第六章 国境の街

第12話

 その街からさらに、湘雲達一行は北を目指して旅を続けました。一面の田んぼや野原という風景はあまり変わることがなく、時々村やもう少し大きい街があり、細い運河が縦横無尽に走っています。そこを荷物や人を乗せた細い船がゆったりと行き交っていく様はとても画になります。暑い盛りの時期ですが、運河を渡る風が涼しさを運んでくれるのはとても助かりました。時々に寄る食堂で食べる食事では、見たことの無い青菜が出てきたりするようになりました。都をどんどん離れていっているのを実感します。

紫の虎は、あれっきり現れません。あのとき姿を見せたのは何故だったのでしょうか。虎は、あの夜以来紫の虎のことに一言も触れませんでした。ちょっとだけ、どう思うか尋ねてみたりしても、てんで相手にされず無視されたりはぐらかされたりするばかりです。旅に出て数日後の夜など、食事に誘おうとしたら宿の部屋にいませんでした。ついに食事まで一緒にいるのが嫌になったのでしょうか。仕方が無いので湘雲と八郎の二人で食事をしながら、紫の虎は一体何なのか?と話し合ってみましたが、何しろ情報が少なすぎてどうにもなりません。

「虎と、紫の虎、仲間かもしれないネ」

八郎は大真面目にそんなことを言ったりしました。

「それはさすがにないと思うけど…」

「しかし、虎も昔人間ネ。虎になって、人間食べたから、不思議な力使うことができる。もっとたくさん人間食ったら、どんどん強くなるヨ。一緒に協力で食うための人間、集めているかもしれない」

荒唐無稽な話です。しかし実際湘雲も虎について何も知りません。紫の虎から救ってくれたと思っていましたが、もしかしたらそれも湘雲が勝手にそう思っているだけなのでしょうか。それさえも全くわからないのです。結局、二人とも考え込むだけで終わってしまいました。虎は朝には帰ってきていました。しかしどこに行っていたのか聞いてもまた無視です。そんな夜が何度かありました。八郎はこっそり湘雲に「男なら、宿場で女たくさんいるところ、行くネ」と言ってきました。遊郭のことを言いたいのでしょう。湘雲も始めはそう思ったりしましたが、虎の姿でそんな店に行けるわけもありません。結局謎は深まるばかりです。

 実際途中に立ち寄った街ではなるだけ都の情報を集めようと商人に話を聞いたりしましたが、相変わらず虎も女仮人の女も行方不明で、こちらも事態は膠着しているということでした。珍伯父一家もその後どうなったのかわかりません。牢屋にでも入れられているのでしょうか。ただ、別に不可思議な話を耳にしました。それは「影が勝手に歩く」というものでした。泊まった宿の女将が常連の客と話しているのを聞いたのです。暖州からやってきた客のようでした。なんでも、科挙の受験を続けている中年の男が夕方歩いていると、影が勝手に自分の足から離れて歩いて行ってしまったとか。男はあまりの恐ろしさに気を失い、目が覚めてみると影は元通りになっていたのだそうです。本人はかわいそうにすっかり怯えて、誰かに呪われているのかと疑心暗鬼になっているんだよ、客は女将に半ば怪談話のように話していました。

「最近は虎の話もあるし、なんだかおかしなことが多くて恐ろしいねえ」

そう女将は調子を合わせて言いました。盗み聞きしていた湘雲もそう思いました。それが自分の身に起こっているというのが一番おかしなことですが。

そうして旅も十五日目に入り、いよいよ国境となる渦水が近づいてきました。人家が極端に減り、人気のない湿地ばかりになってきました。木がまばらに生えている間に、崩れ去って柱だけになった家が時たま姿を現します。霧が出やすくなり、昼間でもちょっとおどろおどろしい雰囲気すらあります。六十年前の戦争のとき、渦水沿いに住んでいた人々は多くがもっと南に避難したと虎は言いました。

