第11話

 この季節、蒸し暑くて眠れない夜が続きます。この夜は輪をかけて蒸し暑く、湘雲はなかなか寝付けませんでした。捕まってしまったという家族達は一体どうしているでしょうか。財産も全て没収されてしまったというのが本当なら、今頃酷い目にあっていることでしょう。身寄りの無くなった湘雲を引き取ったのはただの成り行きだったはずです。それがこんな目に遭うとは、きっと今頃心から湘雲を恨んでいるのに違いありません。

(かといって、今都に行ってもどうすることもできないし…)

今日は大きな街だったので三人はそれぞれ違う部屋をとることができました。久しぶりに一人で寝られるというのに、寝られません。湘雲は寝返りをうち、それから起き上がりました。少し外で涼めば気持ちが休まるかもしれないと思ったのです。

 宿屋は中庭を囲んでコの字につくられており、客室の扉は全て中庭に向かっています。閂を抜いてそっと扉を開けると、虫の声がひときわ大きく聞こえてきました。扉の隙間から外に滑り出ます。空を見上げると、欠けて細く不恰好な形になった月が見えました。雲はなく、空全体に星が瞬いています。天の川も見えました。庭も、宿屋も、真っ暗で静まりかえっています。じっとりと暑いのは部屋の中と変わりませんが、外のほうが幾分ましに感じました。湘雲はほっと息を吐いて壁伝いに地面に座りました。それにしても、今こんなところに、虎と東向人と一緒にいるなんて、なんて不思議なことなのでしょう。生まれたときからずっと都にいて、都から出るなんて考えたこともありませんでした。ただぼんやりと、誰かと結婚して都で暮らす、そんな未来しかありえないと思っていたのです。それが今や政府に追われる身でこんなところを旅しているのですから、人間どうなるかわからないものです。今の自分を父が見たら一体何と言うだろうかと湘雲は考えました。毎日着ているので少年用の服もそれなりに板についてきた気がします。着てみると、旅をするには男用の服のほうが便利です。女の服と違って男の服は袴なので歩くのに都合がよいのです。

(お父様、それでも私のことを可愛いと言うかしら)

想像してみると少しおもしろくて湘雲はくすりと笑いました。父は、歯が生えそろっていても湘雲をひたすら可愛いと言っていました。父は何故、自分に歯を抜くことを許さなかったのだろう、と改めて不思議に思います。従兄弟が歯を抜いたお祝いのときには父も存分に祝っていたので、歯を抜くことそのものを嫌っていたわけではなかったはずでした。何故、湘雲の歯にだけ、こだわっていたのでしょう。

(生きているうちにきいてみればよかったわ)

そう思ったときでした。

 庭の真ん中が、ぼわっと薄く光っていることに湘雲は気づきました。最初は誰かが蝋燭を持って起き出してきたのかと思いましたが、そうではありません。光は、炎のように明るくはないのです。

「何かしら…?」

湘雲が言うと、ぼやぼやとしたものは段々中心に集まってはっきりとしてきました。光の色が紫色に見えてきます。それに湘雲は覚えがありました。

「……紫の虎!?」

湘雲が息を呑んだのと、光がはっきりと虎の形をとったのは同時でした。同時に、その周りに何か小さいものがうごめいているのに気づきます。芋虫に手が生えたような姿で、点をふたつくっつけたような目があります。

(何なのこれは、どういうこと…?)

虎は庭の真ん中でゆらゆらと光っていました。ぼんやりとした輪郭ですが、二つの目だけがはっきりと強く光っています。動きもせず、じっと湘雲を見つめているように見えます。なんとなく、その視線には心当たりがあるような気がしました。そんなことはありえないのにです。不思議と、最初に見たときのような、恐ろしい気持ちにはなりませんでした。何か懐かしいような気さえします。紫の虎の目が瞬きました。

「…何か、言いたいの?」

そう感じて湘雲は聞きました。虎の目が揺らぎます。何か、湘雲に訴えているように見えます。紫の虎の周りの影達も、ゆらゆらと揺れて何かを訴えているようです。もしかしたら本当は悪い存在ではないのでしょうか。紫色の光る目に見つめられて吸い込まれそうになります。

突然強く手を引っ張られて後ろに転びました。

「何している!?危ない!」

湘雲は尻餅をついて驚いて声のほうを見上げました。そこにいたのは八郎でした。

「八郎さん!?」

「あいつ、紫の虎か、初めてみたネ」

「起きていたの?」

八郎は紫の虎に向かって刀を構えました。

「寝ていた、しかし変な空気感じて起きた」

「そんなことができるの?」

「東向、戦争多い。そういうこと、よくある」

八郎は紫の虎を見つめたままにやりと笑いました。都の街中で兵士を見たことはありましたが、本物の武人とはこういうものかと湘雲は思いました。八郎はちっとも紫の虎を怖がっていません。むしろ少し楽しそうです。

