。
「なんだこれは?」
男は動揺して辺りを見回します。湘雲と八郎には覚えがありました。音はやがて、節のある言葉に変わります。詩です。また、虎が詩を歌っているのです。
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷
前回よりも、よりはっきりと聞き取ることができました。そうすると、なんだか聞き覚えのある詩であるような気がします。一体なんだったかしら、と湘雲は懸命に考えました。きっと昔に本で読んだりしたに違いないのですが…。
「思い出したわ」
湘雲は言いました。父親の書斎にあった詩集のなかに、この詩があったのです。詠み人知らずの詩ばかりを集めた、書名も無い変な詩集でした。なかなかおもしろい詩もありましたが、どうしても素晴らしいというものでもなかったように記憶しています。一体何の詩集だろうと父に尋ねてみた記憶がありますが、父の答えが思い出せません。きっと父も知らなかったのでしょう。
「虎はこの詩を知っている?」
湘雲は隣の虎に聞こうとして、その横顔をみて驚きました。虎は、飛び出るほど目を見開いて、紫の虎を見つめていました。かすかに震えています。どうみても様子がおかしいのです。
「ちょっと、どうしたの?何か知っているの?」
湘雲が虎の袖を掴んで引っ張ると、虎ははっとして我に返り湘雲を見ました。まるで初めて湘雲を見たような顔です。
「…なんだ」
「なんだではないわ。一体どうしたのよ」
紫の虎はゆっくりと詩を詠み終え、またゆらりと揺れました。虎は、その姿を睨みます。紫の虎も、どうやらこちらを見ているようです。すると、虎の額から光るものがふわりと飛び出てきました。倀です。
「鬻渾!」
それは、これまでたった二回しか姿を見せなかった鬻渾でした。鬻渾は、ふわりと紫の虎の前に飛んでいくと、ひとこと言いました。
『
一体何のことでしょう。皆も戸惑っています。
「どういうこと?」
そのまま、鬻渾はすっと消えてしまいました。今のはなんだ?と男が言いました。紫の光にぼんやりと浮かび上がる顔は、仰天しています。虎の袖を掴んだままだったことに気づき、湘雲はそれを引っ張りました。
「ねえ、虎は何か知っているの?」
答えはありません。
そのとき突然、甲高い鳴き声が闇を貫きました。
「一番鶏だ」
八郎が言いました。もう夜明けなのです。一番鶏に続いて、二番目の鶏も鳴き始めます。すると、紫の虎が大きく膨らみました。そして、霧が晴れるように消えてしまいました。
また、あたりは真っ暗に戻りました。しんと静まり返り、ひとつの音もしません。しかし鶏が鳴いたからにはもう朝です。やがて遠くの軒先に火が灯るのが見えました。朝の早い仕事のものが起きだしてきます。ううん、と眠そうな声がしました。見れば柱にもたれて眠らされていた兵士が、体の向きをかえようとしています。そろそろ目を覚ましそうです。よかった、と湘雲は思いました。あのとき、兵士から変な影のようなものが抜け出てきたので、もしかして兵士は死んでしまったのかと思ったのです。
「こっちだ」
男が湘雲達を手招きしました。
「ますます話がしたくなっただろ?俺達の借りている家に行こう」
虎は少ししぶい顔をしましたが、八郎は頷いてさっさと男の後についていってしまいました。湘雲もそれに続きます。虎も、仕方なくその後を追い始めました。
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