第三章 旅立ちを決めること
第7話
湘雲は都の外に出たことがありませんでした。今、走る虎の背に必死でつかまりながら、湘雲は初めて都の外の世界を見ました。青々とした稲が一面に広がる田園風景がどこまでも続いており、その時々に村があり藁葺きの家々が塊のように集まっているのが見えます。いつか読んだ本の挿絵の通りだ、と湘雲は感心しました。天気がよければとてもすばらしい風景になりそうですが、雲が重く垂れ込めた空は暗く、生ぬるい風が頬をなぶっていく今の状況ではそうもいかないようです。虎は田園のなかをひたすら走っていきます。田んぼには笠をかぶった人々が農作業をしている姿もいくつかありましたが、ありえないほどの速さで駆け抜ける虎を見て皆叫び腰を抜かして逃げていきました。
「ごめんなさい、驚かしたいわけではないの!」
何人目かの農民のお爺さんが口をあんぐりと開けて尻餅をつくのを湘雲は後ろ目に見て、振り返って叫びました。果たして聞こえていたかはわかりません。
どれくらい走った頃でしょうか、大粒の雨が降り出しました。この季節にはよくある通り雨です。虎の走る速さのせいで雨粒が湘雲の頬を痛いほど打ちます。虎の毛もすっかり濡れそぼり手が滑りそうになります。
「ちょっと、いい加減休憩しましょうよ!」
湘雲は大声で虎に話しかけました。
「そうだな」
走り続ける虎の荒い息に混じって、低い声が聞こえました。
「追っ手は来ていないか?」
そう言われて、そういえば逃げていたのだったと湘雲は思い出しました。後ろを振り返ってみましたが、雨にけぶる田んぼがはるか遠くまで見えるだけでした。都も靄の向こうになってしまっています。
「来ていないわ!」
湘雲が言うと、虎は走る速度を落としました。飛ぶように後ろに流れていた景色が少しずつ形をはっきりとさせてきます。そのまま二人は、小道の傍らに立つぼろぼろの空家に滑り込みました。
使われずに数年が経ったらしき小屋は、壁もところどころ壊れかけ雨漏りもしましたが、何も無いよりはよほどましでした。ただでさえ外が暗いので部屋の中は夕方のように暗く湿っています。虎の背中から降りた湘雲でしたが、そのまま床にへたり込んでしまいました。手も足もずっと虎を掴んだまま動かしていなかったせいで、がくがくと震えて力が入りません。虎は、湘雲から少し離れたところで全身をぶるぶる震わせて水を飛ばしました。それから舌で残った水滴も舐めてしまいました。
「…あなた、猫みたいね」
「あんな下等な獣と一緒にするな」
「あら、猫ってかわいいわ、私は好きよ」
湘雲が言うと、虎はふんと鼻を鳴らしました。
ざあざあと雨が屋根を打つ音が続いています。湘雲はくしゃみをしました。頭から足の先までびしょぬれだから当然です。いくら夏とはいえこのままでいると風邪をひきそうです。
「近くに家はないかしら。そうしたら服を借りるのに」
震えながらそう湘雲が言うと、虎はははっと笑いました。
「お前、本当に馬鹿だな」
「なによ、どういうこと」
「今お前はお尋ねものだぞ。まだこの辺りまでは届いていないと思うがじき伝わる。それで人に衣など借りればすぐばれて捕まるだろうさ」
そういえばそうでした。どうしても現実味がないので忘れがちですが、自分は今追われる身なのです。しかし馬鹿呼ばわりされるのはやはり気持ちがいいものではありません。
「あなたこそ、虎なんてすぐに見つかるじゃないの。栄に虎はいないのよ。どうするつもりなの」
そう言われると虎はぐるる、と喉を鳴らして湘雲を見ました。それでも湘雲が見つめ返してやると、虎はふと目を逸らして溜息をつきました。そして湘雲を一瞥し、忠告するように言いました。
「そう簡単ではないからな」
何のこと、と湘雲が尋ねる前に、虎が宙に向かって一言言いました。
「
すると次の瞬間、宙に小さな人間が現れました。衛兵のような格好をした若い男性に見えます。心なしか少し光っているような気もします。
「なあに、これ」
驚く湘雲を無視して、虎はその宙に浮く小さな人間に対し「火を」と言いました。するとその小さな衛兵は心得たというように頷き、なにやら身振りをして消えました。すると、湘雲と虎の間に突然火が灯りました。何の燃料もないのに床のうえで火だけがぼうぼうと燃えています。
「どういうこと!?」
「なに、少し近くの家から火を借りてきたのさ」
「では、その家の火はなくなってしまったの?」
「いや、少し借りているだけだから気づかれないだろう」
どういうことかよくわかりませんが、ぱちぱちと目には見えない薪のはぜる音さえします。あたってみるとたしかに暖かく、部屋の中も少し明るくなります。湘雲は少し気分が休まってきました。