「その後戻ってこなかったの?」

湘雲が尋ねると、虎は頷きました。

「渦水が国境に定まった後は、政府が帰還を許さなかったのさ。女仮と近すぎるからな。今はこの地域は居住禁止だ。渦水沿いに明州以外の街はない。警備の兵がいるだけだ」

「そうなのね。逃げた人たちは大変だったでしょうね」

街や村がなくなってしまったので、湘雲達は苦労することになりました。宿などもちろんありませんし、食事をする店もありません。屈閣に頼んで火を借りようにもそもそも人家がありません。仕方なく、崩れ果てた小屋の成れの果ての近くでかろうじで夜露をしのぎ、先に仕入れいていた干し米や干し肉などの食料を食べることになりました。ここでは八郎が本当に頼りになりました。東向から持ってきた干し梅という食べ物を分けてくれましたし、火も起こしてくれました。虎も夜の見張りを買って出てくれました。湘雲一人だったら到底ここを渡っていくことができなかったでしょう。

そんな夜も二回目、深夜に湘雲は少し寒くて目を覚ましました。横には八郎が寝ており、頭のほうでは火が小さく燃えています。虎の姿が見えず、湘雲は上半身を起こしてあたりを見回しました。一体どこに行ったのでしょう。すると、傍の木の裏からがさりと音がしました。

「虎?」

湘雲が呼びかけると、音は静まりました。無音の時間が流れます。不思議に思った湘雲が寝床から出ようとしたとき、木の陰から虎が現れました。

「何故起きている」

虎はとても不機嫌そうに言いました。

「少し寒くて目が覚めたのよ」

ふん、と虎は鼻を鳴らし、火の傍に戻ってきて座りました。もしかしたら用を足しに行っていたのかもしれないと思いつくと少々気まずく、湘雲は再び布を被って眠り込みました。


 次の日の昼過ぎ、三人の目の前についに明州の街が見えてきました。平野に、街を取り囲む城壁だけがどっしりと建っています。あまり大きな街ではないようです。そこへは道が一本しか通っておらず、周りには本当に何もありません。その向こうは、ぷっつりと切ったように一本の線が見えます。そこから先は、よく見ようとしても霞んで見えません。

「あの先はどうなっているのかしら?」

「あれが渦水だ」

虎が言います。

「渦水?あれが?なんて大きな河なの。向こう岸が見えないわ」

「本当だ!こんなに大きい河、初めて見た!東向に無い!海のよう!」

八郎は心の底から驚いたという顔をしています。確かに想像より大きな河です。こんなに大きな河なら、女仮といえどもなかなか渡ってこられないというのも納得です。牛車や背に大きな荷物を背負った商人達が、城壁に向ってまっすぐの道を歩いていきます。

 城壁の前までやってくると、城門には兵士が二人いて出入りする人々を一人ひとり確認していました。皆判の押された紙を兵士に見せています。

「あれは?」

「この街に入れるのはあらかじめ許可を受けた商人とその傘下のもの、それから通訳、兵士、それだけだ。あの許可証が無い者は街に入れない」

「それでは俺達入れない!どうするんだ!」

八郎は旅の間になかなか栄の言葉がうまくなり、虎への文句も板についてきました。虎にとっては面倒が増えたということでもありますが。

 そこで「お兄さん達」と湘雲達に声をかけるものがありました。振り向くと、そこには猫背の若い男性がいました。頭に麻布を巻いており、布に施された刺繍は見慣れぬ模様で湘雲達の目を引きました。

「何かお困りで?助けてあげましょうか」

にっこりと人懐こい笑顔です。一瞬、何か言葉にひっかかるものがありました。

「なんだお前は」

虎が男を睨みつけました。男はおどおどと背をさらに丸めました。

「いや、ここで立ち止まってらっしゃるから何かあったのかと思ってね。例えば、許可証をなくしたとか」

湘雲ははっとしました。もしかして先ほどの話を聞いていたのでしょうか?彝兀のまやかしが効いていないのでしょうか。しかし虎は動揺することなく、「結構だ」と言いました。

「偽物の許可証を買う理由はない」

「いやだな、俺はそういう輩じゃないですよ」

男は虎をいなすように軽い調子で言うと、くるりと背を向け離れていきました。そのとき、虎の後ろにいた八郎が小さく叫んで首筋を叩きました。東向語だったので何と言ったか湘雲にはわからなかったのですが。

