第9話

 湘雲はかわそうと身を捩りましたが、そのとき前を横切る影を見ました。次の瞬間には男は短剣を取り落とし、地面に転がっていました。そして、その男に向かって、刀をつきつけている子供が湘雲の目の前にいました。不思議な髪型をしています。頭全体の髪を剃り、後頭部の髪だけは長く伸ばして編んで頭にぐるりと巻き付けています。

「女だゾ!」

なにやら聞きなれない発音でしたが、湘雲にはそう聞こえました。

「え?」

「女、切る、よくないネ!」

子供はそう言うと、刀を振りかざしました。湘雲は男が切られるものと思いましたが、刀の切っ先は男の鼻の先で止まりました。一寸の隙間もないほどです。子供はに、と口角をあげました。うひゃあ、と男は悲鳴をあげて、立ち上がろうとしましたが立ち上がれません。腰を抜かしているようです。男はよつんばいのまま逃げていきました。

 子どもはその姿を笑って見送ったあと、くるりと湘雲を振り返りました。

「あなた、大丈夫カ?」

「あ、ありがとう…」

子供はにかっと満面に笑いました。よく見ると、背丈は小さいですが子どもではありませんでした。顔はもう少し大人に見えます。しかし髪型も不思議でしたが、着ている服も見たことがないものです。刀も不思議な形です。栄で役人などが見に帯びている刀はまっすぐでずっしりと重そうなものでしたが、彼が手に持っている刀は三日月のように曲がっているのです。彼はその刀をくるくると回してみせたあと、腰の鞘にかちんと納めました。

「女は旅、気をつけなければならないヨ」

湘雲は、え?と聞き返しました。さっきからこの子供のような人が、自分のことを「女」と呼んでいるのはどうやら聞き間違いでは無さそうです。

(まさか、ばれているのかしら…?)

湘雲が眉を顰めるのも彼は特に気にせずいましたが、急にはっとして顔を青ざめました。何事か、と湘雲が思うと、横に虎が並んでいました。

「あまり目立ちすぎるな、屈閣のまやかしは完璧というわけではないのだぞ」

「あら、今までどこにいたのよ?」

虎はしれっとしていましたが、その手には銭の束がひとつと銀貨が三つもありました。

「あなたがやったのね!?」

湘雲は虎を見上げました。財布が宙を舞ったりするなんておかしなことだと思っていましたが、倀にやらせたに違いありません。「必要な路銀を準備したまでだ」と虎は悪びれもせず答えました。あの最低な男をやりこめたことは、実のところ湘雲も悪い気はしていませんでした。ちょっとお金を失って怖い思いをするくらいは当然の罰です。これで路銀の心配は当分無さそう、と湘雲は思って少し嬉しくなりました。誰のものかわからないお金を勝手に使うのは気が引けますが、あの男のものならいいかという気がします。

「ねえ、助けてくれてありがとう。あなたにも少しお礼を…」

湘雲が振り返ると、そこにはすでに、子供のような人の姿はありませんでした。

「あら?いないわ」

「あの傴人うじんか」

「傴人?あの人が?」

湘雲はあたりをきょろきょろと見回しましたが、どこにもその姿は見えませんでした。

 辺りはまだ騒然としつつも、少しずつ店に人が戻ってきました。ひとりの女の子が湘雲に寄ってきました。

「あの、ありがとうございます。助かりました」

さっきあの男に絡まれていた店員です。その後ろには白髪の混じった五十ほどの男性もいます。彼は、この店の店主だと名乗りました。

「あの男にはいつも手を焼いていたのです。進士とは言っても実は奴は恩陰を受けただけのものです。娘を助けてくださってありがとうございました」

恩陰と聞いて湘雲は納得しました。親が高位の官僚であると試験を受けずとも進士になれる場合があると聞きます。親子は何度も湘雲達にお礼を言った後、宿代はいらないので是非泊まっていってほしい、と言ってくれました。