八郎はやあ、と声をあげて庭に走り出しました。

「<覚悟!>」

東向の言葉で何か叫んだようですが湘雲にはわかりません。八郎の動きはとても素早く、瞬く間に虎に近づき切りかかりました。しかし次の瞬間、紫の虎の周りにうごめいていた影のひとつがびよんと伸びて八郎に襲い掛かりました。細く突き出た腕が八郎を薙ぎ払います。

「うわ!」

「八郎さん!」

そのまま八郎は地面にびたんと落ちました。倒れたまま呻いています。湘雲は駆け寄りました。

「大丈夫?」

「<くそ!>あれ一体何だ!」

湘雲達の前で、影がいくつもびよんびよんと伸びたり縮んだりしています。虎よりさらに得体がしれません。

すると今度は、湘雲の隣の部屋の扉がばたんと勢いよく開きました。虎の部屋です。湘雲が振り返ると扉のところには誰もおらず、代わりに庭からぎゃう、と獣の鳴き声が響きます。見ると、虎が紫の虎に飛びかかっていくところでした。紫の虎はすんでのところで虎の前足をかわすと、後ろに飛び退りました。

「あなたも起きたの」

湘雲は話しかけますが、虎は振り返りもせず紫の虎と睨みあいました。ぐるる、と喉を鳴らして威嚇しますが、紫の虎はゆらゆらと揺れるだけで何の反応もしません。ふいに、紫の虎が、夜空に向かって高い声で鳴きました。そうすると、低く小さく、音が聞こえはじめました。

「なんだ?」

「これは……」

湘雲は耳をすませました。低い声が、途切れ途切れに響いています。歌、いえ、もしかして詩でしょうか。



偶…狂…成…… ………仍不可逃

今日…………… …声……共…高

…為………茅下 君……軺気…豪

此夕渓………… ………………嘷



一部分しかはっきり聞き取れませんが、確かに詩です。この声がどこから聞こえてくるのかと湘雲は辺りを見回しました。しかしどこにも人の姿など見えません。やはり、あの紫の虎が詠っているようなのです。しかも繰り返し繰り返し。戸惑う八郎に、紫の虎が詩を詠っているようだと伝えます。虎の化け物が詩を歌うなど、本当におかしなことです。湘雲は虎を見ました。虎は微動だにせず、紫の虎を見つめています。

 紫の虎は三度目をゆっくりと詩を歌い終えると、そのまますっと姿を消しました。後には何も残っておらず、虫の鳴き声だけが聞こえます。周りの影のようなものも一緒に全て消えていました。

「今のは何カ…?」

八郎は気が抜けたように湘雲に聞きましたが、湘雲にもよくわかりません。虎は、先ほどから全く動かずにそのままそこにいました。普段は人間のように後ろ足で立っているのですが、今は四本足で、虎そのものの姿です。

「あなた、大丈夫?」

湘雲は恐る恐る虎に言ってみました。言葉が通じるか自信がなかったからです。獣姿のときの虎は、普段と違ってあまり言葉を聞いてくれない気がするのです。すると、虎から小さな光がぴょこりと現れました。倀です。鬻渾でした。鬻渾は虎のまわりをくるくると回り、そして姿を消してしまいました。後には、真っ暗な夜と庭だけが残っています。虎が、のそりと動きました。のし、のし、と四足のまま歩いてきます。

「とんだ騒ぎだ。俺は寝る」

それだけ言って、虎は部屋に戻っていきました。今一瞬出てきた鬻渾が一体何だったのかを聞く隙さえありませんでした。まるきり虎の姿のままでいるのは、都の広場で紫の虎と対峙したときに見たきりでした。八郎は、どうもよくわからないという風に首をひねりました。

「紫の虎、不思議な虎ネ。しかし、あいつも変な虎ネ。栄、不思議な国」

八郎は言いました。湘雲は庭の真ん中を見やりました。そこにはもう何もありません。ただ、比較的背の高い木が三本と、背の低い藪が生えているだけです。あの紫の虎は、やはり湘雲を見ていたように思われました。湘雲も、虎になにか、まるで知り合いのようなものを感じたのです。

(でも、なぜ…?)

生まれてこの方虎など見たことがありませんでしたから、そんなはずはないのに、おかしなことです。湘雲は言いました。

「栄が不思議なのではないわ。今、私たちが不思議なのよ」


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