「どうしたの?」

「虫だ。虫に刺された。<このあたりは蚊が多いな>」

 男が去ったあと、虎は彝兀を呼び出すと許可証を用意させました。瞬く間に虎の手元に現れた許可証には半分だけの印が押してあります。随分と古めかしいもので、どこかに大切に保管されていたに違いありません。勝手に取ってくるのはさすがにまずいのでは、と湘雲は思いましたが、虎はそれを見越したのか、入城できればすぐに返す、と湘雲に言いました。

 城門で許可証を見せると、兵士が紙を取り出しました。そこにも半分の印があります。湘雲達の持つ許可証の印と合わせると、ぴたりとひとつに合いました。

「入場よし!」

兵が大きな声で言い、三人は無事に入城することができました。内心どきどきしていた湘雲はほっと息をつきました。

「よかったわ、駄目だったらどうしようかと思ったのよ」

「虎、よくやった!」

二人が喜んでいるそのとき、後ろから湘雲達を何やらじっと見つめる男がいました。さっき声をかけてきた男です。しかし湘雲達は気づきませんでした。

 明州は、女仮との交易のために作られた街です。政府は女仮と栄の勝手な行き来をすべて禁止していますが、この街からだけは正式に女仮への行き来を認めています。ただし、女仮人が渦水を渡ることは決して許されません。許可を受けた栄人の商人や通訳のみが、渦水を渡り商売をすることができるのです。

 湘雲達が街に足を踏み入れると、中央の通りの両側には店が立ち並び、多くの人が行き交っていました。都の大通りには及ばないにしても結構な賑わいです。都と全く違うのは、店の商品でした。

「アカテンの毛皮だ!こんなにたくさん!」

八郎は店頭に並べてあった毛皮に駆け寄りました。大きくて真っ赤な毛皮がいくつも並べてあります。どれもつやつやとしていかにも手触りがよさそうです。湘雲も思わず声をあげました。

「アカテンといったらものすごく高級だわ。伯父の正妻の孟氏さえ小さな襟巻しか持っていなかったのに、ここにはこんなにたくさん…」

浮足立つ湘雲と八郎を見て虎は少し得意げです。

「アカテンは女仮のなかでも北方地域でしか獲れないからな。女仮から直接手に入れられるのはこの街だけだ」

「そういえば本で読んだわ。アカテンはひどく寒い地域にしか生息していない犬ほどの大きさの獣で、その毛皮はほかのどんな動物のものより暖かく、真っ赤な毛は美しいのだと」

「ほう、よく知っているな」

「ええ、物知りでしょう?」

湘雲はふふんと鼻を鳴らしました。八郎は店頭で「こんなに大きなもの、見たことない!」とひたすら驚いています。

 そのほかにも、蔘や灰鷹の羽など、どれも貴重なものを売る店ばかりが並んでいました。栄の都で買おうとすれば恐ろしいほどの値段になります。湘雲だって、本物を見る機会は滅多にないものばかりでした。なるほど、ここで特別に許可を与えられた商人しか扱うことができないから、あんなにも高価になるのでしょう。珍しいものばかりなので、湘雲も八郎もきょろきょろしながら前へ進みます。歩いているうちに気づきましたが、街の人々の服装も、何か違うものが感じられます。

「そうだわ、皆随分ぴったりとした服を着ているわね。普通の服はもっと袖がゆったりしているけれど、でもここの人たちの服は袖が腕にぴったりとしているし、袴も不思議な形をしているの」

「おそらく女仮人の服装に影響されたんだろう」

虎は街には興味がないというようにすたすた歩いていきます。

 船着き場に通じる後正門にも行ってみました。湘雲達が入ってきた正門とちょうど反対側にあります。門は閉ざされていて渦水を直接見ることはできませんでした。十日に一度、女仮に渡る船が出る日にしか開かない、と親切な門番の兵士が教えてくれました。もしかしたらそこからなら対岸の女仮が見えるかもしれないと湘雲は思っていたのでがっかりしました。女仮に渡ることは思ったより大変なようです。