 このような宿場の料理店は宿屋も兼ねており、大抵は二階や別棟に客が泊まれる部屋があります。店によって値段や格式も様々で、それは一階の料理店と同じです。娘がお部屋はおひとつですか、と訪ねてきました。湘雲は初めてそのことに思い至りました。虎は今のところ湘雲を食べる気配を見せませんが、やはり人食い虎と一緒に寝る気にはなれません。虎は湘雲の表情を見る前に、二つで、と彼女に言いました。彼女は少し不思議そうでしたが、何も言いませんでした。

「言っておくが、お前のためではないからな」

虎は部屋の前で湘雲に言いました。

「お前のようなうるさい奴と一緒にいたくないだけだ」

そう言って、虎は大きなほうの部屋の扉を勝手に開けました。湘雲がとめる間もなく、虎はそのまま部屋に入ってしまいました。扉はバタン、と乱暴な音をたてて閉まりました。

「なによ」

湘雲は閉じられた扉を見て言いました。

「人食い虎に言われたくはないわ」

それを虎が聞いていたかはわかりません。

 夜中、湘雲はぐっすり眠り込んでいました。暑い中歩き通しですっかり疲れてしまっていたのです。部屋は寝台と小さな物置机のみの質素なものでした。小さな窓の雨戸を閉めると真っ暗です。湘雲は手探りに蚊帳の中に入り布団に潜り込みました。布団はよく干されていて清潔でした。もっとも湘雲はそんなことに気づく暇もなく、横になるなり寝てしまったのですが。

 夜の静けさを破ったのは、ゴトン!という鈍くて大きな音でした。眠りを妨げられた湘雲が何事かと暗闇に目をやると、そこに何か動くものがいます。湘雲は驚いて息を呑みました。

「<覚悟!>」

侵入者は今まで湘雲が聞いたこともない言葉を発しました。

「きゃあああ!」

侵入者が襲ってきました。湘雲は叫びます。湘雲に向かって何かを振り下ろした侵入者でしたが、その声を聞いて動きを止めました。

「<女だと!?>」

また侵入者は謎の言葉を発しました。湘雲は、その声に何か聞き覚えがある気がしました。相手が扉に向かって逃げようとする気配を感じ、湘雲は反射的に「待ちなさい!」と叫びました。そのとき、扉が勢いよく開きました。

「何事だ?」

突然の灯りが眩しく、湘雲は目を細めます。侵入者も同様に顔を手で遮りました。そこにいたのは虎でした。燭台を手に持っています。蝋燭の灯りに照らされて、湘雲はそこで侵入者の姿を見ました。それは、夕刻に湘雲を助けてくれたあの小さな人でした。

「あなた、さっきの――」

傴人。虎はそう言っていました。東の海の向こうにいる異民族です。傴人はその名の通り背が曲がって小さいと本で読んだことがありましたが、小さいのは確かです。驚いたのにはもうひとつ理由がありました。彼が抜き身の刀を持っていたのです。湘雲を助けてくれたときにも使っていたあの三日月の刀です。部屋が真っ暗だったときは気づきませんでしたが、雨戸が外されて床に落ちていました。ここから侵入してきたのでしょう。

 傴人の侵入者は覚悟を決めたように刀を構えなおしました。刃が蝋燭の炎を受けてきらりと光ります。湘雲はぞくりとして引き下がりました。

「<お命頂戴する!>」

傴人はまたも何事かを叫び虎に飛びかかりました。虎はすばやくそれを避けました。刀の切っ先が虎の鼻先を掠めます。そのまま虎は前足で傴人の体を払い倒します。床に倒れ付した傴人でしたが、虎がその上から踏みつけようとするのを、後ろに飛び跳ねて起き上がってよけました。傴人の身軽な動きはなかなかのものです。虎が勢いよく手足を振り回しますが傴人はそれを軽々と避け続けます。しかしこのまま争われてはたまりません。

「ちょっと、やめなさいよ!やめてったら!」

湘雲が言ったのと、虎の前足がついに傴人を捕らえ、床に押し付けたのが同時でした。傴人はなんとか逃げようと体をよじりますが、さすがに虎の力には敵わないようでびくともしません。傴人は悔しそうに虎を謎の言葉で罵りました。湘雲は床に押さえつけられている傴人を見ました。何故この傴人はわざわざ部屋に侵入して湘雲を襲ったのでしょう。

