第四章 湘雲、東向の武人に会う

第8話

 湘雲と虎は、とりあえず女仮と栄の国境の街である明州めいしゅうまで向かうことにしました。先に説明したとおり、女仮と栄は渦水という河を国境として南北に対立しています。渦水はそれほど大きな河ではありませんが、周囲には湿地帯が広がり、大軍をもって越えることは難しいと言われています。実際六十年前も、女仮は渦水の手前までしか軍を進めませんでした。一般の栄人が渦水を越えて女仮の支配地域へ行くことは禁じられています。女仮人も同様に栄への入国は堅く禁じられています。しかし、渦水の傍にある明州という街には、女仮との商売のため特別に女仮への入国許可を得た栄人がいるということを、湘雲は以前本で読んで知っていました。そのような栄人の商人達は、明州から船で対岸の女仮側の街・息州そくしゅうへ行くことが許されており、息州で女仮の珍しい品々を買い付けては栄で売りさばくのです。息州には、栄人商人の住む町もあると湘雲が読んだ本にはありました。周りを女仮人に囲まれて生活するなど恐ろしくないのだろうか、と湘雲は思ったものです。とにかくまずは明州へ行けばなんとか女仮に行く方法も見つかるかもしれません。そう湘雲が虎に言ったところ、北へ向かう虎とも意見が一致したのでした。

「あなた、明州には行ったことがあるの?」

湘雲は隣を歩く虎に尋ねました。

「そんな田舎には行ったことがない」

「なんだ、そうなのね。ではずっと都にいたの?」

「都は人が多いから長くいるのは難しい。大体は都近くの農村で庵を結んで暮らしている。怪しまれるので、数年ずつ場所は変えるが」

「そうなの、では意外と色々なところに行ったことがあるのね。もしかして青壁せいへきにも行ったことがある?」

「当たり前だ」

虎はそっけない態度です。

「いいわねえ!私も青壁や、へいがその詩に詠んだせきていじょうを一度この目で見てみたいものだわ」

うっとりと言う湘雲を、虎は呆れた視線で見下ろしました。

「青壁も実際に見てみれば蘇西坡そせいばが言うほどたいした風景でもない」

「なによ、わざわざそういうことを言わなくてもよいでしょう」

「赤帝城もお前が想像しているより小さいぞ」

「あなた、本当に性格がよくないのね」

湘雲は呆れてぷいとそっぽを向きました。

 多くの人々が行きかう街道を湘雲と虎は堂々と歩いていました。そのからくりについてお話しましょう。女仮まで行くと決めたものの、どうやって行ったものか湘雲は困り果ててしまいました。虎は服を着ていますがしかしやはりどう見ても人間ではありません。体は服で隠せてもいかんせん顔が虎なのです。それに湘雲もいくら男装しているとはいえ、追われる身です。もしやずっと夜道や人里離れた獣道を歩き続けるのかとこっそり恐れていましたが、そんなことはありませんでした。なんと、虎は堂々と街道を歩いて行くと言うのです。

「街道を?歩いて?」

「そうさ。どこかで船に乗れればそれでもいいが」

「でもそれでは皆に虎だとすぐにわかってしまうわ」

湘雲が反論すると、虎は澄まして湘雲を見下ろしました。

「そうならないように、倀がいる」

虎は、空に向かって「彝兀いごつ」と呼びました。さっきとは違う名前です。すると今度は、小さな初老の男性が現れました。学者のようなゆったりとした服を身にまとっています。にこにこと笑った表情はいかにも穏やかな文人という感じです。彝兀、と虎はもう一度呼びかけました。