 日が暮れる前に、三人は宿を取りました。さすが旅人の多い街だけあって、街の大きさに比べて宿が充実しています。荷ほどきをした後、湘雲は食事に行こうと八郎と虎の部屋へ向かいました。八郎はすぐに部屋から出てきましたが、虎はまたしても先に出かけてしまったようでいませんでした。「一人で行く、先に教えてほしい」と八郎は不満げです。路銭は湘雲が管理していましたし、これまでも、虎と一緒でなくとも彝兀のまやかしは通じたままでした。虎がある程度近くにいれば問題ないようです。

「まあいいわ。私たちだけで行きましょう」

二人は街へでかけました。

 大通りに面した店で扱っている毛皮や蔘は、都で買うよりは相当安いとはいえ、やはり簡単に買えるような値段ではありません。買ったところでそれをどうすることもできないので、二人はそこはひやかすに留めました。大通りから横に伸びている小道に入ってみると、そこでは飲食店や生活用品の店が連なっていました。軽食の店が多いようです。汁や、様々な煮物、雲吞の店が多く、どこも店頭で作っているのでいい匂いがあちこちから漂ってきます。湘雲達二人も、一軒の店屋に入り、汁ものとご飯を頼みました。川辺の街らしく、貝の出汁がきいた汁に魚の身でつくった団子が入っています。栄の食事にそれほど文句もつけてこなかった八郎でしたが、この料理は特に口に合ったらしくおかわりをしました。

「しかし、紫の虎が何者か、全然わからないままネ」

二杯目をたいらげ、八郎は湘雲に言いました。

「そうね、あれ以来姿も見せないし」

「湘雲は女仮行きたいだろう?俺も行きたい。行く方法、虎知っているだろうか?」

「わからないわ。屈閣か彝兀に頼めばなんとかなるものかしらね」

実のところ、とりあえず女仮に行こうと思い立ってここまで来た湘雲でしたが、女仮に行って何かあてがあるわけでもありません。それに、自分にかけられた容疑も払拭できていません。家族が捕らわれたままというのも気にかかります。一体どうしたものでしょう。話していると、店主の恰幅のいい女性が声をかけてきました。

「商人じゃないようだけど、どこから来たんだい?」

「商人ではないとわかりますか?」

少しひやりとしながら湘雲が聞くと、店主は豪快に笑いました。

「わかりますよ。物腰がやわらかいしね、それに言葉が違う。その言葉遣い、都の人かい?」

「ええ、そうです。実は、父に一度女仮との境がどうなっているのか見てこいと言われて。見物旅行なんです」

「へえ、見物旅行。珍しいもんですね」

店主は特に怪しむ様子もありません。本当にただちょっと声をかけただけのようです。

「都といえば、虎を見たりしました?大変なことがあったというじゃないですか」

おばちゃんは椀を片付けながら続けて聞いてきました。湘雲は八郎と顔を見合わせました。

「ええ、そうなんです。何人も虎に襲われて」

「昨日うちに来た商人なんかは、都で本当に女仮人の女と虎を見てしまったそうですよ。とっても恐ろしかったと言ってました。しかしねえ、女仮と行き来できるのはこの街だけだし、女仮人の女はこっちには渡って来られないんだから不思議なもんだよね」

「やっぱりそうなんですか?」

「そうよ、向こうに渡るにも帰ってくるにも、許可証がいりますからね。さすがに歯つき女は渡って来られないですよ」

店主は話を続けました。

「本当に恐ろしい話ですよ。ここでもね、その話が都から伝わってからすぐに兵士が家を一軒一軒調べたけど何も出てこなくて、それっきり」

そうですか、と湘雲は相槌をうちました。やはり、何も進展は無いようです。当たり前といえばそうですが。湘雲は気になっていたことを聞いてみました。

「お母さんは女仮に行ったことはあるのですか?」

店主はその質問に目をぱちくりさせました。

「無いですよ、私たちみたいな普通のこの街の住人には許可証が無いからね。行くのは専門の商人とか通訳ばっかりだね。向こうに行ったきり帰ってこない人もいますよ」

「帰ってこない?」

「そう、向こうで結婚して家族ができたりするとね、家族を連れては来られないから。そのまま向こうに住んでしまう人も結構いるみたいですよ。女仮の生活のほうがあう人もいるんでしょう」