 外で扉の開く音がしました。

「何事だ?」

男性の声です。隣室の客人が騒ぎに目を覚ましてしまったようです。湘雲は慌てて外に出ました。男が部屋から顔を出していました。

「あの、ええと、大丈夫です」

「本当か?何か叫び声が聞こえた気がしたが…」

男性は心配そうな顔です。当たり前でしょう。すると部屋の中から虎が言いました。

「坊っちゃまがおねしょをして騒いだだけさ。起こして申し訳ない」

湘雲は眉を吊り上げました。おねしょをしたと思われるのは困ります。しかし隣室の男性はそれで納得したようで、湘雲に向かってなにやらにやにやと笑い部屋にひっこみました。湘雲は扉を閉じるなり虎に詰め寄ります。

「おねしょは酷いわ」

「べつにどうせ嘘なのだから何でもいいではないか」

「そういうわけにはいかないわ」

そう言い争っていると、おい、と呼ぶ声がします。虎に押さえつけられたままの傴人でした。

「はなせ、くるしい」

確かに彼の顔は真っ赤になっています。虎が首根っこを押さえているので当然でしょう。かわいそうになったので離してあげたら、と湘雲は言いました。

「だめだ、俺を殺そうとしたんだぞ」

「だけどこのままでは死んでしまうわ」

下から傴人が訴えます。

「離せ、もう、お前、殺さない」

あいかわらず少し聞き取りにくい発音ですが、必死なことは伝わってきます。

「お前ら殺そうとした理由、話す!」

傴人が湘雲を見つめてきます。嘘をついているようにも見えません。湘雲は虎の腕を掴みました。(確かに毛がふさふさとしていて少しびっくりしましたが)

「どうして襲われたのか私は知りたいわ。話させるくらいいいでしょう」

ねえ、と湘雲が傴人に聞くと、傴人は虎の手の下でこくこくと頭を動かしました。虎は逡巡するように湘雲を少しだけ見ましたが、やがて「少しだけだ」と言って手を緩めました。

 傴人は咳き込んで床に転がりましたが、しばらくして息が整うと、上半身を起こし、手に持っていた三日月の刀を鞘に収めました。そして床に置きます。

「ありがとう」

傴人は床にあぐらをかいて座ると両手をつき、湘雲に向かって額が床につくほど頭を下げました。これが傴人の感謝の示し方のようです。体は小さいですが、今顔をゆっくりと見てみると、やはり既に成人していることは間違い無さそうでした。頭に巻きつけている編み髪には、いくつかの色糸が編みこんでありました。なかなかおしゃれなことをするものです。

「あなた、本当に傴人なの?」

湘雲は尋ねました。異民族に会ったのはこれが初めてです。傴人は湘雲に向かって頷きました。

「傴人、背中まがる人の意味ネ。栄人勝手に俺達を呼ぶ。しかし俺達自分の国のこと東向とうこう国と呼ぶ」

「東向国?」

「栄の東にある、理由ネ」

栄の外には様々な異民族が住んでいるということは知っていましたが、彼らに栄人が呼ぶのとは違う自分達だけの言葉があるなど、考えてみたこともありませんでした。確かに「傴人」と呼ぶのはあまりよくないかもしれません。虎はまだ警戒しているのか、その傴人、いえ、東向人の横で彼を睨みつけています。しかし東向人の彼は特に気にしていないようでした。