「街道を行きたい。俺とこやつ…そうだな、俺はこやつの家庭教師ということにしよう。楽安のぼっちゃまの見聞旅行だ」

虎の言葉に、彝兀は微笑んだまま一度ゆっくりと頷きました。それからふうっと消えてしまいました。虎は満足そうに笑いました。湘雲にはまだ意味がわかりません。

「どういうこと?」

「これで街道を歩いても、道行くものは皆お前のことを少年だと思い、俺のことをその家庭教師だと思うようになる」

「そんなことができるの?」

「当然だ。俺のゆく道の安全を守るのが彝兀の役目だからな」

「その彝兀も、あなたが食べた人間なの?」

「当然だろう」

虎は冷ややかに言いました。

 半信半疑だった湘雲でしたが、道行く人の誰もが全く驚く様子もなく淡々と過ぎ去っていくのには、虎の言ったことを信じざるを得ませんでした。都から北へ伸びるこの街道は栄のなかでも重要な交通路のひとつです。その向こうの女仮まで続く唯一の大道であることから、特に警備も厳しくなっています。この街道に沿って運河があり、人やものの行き来は運河をゆく舟でも行われていています。その運河は、もとは北のそうから渦水を越えて南にある大江だいこうを結ぶ巨大なもので、三百年以上前につくられたものでした。楽安はその運河と大江が交わるところにあり、かつての栄の都啓封と運河でつながっていました。ふたつの都市の間には大きな船が行き交いそれは賑やかであったそうです。しかし栄が女仮に破れ北半分の領土を失ったとき、女仮人が運河を下って攻め入ってくるのを防ぐため、運河は埋め立てられてしまいました。そのため、今は栄側の小さな河がいくつか流れ込むだけの小さなものになってしまい長さもそれほどではありません。陸路であるこの街道が、北へ向かう唯一の道となっていました。

その街道を堂々とふたりで歩いているのに、道行く人々も、道の脇の屋台で団子や揚げ菓子を売っている人々も、湘雲達のことをちらりとも見ません。一番驚いたのは、馬に乗った兵士達が「虎と歯のある女を見かけたら必ず知らせよ!」と告げながら駆け去っていったことでした。その後を行く徒歩の兵士達が配っていたちらしをもらってみると、それは人相書つきの手配書でした。虎と女の絵が描かれています。虎ももちろん今にも襲い掛かってきそうな絵でしたが、その横に描かれている女は前歯をぎらりとみせつけるように笑っている恐ろしい人相です。その下には「悪女 史湘雲」と書かれてありました。

「私、こんなではないわ!」

湘雲は怒って言いました。罪を犯したわけでもないのに、弁明の機会もないまま悪女とまで呼ばれるとは、あまりにも腹立たしい事態です。湘雲の言ったことに、ちらしを渡した兵が怪訝な顔をしました。湘雲は慌てて、「こんな恐ろしい女見たことありませんよ!」と言います。ちら、と虎が湘雲をおもしろそうに見下ろしてくるのを感じたので、湘雲はもう一度大きな声で言いました。

「虎なんて恐ろしい生き物、みつけたらすぐに殺さないと!」

親切そうな若い兵は、虎に向かって「道中気をつけてくださいね」と言って去って行きました。

「まぬけなものだな」

虎が兵の背中を見送りながらおかしそうに言いました。虎の言ったとおり、自分達は他からは全く違うように見えているようです。湘雲は今度こそ本当にそれを実感して驚きましたが、しかしそれで虎を素直に褒めるのもなんだか癪でした。虎は湘雲が何を言ってもとにかく偉そうなのです。湘雲は手元のちらしを改めて見ました。実際にこういうものが既につくられているのを見ると、自分が二度と都に戻れないことがはっきり分かります。捕まったらきっと死罪は免れないでしょう。珍伯父の一家がどうなるのかだけが少し心残りでした。巻き添えを食らっていないといいのですが。

 それにしても、と湘雲は歩きながら辺りを見回しました。街道の周りにはずうっと田園が広がっています。その向こうにはうっすらと山々が霞んで見えます。都から逃げてくるときに見た景色と同じです。一面が瑞々しい緑色で、雨に濡れて光っており思わず溜息をつくほどの美しさです。眺めていると、兵から逃げているのだ、という危機感は、すっかりなくなってしまいます。

「旅って結構いいものね」

湘雲は晴れ晴れと笑顔で言いました。隣の虎は呆れ顔をしていましたが、その理由は数刻後にわかることになります。果たして数刻後、湘雲はすっかり疲れ果てていました。暑いのです。雨が降った後の湿った空気が、雲の隙間から覗いてきた太陽に照らされて熱せられ、じわじわと蒸し暑さが増してきます。風もまったく吹きません。街道の両脇に植えられた柳が影をつくってくれますが、それでも汗が噴き出してきます。隣を見ると、虎はなにやら涼しい顔です。

「ねえ、暑くないの?」

湘雲は思わず虎に聞きました。だって虎は全身毛で覆われているうえに服まで着ているのです。暑くないはずがありません。しかし虎は、汗だくの湘雲を小ばかにしたような視線を送るのみでした。

「暑いなどというのはばかな人間が感じることだ」

「なによ、あなたは違うとでも言うの?」

「虎は暑さなど感じないのさ」

虎は得意そうです。湘雲は流れ落ちる汗に目を瞬かせながら、悔しさに口を引き結びました。虎だって暑くないはずがありません。きっと彝兀か屈閣に何かまやかしをかけてもらっているに違いありません。それともしの類に気候など関係がないのでしょうか。

