第五章 湘雲、虎の歌を聞く

第10話

 八郎を加え三人になった一行は、北へ向かって宿場を出発しました。八郎は小間使いの少年ということになりました。虎いわく、彝兀はあまりに現実とかけ離れた惑わしはできないのだそうです。虎が命じると、あのニコニコとした彝兀が現れて、ゆっくりと頷きました。八郎は、本当に誰の目にも自分達の正体が見えていないことに改めて感動していました。街道を歩きながらも通りすがる人の前に突然飛び出てみたり、飛び跳ねたりしてみせています。

「すごい、本当に、俺のこと誰も気づかない、便利ネ!」

「あまり大声で話すな、言葉まで完全にごまかせるわけではないのだぞ」

八郎のはしゃぎぶりに虎は低い声音で注意しますが、八郎は愉快そうに笑うだけです。虎は気に食わないようですが、湘雲はつられて楽しい気持ちになります。

太陽がぎらぎらと照りつけ、相変わらずの暑さです。どこまでも続く田園風景とはるか遠くに靄がかって灰色に見える山々も、こうずっと続くとありがたみが薄れて来ました。湿度の高いねっとりとした空気のせいで、歩くたびに汗が噴き出してきます。時々木陰で休むときには、湘雲は八郎に様々なことを聞きました。例えば、何故東向に科挙が無いのかということについてです。

「東向、戦争多いネ。勉強するより戦って勝つが大事」

木陰に腰を下ろすと、八郎は竹の水筒から勢いよく水を飲んで続けました。

「領主と領主、戦う、買ったほう、負けた領主の領地土地を取る。強い領主、強い武人の臣下たくさん持ってる。強い武人、皆欲しがる」

八郎はそう言うと誇らしげに刀を取り出して湘雲に見せました。弓の腕前を褒められて領主にもらったものだと言います。なるほど、そういう国だから科挙が無く、皆武人として出世を望んでいるのです。しかし、少し恐ろしそうです。後ろで寝そべっていた虎が、急に「野蛮な国だな」と言いました。寝ていなかったようです。

「いきなりそんなこと言わなくてもいいでしょう」

湘雲は咎めますが、虎はどこ吹く風と顔をこちらに向けさえしません。薄々気づいていましたが、この虎はどうにも配慮というものが無いのです。

「あなたね、そういうことは思っても言わないものだわ?」

「思っているなら言うのと同じではないか」

「そんなことないわ」

「どうだろうな」

「あなた、友達とかいないの?」

湘雲が呆れて言うと、虎はふと顔を上げて湘雲を見ました。その目は何か言いたげです。思わず「何よ」と言ってみると虎はまたそっぽを向き、ぽつりと言いました。

「お前も友達などいないだろう」

失礼な奴です!湘雲は憤慨しました。確かに友達と呼べる人はいません。ずっと家にいたので同年代の女の子と会う機会もあまり無かったのです。けれども、この虎ほど常識が無いとは自分でも思いません。湘雲はかわりに八郎と話すことにしました。

「科挙が無くても文字は勉強するのね」

「武士は力強いだけは駄目ネ。詩を読むのも、大事。だから栄の本で勉強する」

八郎は栄の言葉を話すのは不得手でしたが、読んだり書いたりすることは結構得意でした。東向でも、言葉は違いますが同じ文字を使っているのです。

「おもしろいわね、一度東向に行ってみたいわ」

湘雲は心から思いました。今まで十八年間、都から出ることもなく生活していましたが、何一つ不自由を感じたことはありませんでした。今ではそれが嘘のように思えます。

「女仮行った後、来ればいい。東向の女も、歯、抜かない」

八郎はこともなげに言いました。

 

 旅はつつがなく過ぎ、八郎と出会って既に六日が過ぎようとしていました。昼過ぎにこの季節によくある突然の雨に降られた三人は、小さな廟で雨宿りをすることにしました。屈閣に火を用意してもらい、濡れた服や髪を拭いて人心地つくと、廟の様子を見回して見ます。あまり手入れされておらず、建物の塗装は剥げ、肝心の神様の像もすっかり古びていました。八郎は異国の神に興味があるらしく、しきりに像の様子を伺っています。