虎は自分も火にあたりながら、また「屈閣」と呼びかけました。
「服を…そうだな、とにかく二人分頼む」
屈閣はそれを聞くとにこりと笑いすうっと消えました。その途端、虎と湘雲の前それぞれに衣服や靴一式がばさりと降ってきました。湘雲はまたも驚いて声をあげました。
「どういうこと?」
手にとってみると、がさがさとした手触りです。紺色に染められた麻布でした。新しくはありませんが清潔です。虎も前足で自分の前に現れた衣服をひっくり返したりして確認しています。
「あなた、服着るの?」
湘雲が不審げに言うと、虎はさも心外だというように目を光らせました。
「最初に会ったときも着ていただろう」
そういえばそうだった、と湘雲は思い返してみました。しかしやはりどうもおかしく思えます。
「けれど今は着ていないではないの」
「今は緊急事態だから仕方なかったのだ」
「獣は服を着ないわ」
「俺をその辺の獣と一緒にするな、元々は人間だった」
最後の一言は聞き捨てなら無いものでした。どういうこと、とさらに問い詰めようとした湘雲でしたが、虎が後ろ足で立ち上がると、急に少し人間のような体つきに変化してきました。もちろん全身にふさふさと毛が生えているのには違いありませんが、確かに服を着られそうな様子です。四足で歩いていたときには全く気になりませんでしたが、こうなると少し間が悪いように感じ湘雲は後ろを向きました。ふと、手に持っていた衣を見て、虎は湘雲の分も用意してくれたようだということに気づきました。広場でもなんだかんだいって助けてくれたようだし、虎の考えることはよくわかりません。それでも全身ずぶ濡れのままでいることはできなかったので、湘雲は自分も着替えようと衣を広げてみて気づきました。
「ちょっと、これ!」
「なんだ」
振り向くと、虎は既に下着を身につけ上着も羽織っていました。
「これ、男ものだわ!」
「仕方ないな、いつも俺の分しか頼まないから、女物がわからなかったのだろう」
「どういうこと?」
「これも近くの家から拝借してきたものだからな。無いよりいいだろう、とりあえず着ておいたらどうだ」
偉そうな物言いでしたが、今はこれを着るより仕方ありません。着たことのない男のものの服を四苦八苦しながら身につけました。本では見たことがありましたが、実際着るとなると話は別です。着てみると、どうも小間使いの少年の衣服のようでした。この服の本当の持ち主が他に換えを持っていることを祈るばかりです。
乾いた服を身につけ火にあたると、とりあえず人心地がつきました。虎もすっかり人間と同じに服を着ていました。今度は科挙の受験生のような服装です。冠もしっかりとつけていますが、顔はやはり虎のままでした。
「さっきのあの小さな人はなに?」
湘雲は尋ねました。虎は火を挟んで湘雲の向かいに座っています。
「あれは
「倀?」
「虎に食われた人間は倀になる」
「食われた!?」
湘雲は目を丸くしました。虎はそれを見ると少し面白そうに笑いました。(虎の顔ですが確かに笑っているように見えます。)
「そうよ、俺が食ったのさ。だから倀となって、こうして俺の願いを聞いてくれる」
「へえ、便利なのね」
湘雲は素直に思ったことを言いました。食われたほうはたまったものではありませんが、虎というのは本当に不思議な生き物のようです。そこでおもむろに虎が湘雲を指しました。
「頭に何かついているぞ」
「何か?」
湘雲が頭に手をやってみると、それは小さな紅色の花でした。見たことのない花です。シャジク草だな、と虎が覗き込んで言いました。
「シャジク草?これが?」
湘雲は掌の上の花びらをまじまじと見つめました。そういえば画で見たことがありました。何故かというと、かつての都・啓封にたくさん生えていた花だというからです。啓封出身のさる文人が懐かしんで描いた画が家にありました。花をぐるりと囲む葉が車輪のように見えるので、「車軸草」という名前がついたと父が説明してくれたのを思い出します。
「言われてみれば確かにこの辺りで生えているのを見ないな」
虎がそう言うので、湘雲は不思議に思いました。シャジク草は今の栄では見ることのできない草なのです。女仮と栄は現在、
「あなた、女仮に行ったことがあるの?」
そう聞くと、虎は目を見開きました。
「そんなわけないだろう、あんな野蛮人の土地になど行くものか」
強い口調でとても嘘とも思えません。どうも釈然とせず湘雲は首をひねりました。こんな花が湘雲の頭についていたのも謎です。
そこでふと、北に向かって飛んで行った紫の虎のことが思い浮かびました。
「これ、あの紫の虎が女仮から持ってきたのではないかしら」