「俺の名はあんこうせい、字は八郎はちろう。八郎、呼んでください」

聞きなれない名前に湘雲が戸惑っていると、虎が「屈閣」と小さく呼びました。突然現れた小さな人に八郎は仰天しました。

「これはなんだ!?」

「倀というの」

「倀?鬼の仲間カ?」

「鬼ではなくて、虎が昔食べた人間だそうよ」

「虎が…食べた!?この虎、人間食うカ!?」

八郎は目を剥いて驚き咄嗟に身構えました。無理もないことです。八郎は置いていた刀に手をかけました。

「虎、危ないネ、殺す!」

「待って、違うの」

「食われたら終わり!食われる前殺す!」

「ちょっと待って」

「油断していたらお前も食われるヨ!」

「……確かにそうね」

必死に八郎を止めようとした湘雲でしたが、言われてみれば虎が湘雲を食べない確証はありません。

「そのとおりだわ。人食い虎だもの」

「そうだ!やはり殺す!」

そこでやっと虎は口を開きました。

「馬鹿どもめ、話にならん」

怒っているというより、完全に呆れ果てたというような言い方です。

「だってあなた人食い虎なのでしょう」

「そうネ、危険な奴ネ」

「安心しろ、お前らのような馬鹿など食わん」

「まあ、馬鹿とは失礼ね」

「侮辱、許さないヨ」

「黙れ、また隣が起きるぞ」

湘雲達ははっとして顔を見合わせました。虎は眠そうにあくびをしました。

「俺にも選ぶ権利がある。お前らなどごめんだ」

虎は言うと、猫のように床にまるまって目を閉じてしまいました。八郎は困った顔をしています。湘雲も困ってしまいました。

「おい、本当に、食わないカ?」

八郎が遠慮がちに聞きますが、虎の尻尾がゆるりと床を踊るだけです。屈閣は変わらずにこにこして宙に浮いていました。八郎はいぶかしそう湘雲を見あげました。

「俺、虎見るも、初めてネ。服着る、話す、人食う、虎は皆このような獣カ?」

「そんなことはないと思うけれど…」

湘雲にもよくわかりません。すると、虎が片目だけ開けて二人を見ました。

「俺は、特別な虎だ」

虎の返答に、八郎は首をひねりました。しかしそれだけです。異国から来たからか、栄ではそういうこともあるのか、と思っているのかもしれません。

 屈閣が床に向かってすいと手を動かすと、そこに紙と筆が現れました。おお、と八郎が小さく声をあげます。これに字を書け、と虎が八郎に指示しました。八郎は合点したというように顔を輝かせ、筆を取りました。名前を書いてもらうと湘雲も読むことができました。ずいぶん変わった名前です。そう言うと、八郎は筆先で文字を指しながら説明を始めました。

「姓、鞍岡ネ、俺の一族支配する村。八男だから八郎」

「分かりやすいわね」

「東向の言葉では、クラオカハチロウマサトシ、読むネ」

「え?」

「クラオカ、ハチロウ、マサトシ」

八郎は、一文字ずつ指で示しながらゆっくりと読みました。言葉が違えば同じ文字も読みが異なるのです。湘雲はひどくおもしろいと感じました。八郎はそれから、何故この栄にやってきたかを語りました。

 八郎によるとこうです。彼は、東向の三田井さんでんせいという領主に仕える武人なのだそうです。しかし彼の一族に特に有力なものはおらず、また八男であるため出世の見込みもありません。聞いてみると、どうも東向には科挙が無いらしいのです。武人は武人としてのみ出世ができるということでした。以前に女仮でも科挙が行われているという本を読んだことがあったので、科挙の無い国があるということが驚きでした。ともかく八郎は東向で生まれ育った武人であるわけですが、そんなある日、東向の王が、不老不死の妙薬である幻の人参が欲しいので、誰か取って来いと臣下達に命じました。それは海を渡った大陸でしか入手できず、探し出して献上すれば間違いなく出世できます。東向王の臣下のそのまた臣下である三田井の領主にも、この話は届きました。そこで八郎は自ら大陸行きを志願しました。海を渡る船旅が危険なのはもちろんのこと、言葉もうまく通じない異国での探索は命の危険さえあります。しかし、このまま将来に何の見込みもなく生きていくよりはいいと八郎は思ったそうです。一族の伝手でなんとか旅券も得ることができ、半年ほど栄の言葉を勉強してついに渡航してきたということでした。