「これは何の神だ?」

湘雲も像のところまで行って見てみました。顔の色が落ちていてよくわかりませんが、なんとなく女であるように見えます。たるたるとした布の衣服をまとい、その手には書物が握られています。後ろからやってきた虎が、それを見て言いました。

たい女神じょしんくんだな」

「これが?」

「書物を持っているのがそのしるしだ」

泰女神君は出会いと別れの神です。その手に持つ書物には、誰と誰がいつ出会い、いつ別れるのかが記してあると言われています。よい出会いや縁談を求めて、人々はこの神様を敬っています。

 しかしこの廟の泰女神君はすっかり埃をかぶってくすんでいました。今は近くに世話する人が住んでいないのかもしれません。湘雲は手で埃を払い、持っていた手ぬぐいで少し拭いてあげました。神様にしてはあまりにも惨めな姿だったからです。

「そんなことをしても願いなどかなわないぞ」

虎は相変わらず冷めた態度でひとりで火にあたっています。しかし湘雲はかまいませんでした。八郎も手伝いました。

「紫の虎、会わないといけない、会えるようにしてほしい」

八郎はそう言って、像の前で手を合わせ長いこと一心に何かをつぶやいていました。浮教の経にも似た響きです。湘雲は改めて像を見ました。かろうじて、描かれた目や口がうっすらと見えます。優しい顔をしているようでした。ふと湘雲はある詩を思い出し、口ずさみました。



青山横北郭

白水遶東城

此地一爲別

孤蓬萬里征

浮雲遊子意

落日故人情

揮手自茲去

蕭蕭班馬鳴


青山せいざん 北郭ほくかくよこたわり

白水はくすい 東城とうじょうめぐ

ひとたびわかれを

ほう 万里ばんり

浮雲ふうん 遊子ゆうし

落日らくじつ 故人こじんじょう

ふるってここよりれば

蕭蕭しょうしょうとしてはん



詠い終わると、八郎が手を叩いて湘雲を褒めました。

「湘雲殿、歌、うまいネ、いい声」

湘雲は少し照れましたが、八郎の賞賛を素直に嬉しく思いました。父以外の人前で詩を詠ったのは初めてです。

「ありがとう。これは李黒の詩よ」

「李黒、俺も知っているヨ!どんな詩か?」

八郎が紙を差し出しきました。湘雲が書いてみせると、八郎はなんとなくわかったようでした。詩を勉強していると言ったのは本当なのです。

「友達と別れる詩。この神様に合う詩ネ」

「そうね。出会いも別れも全てわかっていらっしゃるのだものね」

そのとき、急に湘雲の背後が光りました。振り返ると、虎の横に、光る小さな人が漂っていました。最初は屈閣かと思いましたが、よく見ると違います。衛兵姿の屈閣と違い、立派な官僚の冠と服装をしている若い男性です。彼は、ふわりと湘雲のほうに漂ってくると、口を開きました。鈴が鳴るような声が響きました。


『友人を送る』


言い終わった途端、彼は消えてしまいました。

「今のは?」

八郎が虎を見ました。虎は、ただぼんやりと二人を見つめていました。八郎の問いが聞こえていないようです。

「どうしたの?」

湘雲が聞くと、虎ははっとして二人を見ると、すぐに目を逸らしました。

「なんでもない」

「そうカ?」

「今のは屈閣や彝兀とは別の倀でしょう?初めてみたもの。名前は?」

虎は燃え続けている炎を見つめていました。珍しく、憎まれ口も出てきません。かわりに、一言言いました。

鬻渾しゅくこんだ」

「しゅくこん?」

「今の倀の名前だ」

湘雲と八郎はふうん、と頷きました。虎はそれ以上何も言いませんでした。

 雨が止むまで、しばらく三人はその廟にいました。ひとりで炎の傍にいる虎は少し元気がないようだったので、湘雲と八郎は二人で窓から雨が降る外を見ていました。八郎は、小さな声で湘雲に言いました。