 日も沈むころには、湘雲の疲労は限界に達していました。考えてみれば、これまでの人生でこれほど歩いたことは一度もありません。歩き続けた足は棒のようです。ですから、虎が今夜はこの宿場で休む、と言ったときには思わず飛び上がって喜びました。そこは都から一番近い宿場で、都へ向かう人、都から出発してきた人で大変賑わっていました。街道に沿って開業している料理店は豪華な彫刻や彩色で飾られている立派な店構えのところもあれば、ただみすぼらしい机と椅子を並べた屋台まで、客層も様々で店よって違うようです。しかしどこも道まで張り出した椅子には人がいっぱいです。

 湘雲と虎は、そのなかの一軒の軒先の机を確保しました。豪華すぎず、かといってあまりに古すぎたりもしない店です。店員の感じのよい女の子を呼び止めておすすめを聞くと、魚の煮込みが名物だと言うので、それと木耳と野菜の炒めを頼みました。店内や周囲の店では旅の途中の人たちがあちらこちらで談笑しています。男性が多いですが女性もそれなりにいます。運搬業者や小売商人が多いようですが、それ以外の人たちもたくさんいます。女性達は、どうやらお参りに行く人が多いようでした。

「虎はまだ見つからないのかい?」

そういう会話が聞こえてきたので、湘雲はそちらに耳を傾けてみました。店の女将が、常連の商人と話しているようです。商人は知った風に女将に語っていました。

「都から来た同業にさっき聞いたんだがね、女は妖術使いで虎の化け物に人を襲わせるらしい。虎に乗って都から逃げたようだ。やはり女仮人なのに違いないよ」

いやあ、恐ろしい、と女将が両肩をさすります。ふ、と虎が笑いました。

「どうだ?散々な言われようだな」

「そうね、でも私があなたを操ってると思われているみたいだから、それだけは少し気が晴れるわね」

湘雲が言い返してみせると、虎はふしゅう、と歯の間から息を漏らしました。そこへ、料理が運ばれて来ました。

 虎は前足――手と言うべきなのかもしれませんが─で器用に箸を使い食事をしました。名物の魚の煮込みも確かにおいしかったので、湘雲は満足していました。

「家でも食べていたけど、外で食べるとまた何か違った感じがしていいわね」

湘雲は亀寒天を口に一口食べて、周囲を見渡しました。苦味と甘みが混ざった味が広がり、疲れた体に染み込むようです。やっぱり、こうやって途中でおいしいものを食べたりしながら旅をするのは悪くないことかもしれない、と湘雲は思いました。

「あのひとが食べているもの、なにかしら。赤い色をしているわね、あれも食べてみたいわ」

湘雲が、ふた隣横の席の女性が持っている器の中身をみながら言うと、虎が言いました。

「まだ明州までかなりある。あまり多く銭を使うな」

「別にもともと自分のものではなくて勝手にとってきたのだから、この際気にすることないじゃない」

湘雲が言い返すと、虎はふん、と息を吐くだけです。

 そう、お金の話ですね。皆さんも気になっていたことでしょう。店に入るとき、湘雲はお金を持っていないことに気づきました。そもそも自分だけででかけることも滅多になかったし、父が生きている頃はでかけるときはいつも珍花と一緒でした。そのことを虎に言うと、虎はまた屈閣を呼び出したのです。銭を、と虎が言うと、すぐに虎の手元にはちょうどこの料理店で使うにちょうどいいほどの銭が現れました。きっとまた、火や服と同じように近くから掠めとってきたのでしょう。大丈夫なの?と湘雲は心配しましたが、虎はどこ吹く風という様子でした。

「だって、勝手にとってきたものでしょう?」

「なに、これくらいの銭が無くなったことに気づかないくらいの奴らだから問題ないわ」

虎が顎で指した先みると、そこにはいかにも裕福そうな男性が座っていました。お供も何人か一緒です。木陰の一番よい席を陣取っています。酒を飲んでいるようで、赤らんだ顔はてらてらとしていました。彼は近くを通った若い女性の店員を呼び止めると、なにやら話しかけました。店員は愛想笑いをしていますが、男に何か言われると真っ赤になって走っていきました。男と、お供の男達ががははと大声で笑います。きっとあの店員を何か変なことを言ってからかったのでしょう。湘雲は顔をしかめました。あまり気分のいいものではありません。父が友人たちと宴席を持つ際、たまに湘雲を呼び出して挨拶させることがありました。そのときにもそういう、応えるのに困ることをわざと言って楽しむような人がいたりしたのです。