 人参は楽安でも万病に効く妙薬として高値で取引されています。湘雲の伯父も時々ほんの小さな欠片を大切そうに煎じて飲んでいました。しかし、人参は栄では採れません。日の光の届かない北の冷たい山の中でしか育たないからです。上佳がその本場ですが女仮でも採れます。だったら最初から上佳や女仮に渡ったほうがよかったのではないかしら、と湘雲が言うと、八郎は首を振りました。なんでも東向には、藤氏と橘氏、大きな二つの氏族があってもう何十年も敵対しているのだそうです。三田井の領主は橘氏へ仕えているので、八郎も橘氏の側ということになります。晴への船は藤氏、栄への船は橘氏がそれぞれ掌握しており、敵の船には乗れません。そこで八郎はひとまず栄へ渡り、その後陸路で女仮を目指すつもりでやってきたということなのでした。ひとくちに異民族の国といっても、その中にも色々な勢力があって、複雑な事情があるのです。女仮にちゃんと行くことができるのか、ちょっと不安になってきます。

「それに俺が欲しい人参、ただの人参と違う。俺が欲しい、虎人参ネ」

「虎人参ですって?あの幻の?」

湘雲が思わず大きな声で言うと、八郎はうむ、と大きく頷きました。

 虎人参とは、山の中ではなく死んだ虎の上に生えてくるという幻の人参です。虎の精気を吸ってまさの虎の如き縞模様を宿しているそうです。効果は普通の人参の百倍、いや千倍、ひとたびそれを口にすれば病はたちどころに全て治りさらに不老長寿を手に入れることができるという百草の王の王です。ただし、本当に滅多に出回りませんし、そもそも本当にそんなものがあるのかすらわかりません。普通の人参に縞模様を描きつけて売りつける悪徳商人もいる始末です。

「栄着いたあと、都、虎が出るいうネ。だから俺、その虎殺せば虎人参が生えるかも思って、虎狩ることにした。宿場で情報集めたらお前たち来た」

八郎はそう説明しました。なるほど、だから虎を襲おうとしたのです。しかしそれでどうして湘雲の部屋のほうに入ってきたのかが謎です。そう言うと、八郎は当然のように言いました。

「皆言うネ、女仮人の女が虎使って人襲う、俺聞いた。女が虎の主人なら、大きい部屋、女、小さい部屋、虎と思ったヨ」

「それで私の部屋に入ってきたのね?」

湘雲の部屋を襲ってきたのはそのせいだったのです。湘雲は笑ってしまいましたが虎はおもしろくないようです。湘雲が自分の主人と思われているからでしょう。

「しかし、栄人、虎歩いても驚かないカ?宿泊まっても驚かないカ?」

八郎は心底不思議だというように言いました。湘雲は笑いました。

「そんなことはないわ。それはね、虎がまじないをかけているのよ。彝兀という倀がね……ちょっと待って」

湘雲はふと気づきました。

「どうしてあなた、私と虎のことが普通に見えているの?」

八郎は何のことかと不審な顔をしました。どう見ても虎と女だ、とその顔が言っています。湘雲は顔を青くしました。道行く人たちは全て虎の彝兀に騙されて人間だと思っていたはずです。ばれてしまえば湘雲は捕まってしまいます。

「おそらく言葉のせいだろう」

虎は八郎の話を特に興味もなさそうに聞いていましたが、ここで口を開きました。

「言葉?」

「彝兀は言葉で人々を惑わしている。俺とお前が、若い男子とその家庭教師である、と人々に吹き込んでいるのさ。だから、言葉があまりわからないこの傴人には通じなかったのだろう」

へえ、と湘雲は感心しました。そういう仕組みになっていたとは知りませんでした。ところでです。

「あなたね、傴人ではなくて東向人よ。そう言わなければだめだわ」

「別にどちらでもよいだろう」

「だめよ、だって八郎さんが自分で東向だと言っているんだもの」

虎はつんと顔を逸らし、くあ、とあくびをしました。全然反省する気を見せず、まるでまだ成人前の男の子のようです。根気よくこれからも注意し続けてあげなくてはいけません。