「虎、人食べると、人、倀になる、湘雲言ったネ」

「ええ、そう虎が言っていたわ」

「だったら、虎、食べた人、皆倀になる?三人だけカ?」

確かに、と湘雲は思いました。虎と出会ってから、彼が湘雲や八郎をはじめ、人間を食べるようなそぶりはありませんでした。食事も一緒にとっています。湘雲は廟の中を見ました。虎は寝そべっており、寝ているのかおきているのかわかりません。実際どうなのかしら、と湘雲は思いました。まさか、知らないところで実は人間を食べているのでしょうか。泊まる部屋はここのところはずっとひとつでしたが、湘雲はいつも疲れ果てて熟睡していました。いざというときは八郎もいると思って、すっかり油断していたのです。虎が人食い虎であることを忘れていました。もしかしたら夜中に出かけていって人を狩っていたのかもしれません。ううん、と湘雲は顎に手をやって考えてみました。

「どうなのかしらね」

聞いたら答えてくれるかしら。湘雲は考えてみました。望みは薄そうです。

 その日の宿場は久しぶりに大きな街でした。宿屋や料理屋もたくさん立ち並び、あちこちからやってきた商人が行き交い、大層な賑わいです。様々な方言があちこちから聞こえます。ここまで来ると、街の人々が話す言葉も湘雲の話す都の言葉とはかなり違ったものになっていました。旅人との商売に慣れた宿場の人々は都の言葉をよく話すので問題ありませんが、それでも途中に休憩した農村では、農民の言葉がよくわからないこともありました。これまで都でしか生活していなかった湘雲は全く知りませんでしたが、栄の国は広いので国内には方言がたくさんあります。彝兀は方言も操ることができるらしく、全然聞き取れない方言を話す農民とも何故か意思の疎通ができましたし、彝兀のまやかしが効かないこともありませんでした。しかし、湘雲は少し不安に思っていました。いくつか見比べたうえで入った料理店で食事を頼みながら、湘雲は虎に言いました。

「ねえ」

「なんだ」

「異国人はいないとしても、栄の国だって広いのだから、彝兀が知らない方言もあるのではない?」

「そうかもしれないな。よほど田舎の言葉だろうが」

「もしそういう方言を話す人で、都の言葉もわからない人がいたら、それでは、私たちの正体がばれてしまうのではない?八郎さんが彝兀のまやかしにひっかからなかったのは、言葉がわからないからでしょう」

虎は湘雲を横目でじろりと見ると、それからにやりと笑いました。

「そうだな。そういう田舎の人間がいたら、そうなるだろうな」

「なによ、それでは困るわ!」

虎の悠長な態度といったら信じられません。

「そうなったらどうするのよ?」

「そうなれば、俺は逃げるさ」

「あなたはいいわ。けれど私たちは逃げきれないわよ」

「そうだな」

「何よ、信じられないわ!」

二人のやりとりを聞いて、八郎は何故か腹を抱えて笑っています。笑いごとではないのにこれに限っては八郎も全くあてになりません。全く男は使い物にならないものです。

 料理が運ばれて来ました。大皿に盛られた肉と野菜の炒め物です。湯気を立てていて彩もよく、八郎は手を叩いて喜びました。これまでは農村の小さな宿場ばかりだったので、食事も米と野菜の漬物など質素なものばかりだったのです。八郎はさっそく大皿に箸を伸ばし炒め物を頬張りました。

「うまいな!」

「本当ね、おいしいわ」

虎は粛々と食べています。八郎は肉を箸でつまんでしげしげと見ました。

「これは鶏カ?東向の鶏と味少し違うネ」

「これは鶏ではないわ。かえるよ」

「蛙!?」

八郎は箸を取り落としました。顔を見ると血の気が引いています。

「どうしたの?」

「蛙、あの蛙か?」

「東向の蛙がどんなものか知らないけれど…夏になると出てきてぴょんぴょん跳ねる蛙よ」

都で食べられている蛙は大黒蛙でした。大きくて食べでがあるし肉がぷりぷりとしておいしい蛙です。今食べているのは湘雲が知っているのより多少小さい気もしますが、しかしおいしさに変わりはありません。八郎は頭を抱えました。