「へえ、そうなんですか」

湘雲は考えてみました。女仮に行ってそこで生活する、どういう感じなのでしょうか。

 お店を出てみると日が暮れて薄暗くなっていました。しかし街はさらに賑やかになってきたようです。

「八郎は、栄に住みたいと思う?」

「栄に?今は思わない。東向に帰らなくては」

「そうよねえ」

「しかし紫の虎、どこに行ってしまったのだ?」

「本当によくわからないことばかりね」

 そんな会話をしながら大通りに出たそのときでした。

「女仮人の女を見てみたい?」

後ろから囁かれて湘雲は驚いて振り返りました。そこには誰もいません。

「誰だ!?」

八郎も腰の刀に手をやります。

「駄目よ八郎さん、こんな人がいるところで刀を抜いたら正体がばれるわ」

「しかし何者だ?」

あたりを見回します。店頭の提灯には灯りがともりはじめました。人通りは多く特に変わった人は見当たりません。

「湘雲殿、あそこ!」

八郎が指さした先は店の屋根でした。屋根に人が乗っています。女です。後ろで一つに結った長い髪が風に揺れています。体にぴったりとした女仮風の衣服を着ています。あんなところに立っているなんてどういうことでしょう。八郎が女を睨むと、女は歯をみせてにかっと笑いました。そこで湘雲は心底驚きました。女には、しっかりと歯があったのです。前歯が上下全部です。

「何者なの?まさか本当に女仮人なの?」

女は屋根の上でくるりと一回転し、そして屋根伝いに走りだしました。

「逃げるわ!」

「<くそ!絶対捕まえてやる!>」

八郎も走り出しましたが、大勢の人が歩いているせいで前を阻まれてうまく前へ進めません。女は飛ぶように屋根の上を走っていきます。湘雲も慌てて後を追います。

「八郎さん!」

八郎は、少し先の路地で立ち止まり空を見ていました。湘雲がやっと追いついて息を切らしていると、八郎は湘雲を見て首を振りました。

「駄目だ、見えなくなった」

八郎は悔しそうです。湘雲も不安で心臓が早鐘を打っています。一体何者だというのでしょう。何故声をかけてきたのでしょう。

「湘雲殿、それはなんだ?」

八郎が湘雲の胸元を指しました。湘雲の胸の服の合わせに何か紙きれが挟まっています。湘雲には覚えがありません。

「何かしら」

開いてみて湘雲は驚きました。そこには文字が書いてあったのです。内容に湘雲はさらに飛び上がりました。

「これ、なんと書いてある?俺よくわからない」

八郎が湘雲に聞きます。湘雲は眉をしかめました。

「虎のことについて話したい。寅の刻、後城門の前で会おう、とあるわ」

「寅の刻?そんな時間になぜだ?誰からだ?」

紙きれを見返してみますが、それ以外のことは書いてありません。

「虎のこと、とは何かしら。さっきの女と関係あるのかしら」

「俺達のことばれているのか?」

湘雲は大通りを見通そうとしましたが、相変わらずの人波で遠くまでみることはできませんでした。

 宿に帰っても、虎は戻ってきていませんでした。こういうときに限って役に立たないやつだ、と八郎は悪態をつきました。湘雲もがっかりしました。今こそ虎に相談しなければいけないというのに、一体何をやっているのでしょうか。

(そういえば紫の虎が詩を歌ったあの日から、少し元気がなかったわね)

虎も何かを隠しています。しかし湘雲達には絶対に言いたくないようです。一体何なのでしょう。

「湘雲殿、行くなら俺も行くぞ」

八郎は刀に手をかけて言いました。

「虎の刻まだ夜明け前だ。危険だ」

「ありがとう、八郎さんがいれば心強いわ」

虎と関わってから、わからないことばかりです。もしかしたら、あの歯のある女が何か教えてくれるかもしれません。湘雲は一人頷いて、紙切れを握りしめました。

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