 次は湘雲が、何故虎と一緒に北へ向かうことになったかを説明する番でした。八郎は湘雲のことを女仮人だと思っていたようで、湘雲が歯を抜いていなかったために疑いをかけられて都を出るはめになった経緯には驚いた様子でした。そもそも、栄の女性の歯を抜く習慣については大層おかしく思っていたようです。

「栄の女、何故歯、抜く?東向の女、誰も歯、抜かない」

「何故って…そのほうが美しく見えるからではないかしら」

「美しいか?」

「そうねえ…」

何故歯を抜くのかなど、湘雲は考えたこともありませんでした。それは生まれたときから当然の常識だったからです。湘雲は、前歯を全て抜いてしまった女性の、ぽっかりと空いた口はやはり女らしくて美しいものだと思います。それを袖で隠して笑う姿もなよやかで素敵です。しかし、改めて問われると、自信がなくなってきます。

「私は、美しいと思うけれど、八郎さんはそうは思わないのかしら」

「東向の女、歯、抜かない。けれど、歯赤く染めるヨ。赤い歯、美しいネ」

「歯を赤く染めるの?本当に?」

「本当。貴族の男も染めるヨ」

世の中には全く知らないことがたくさんあるものです。傴、いえ、東向について本で少し読んだことはありましたが、まさか歯を抜かずに染める風習があるとは知りませんでした。世の中って色々あるのね、と湘雲が言うと、八郎は少し得意そうな表情をしました。

 いつの間にか夜もかなりふけてきました。蝋燭もかなり小さくなっています。あぐらをかいて床に座っていた八郎が、湘雲と虎を見て言いました。

「二人、紫の虎、追っているカ?それなら、俺も、一緒行きたい」

八郎は真剣な様子でした。湘雲と虎は顔を見合わせました。

「何故一緒に?」

 虎が聞きました。

「俺、紫の虎、欲しいネ。紫の虎狩って、人参植えればいい。普通の虎より、すごく効き目がありそう思う。いいだろう?」

なるほど、その手がありました。以前に生えるのを待つより、植えればいいのです。それに確かに、紫の虎には普通の虎よりさらに何か不思議な力があるかもしれません。湘雲はいいわ、と言いましたが、虎は「くだらない」と呆れているようでした。

「虎に人参を植えたところでただの人参にしかならんぞ。迷信だ」

「しかし、やってみないとわからないヨ。火のない所に煙は立たず、東向でいうネ」

「ほおう」

「それに、あんたと一緒、便利だ」

八郎は虎を見てにっと笑いました。これまで、目立つ異民族の服装であることから、街道は夜に歩き、空き家で寝るなどなるだけ人目を避けていたと八郎は言いました。栄の政府は港街以外での異民族の自由な出歩きを禁じています。むしろよく今まで捕まらなかったものです。虎はあからさまに嫌そうな顔をしました。そういうときには、大きな虎の口の歯茎がさらけ出されるので、湘雲にも分かるようになってきました。

「お前の分まで彝兀を働かせろと言うのか」

「俺、剣使える、役に立つ」

八郎は自信たっぷりに言いました。

「私も賛成よ。八郎さんに一緒に行ってもらいたいわ」

湘雲も身を乗り出します。湘雲としては、単に一緒に行く人が増えたほうが何かと心強いし楽しそうという気持ちでした。虎の目には心のそこから迷惑だという思いがありありと浮かんでいましたが、湘雲は無視することにしました。

「八郎さん、よろしくね」

湘雲が言うと、八郎は湘雲に向き直り、それから二人の間に刀を置きました。そして、最初と同じように、床に両手をついて頭を床につけました。

「湘雲殿、<よろしくお願い申しあげる>」

東向の言葉でした。湘雲は嬉しくなりました。

「おい、俺にはしないのか」

虎が後ろから声をかけてきました。

「湘雲殿、俺助けてくれた。だから、栄での主人、湘雲殿にするネ。虎も湘雲殿、主人ネ。俺達同じネ」

「待て、こいつが俺の主人というのは間違いだぞ」

八郎はそれ以上反論せず代わりに笑いました。湘雲もつられて笑います。こうして、旅の仲間がひとり増えたのでした。

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