「蛙食べるなんてありえないネ!信じられない!気持ちが悪いヨ!」

「東向では蛙を食べないの?」

「食べないヨ!栄人信じられない!」

「そう?おいしいのに。私も好きよ。八郎だっておいしいと言っていたじゃない」

「しかし…」

八郎は見るからにしょぼくれてしまいました。大皿は変わらず湯気をほかほかと立てています。ぱくぱくと食べ続ける湘雲を見ていた八郎でしたが、やはり空腹には耐えかねたようで、しぶしぶというように箸を再び取りました。今度は目をつぶって、おそるおそる肉を口に入れ、それからゆっくりと確かめるように噛みしめます。

「おいしいでしょう?」

湘雲が聞くと、八郎はゆっくりとうなずきました。こんなにおいしいのに蛙を食べないなんて、東向人は損をしているわね、と湘雲は思いました。

 隣の席は、壮年の男性の三人組でした。三人とも都の言葉を話していますが独特のなまりがありました。恐らく微州商人でしょう。ひとりはちょうど明州の街からやってきたようです。三人は情報交換をしていましたが、やがて話は都から逃げた虎と女仮人の女の話になりました。

「まだ捕まっとらんとだろか?軍隊が探しとるやろう?」

「どうもまだげな」

湘雲は思わず聞き耳を立てました。これまでの通ってきた農村などでもそれとなくどうなっているのか聞き取りをしてみましたが、街道を軍が通って行ったという話ばかりで、その後一体どうなったのかよくわかっていませんでした。

商人達は話を続けます。

「女仮人の女と虎なんぞすぐ見つかりそうやっちゃけど」

「それが見つからんもんだから、都の役人はえらい苛々しよったよ」

「昨日都から来た人に聞いたっちゃけど、女の家族は家財を没収されて全員捕まったらしいげな」

それを聞いて湘雲は動きを止めました。

「家族も実は女仮人やったとかね?」

「今それを調べとるらしい」

「その女の家族やっちゃけん一族全員女仮人やろう。しかし女仮人が都にいたなんて恐ろしい話やね。女仮が送り込んで来たとやろうか」

「それもこれも腰抜けの政府が女仮との戦争を恐れて講和条約を結んでしまったのがいかん。とっとと女仮人なんぞ皆殺しにしてしまえばいいとに」

一人がそういうと、残りの二人もそうだそうだと騒ぎ、三人は再び乾杯をしました。杯の酒を飲み干すと、豪快に笑います。

「湘雲殿、どうしたカ?」

真っ青になった湘雲を見て、八郎が尋ねました。

「都の家族が、政府に捕らえられたそうなの」

声が震えています。八郎も驚きました。

「それ大変だネ!なぜ?」

「私の家族だからだわ。私が虎をつかって人々を襲っていたと思われているから、家族も同罪だと思われたんだわ」

まさか伯父一家にこんな大きな累が及んでいるとは思いませんでした。八郎も心配そうです。

「虎、なんとかならないカ?」

「都のことはどうにもならん」

虎の表情も声も、相変わらず淡々として特に湘雲を心配するそぶりはありません。

「冷たい奴だ、もともとお前のせいネ」

「俺は関係ないだろう」

「半分は虎のせいネ」

「俺はむしろ助けてやっているんだぞ。それよりあまり外でそいつの名前を呼ぶな。彝兀も全てを隠せるわけではない。あまり名前を呼ぶと正体が現れてしまう」

「おお、それはすまない」

八郎は慌てて口を噤みました。しかし湘雲はそれどころではありません。珍伯父の一家は、自分に特段よくしてくれたというわけでもありませんでしたが、それでも身寄りがなくなった自分を引き取ってくれた恩があります。そもそも一家は、この件には全く責がありません。それなのにこの事件に巻き込まれて家財も没収されたというのでは、あまりにも理不尽、単なるとばっちりです。

「私は女仮人ではないし、一族も女仮人なわけないのに」

湘雲は憤りました。虎はそれを見ていましたが、妙に冷えた声で言いました。

「しかし、それを証明できるか?」

「当たり前ではないの、だって違うのだもの」

「しかし証拠は何もない」

「だって、家譜だってあるし…」

「そんなものいくらでも金で買える。証拠にはならない」

「そんな」

確かに、言われてみればその通りです。女仮人と栄人、服装や髪型、言葉は違いますが、それだけです。例えば湘雲が女仮人の格好をすれば、誰も栄人だとは思わないでしょう。いくら違うと言っても誰もそれを証明することはできないのです。なんということかと湘雲は途方に暮れました。もうなす術も無いのでしょうか。伯父や伯母やその家族たちは、このまま捕まり、そしてもしかしたら処刑されてしまったりするのでしょうか。あまりに酷いことです。