「なんだと?」
「紫の虎は北のほうに飛んで行ったわ。もしかしたらあの紫の虎が女仮から来てまた戻って行ったのかもしれないと思ったの。紫の虎の体についていたのが風で飛んで私の頭についたのよ」
「ふうむ、なるほどな。北か…」
虎は顎に手をやり考え込みました。雨が屋根を叩く音は相変わらず強く、時折雨漏りしてきた水滴が炎の上に落ちてじゅわっと音を立てます。ぱちぱちと燃える火が、虎の毛並みにゆらゆらと影を投げかけます。今は座る姿も表情も人間に近しいものを感じますが、広場で紫の虎と対峙したときは言葉も通じない獣のようでした。
「あの紫色の虎もあなたの仲間なの?」
そう尋ねると、虎は湘雲に一瞥をくれました。
「最近都に不思議な虎が出るという噂を聞いて、俺は楽安に向かったのさ。不思議な虎など、俺も俺以外に初めて聞いた。だからちょっと会ってみたらおもしろいかと思ったのだ」
虎の背後でしっぽの先がくるんくるんと揺れています。黄と黒の縞模様です。シマの尻尾に似ています。
「会ってどうしようと思っていたの?」
「さあな。もしかしたら少し話でもできるかと思っていたが。俺と同じように、昔人間だったかもしれないなどと考えてみたのでね」
何でもないことのように虎は言いました。そういえば虎はさっきも元々人間だったと言っていました。そうすると、何かの拍子に虎になってしまった人間だということになります。湘雲は虎をじろじろと見ました。なるほど、もとは人間だったから服を着るし話もできるということでしょうか。しかし人間が獣になってしまうなど聞いたことがありません。
「どうして虎になってしまったの?もとは人間なら名前もあるのでしょう?」
「そんなものは忘れたな」
「本当に?出身がどこかも分からないの?家族は?」
畳み掛ける湘雲に、虎はぶるる、と威嚇するように顔を震わせました。
「うるさいな、忘れたと言っているだろう。あまり言うようならとって食ってしまうぞ」
虎の尻尾がぴしゃりと床を打ちます。湘雲は不本意ながらも口をつぐみました。
「……人間に戻りたいの?」
最後にひとつだけ、と湘雲は聞いてみました。あの紫の虎と会おうとしたのも、もしかしたらそのためなのかもしれないと思ったのです。虎は、湘雲を一瞥して、それから背を向けました。
「さあな、どうだろう」
火がぱしりと音を立てて跳ねました。
雨がやんだのはそれから半刻後のことでした。外に出てみると、雲の隙間から太陽の光が差してきています。湘雲はすっかり崩れてしまった髪をひとつにまとめなおすと、若い男子がするように冠で包んでみました。栄人の男性は、皆頭上でまとめた髪を冠と呼ばれる布で包んで頭のてっぺんごと隠しています。女子は歯を抜くことが大人の印になりますが、男子の場合は冠をつけることが大人の証しになります。冠は歳や職業ごとに様々な色・形がありますが、栄ではどんな貧しい人でも大人で冠をつけていない男性はいません。冠がなく、頭や髪が丸出しになることは、栄の男性にとっては非常に恥ずかしいことなのです。湘雲が手に入れた冠は黒染めの麻布という粗末なものでしたが、着けてみると案外いい感じです。のっそりと外に出てきた虎に、「どう?男の子に見えるかしら」と湘雲は聞いてみました。虎はううん、と唸りました。
「見えなくもないが…」
「いいのではないかしら、私、自分ではそう思うわ」
実際、歯があることをごまかすにも男子の格好は都合のよいものだと湘雲は気づきました。太陽がてりてりと照り付けてきて、雨が降った後の湿った空気を熱し始めます。雲の隙間から青い空が見えて、何かよい幸先のように思えました。
「さあ、行きましょう」
そう湘雲が言うと、虎は怪訝そうに眉(のようなふさふさの毛を!)片方上げました。
「どこにだ」
「女仮よ。女仮を目指すの」
虎は驚いて首を突き出しました。
「女仮?何故だ」
「あの紫の虎が女仮から来たかもしれないからよ。あなた、話してみたいと言っていたではないの」
確かに言ったが…と虎は口ごもりました。戸惑っているようです。その様子が少しおもしろく見えたので湘雲は笑いました。
「お前も行くのか」
「そうすることにしたわ」
虎は文字通り目を丸くして湘雲を見ました。
「だって女仮の女は歯を抜いていないと聞いたわ。私も女仮なら変に思われずに済むかもしれないと思うの」
どうやって女仮に行くつもりだ、と虎は言いましたが、湘雲は無視して前を向いて歩き始めました。とにかく進むしかないのです。都にはもう帰れないのですから。
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