「そうね、確かにそうだわ」

大声で騒ぐ彼らを見て、湘雲は思いました。あの男なら、少しくらい金を取られてもいい気味だわ。

 湘雲が赤い寒天を追加注文しようと店員を呼び止めようとしたとき、先ほどから騒いでいたその男達が、また手を挙げて大声で店員を呼びつけました。女性は最初湘雲のほうに来ようとしていましたが、男の声があまりにも大きいため、そちらへ向かいました。男はその店員の腕を掴んでなにやら話かけます。店員は愛想笑いを浮かべて体を離そうとしますが、男はにやにやと笑うだけです。やがて彼は腕だけでなく、彼女の体を触り始めました。なんとか穏便に場を離れようとしていた店員の女性も、そこまでされてはさすがにもう愛想笑いもできないようです。やめてください、と言う彼女の声が聞こえて来ました。しかし男達は笑うばかりで全くやめようとしません。

「あの男、ひどいわ」

湘雲は拳を握りしめると立ち上がりました。つかつかとそちらへ向かいます。

「ちょっと、あなた、やめなさいよ」

突然言われて、男は驚いたように顔をあげました。が、そこで湘雲をみるとげびた笑いを浮かべました。

「なんだ、小僧、何か用か」

「彼女、嫌がっているではないの」

負けじと返しつつ、湘雲は男を睨み返しました。やはり本当に自分は男の子に見えているようです。はん、と男は鼻を鳴らしました。相手が子供とみて舐めきった態度です。

「俺は別になにもしてないぞ?」

「うそ、その人の体を勝手に触ったりしたわ」

「ふん、それがどうしたというんだ」

男は店員の女性の肩を抱きました。女性はきゃあ、と悲鳴をあげます。

「こいつも喜んでいるかもしれないじゃないか」

「どう見ても嫌がっているじゃないの!」

「なんだと」

男が声を荒げ、周囲に座っていた人々も一体何事かと湘雲達のほうを見てきます。

「あなた達だって見たでしょう?」

湘雲は周囲を見回して言いましたが、誰も微妙な顔をするばかりです。男は勝ち誇ったように言いました。

「俺は進士だぞ、俺に何か言えることがある奴はいるか?」

皆は湘雲から目を逸らします。湘雲の怒りはますます高まりました。

「子の曰く、君子はにしてらず、小人は驕りて泰ならず」

「なんだって?」

「進士というのはそうやって威張り散らして器の小さい人間でもなれるものなのかしら」

おお、と周りから感嘆が漏れ聞こえました。湘雲が挑むように男を見ると、男はわなわなとして怒鳴りました。

「このガキが!」

男が拳を振り上げたときでした。誰かが叫びました。

「旦那さま、財布が!」

なに、と男が振り返った先で、人々が唖然として宙を見つめていました。二階ほどの高さのところに、ふわふわと浮いているものがあります。俺の財布ではないか、と男は驚いて叫びました。財布はふわふわと宙を漂ったあと、急にすごい速さでぐるぐるとまわり始めました。すると、財布から銭があたり一面に降り注ぎました。銭だけでなく、銀貨も時折混じっています。人々は歓声をあげて、降ってくる銭を拾い始めました。

「おい!なにをする、俺の銭だぞ!」

男は顔を真っ赤にしてわめきましたが、騒ぎのなかでかき消されてしまいました。ぐるぐると回っていた財布が、動きを止めて地面にぽとりと落ちたときには、中身はなにも入っていませんでした。呆然とする男を、周りの人々はくすくすと笑います。男の顔は、赤を通り過ぎて黒っぽくなってぶるぶると震えていました。一連の出来事を湘雲も驚いて見ていましたが、男は湘雲をかっとにらみつけました。

「お前がやったのか!」

「はあ?違うわよ!」

「許さんぞ!」

男は懐から短剣を取り出しました。刃が太陽を受けてきらりと光ります。さすがに湘雲も血の気が引きました。周りにいた人々はそれを見て悲鳴を上げて逃げ出します。湘雲はじりじりと後ろに下がりましたが、机や椅子が邪魔してそれ以上下がれません。それを見て男はいやらしく笑い短剣を振りあげました。

「殺してやる!」

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