「大体、最初に私を襲ってきたのはあいつだわ」

考えてみればそれが全ての始まりでした。そう思うと、何もかも全てあの宰相の息子のせいだという気がしてきました。そうです、最初に湘雲を勝手に襲ってきたのは宰相の息子です。そのあとまた勝手に紫の虎にやられたくせに、今は罪を湘雲になすりつけているのです。そう考えると湘雲は心の底から怒りが湧いてきました。

「あの宰相が全部悪いんだわ!私があの紫の虎を捕まえて、帝の御前に潔癖を示して見せるわ!」

湘雲は立ち上がって叫びました。何事か、と周囲の卓の人々が湘雲を見ます。虎が慌てて湘雲の袖を引き座らせました。

「あまり言うなと言っているだろう。まやかしが途切れても知らんぞ」

「あ、ごめんなさい」

「大体お前女仮に行くのではなかったのか」

「ああそうだったわ。女仮にも行くし、宰相もやっつけるわ!両方ともやってみせるのよ!」

湘雲は言いました。言ってみると、なんだか元気が湧いてきました。そうです。覚えのない罪を着せられて逃げるだけでは納得がいきませんし、何より悔しさが収まりません。自分の潔白を証明して、それから女仮に行けばいいのです。そう思うとお腹が空いてきたので、湘雲は改めて大皿の蛙炒めをがばっと箸でさらい、大口を開けて頬張りました。

「湘雲殿、俺も助けるネ。東向の武士、名誉を取り戻す人、尊敬する」

「ありがとう、八郎さん!」

湘雲はもぐもぐと口を動かしながら、八郎に向かって頷きました。虎は呆れたようにため息をつきました。

 隣の商人達には、彝兀のまやかしのおかげで湘雲達の話は聞こえません。彼らは調子よく酒を煽り食事を続けていましたが、ふと思いついたように一人が言いました。

「そういえば、明州を出る前に、変な男に声をかけられたとよ」

「変な男?」

「身なりは普通やったが、言葉に聞いたことのないなまりがあった。虎について尋ねられたとよね。都に虎が出るという噂について、詳しく教えてくれと言われた。そのときはまだ今回の騒動が起こる前やったけど、都に行く予定でもあるのかと思って一応教えておいたとよね。若い男ばかりが狙われるから注意せんといかんってね」

その言葉が、張り切っておかずを頬張っていた湘雲の耳に入りました。

「どこかひどい山奥出身の奴やったっちゃろう」

「都に商売でもしにいこうと思っとったんやろう。特に変なことでもない」

「身のこなしも話し方も、そんな田舎者とは思えんかったがねえ…そいつ、女と一緒やった。無愛想な女やったわ、ひとつもにこりともせん」

盗み聞きを続けていた湘雲と八郎は、顔を見合わせました。顔を隠した連れは男をからかうように言いました。

「その妻が女仮人だったなんてことだったらどうする?」

「まさか。女仮人は入国できないやろう。女仮人の女やったら歯ですぐわかる。」

「まあ、にこりともせんかったから歯は見とらんけど…まあそんなことはありえんやろう。しかし夫婦にしてはよそよそしい雰囲気やったし、不思議な人達やった」

男はそう言って首を捻りながら酒をまた一杯飲み干しました。ひとりが、渋い顔をしました。

「そいつら、今回の虎の事件と関係があるっちゃないやろうか。面倒にならんうちに役人に申し出ておいたらどうかね」

「別にそれくらいなんでもないやろう。面倒にわざわざ首をつっこむ必要もない」

「そうや、面倒ごとはいかんわ」

湘雲は虎を見ました。虎も話を聞いていたようで、何か考えるように顎をさすっています。

「何か関係があるのかしら」

「さあ、単に噂に興味を持っただけの田舎者かもしらんがな」

商人達はその間にさっさと次の話題に移ってしまいました。これはますます、一度明州に行ってみなくてはなりません。

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