第6話

 三日後の正午、禁城の前の広場は、たくさんの見物人でぎゅうぎゅうでした。赤を基調に青や緑、黄色で様々に彩られた巨大な門は三つの扉全てが閉ざされており、その前に近衛兵が微動だにせずに並んでいます。彼らが持つ旗が薄よどんだ灰色の空に高く掲げられていました。しかし風がまったく無いため無力に垂れ下がっています。空の西側にはより濃い色の雲があり、そのうち一雨きそうな天気です。

 蒸し暑い空気のなかで人々がひしめき合っています。門の正面にひとり黒い包衣を身にまとった役人が現れました。巻物を取り出し、それを高らかに読み上げます。

「申し上げる。この楽安に女仮人が密かに紛れ込んでいるとの通報があった。これはゆゆしき問題である。女仮人の女は帝のおわしますこの楽安において虎を操り、人々を襲うという重罪を犯している卑劣きわまり無い野蛮人である。このたびは、その女を見つけだし適切な罰を与えなければならない!」

人々からざわめきがあがります。続いて、豪奢な輿に乗った青い絹の包衣に身を包んだ年かさの男性が登場しました。背は小さく髪はすっかり灰色になっています。冠には様々な色の玉が飾られ、灰色の髭は美しい形に整えられ、ひとめで高貴な身分の方と知れました。その後にはさらに若い男がやはり輿に乗って現れました。彼もてらてらと輝く青い絹の包衣を着ていますが、顔の半分が布でぐるぐる巻きにされており、出ている半分の顔も紫に腫れあがってひどい有様です。もとの顔がどのようであったかちっともわかりません。左手も同様にぐるぐる巻きで首から布で吊っていました。役人が再び朗々と言います。

「これなるは大栄国の宰相、勤会之きんかいし様とそのご子息である勤禹玉きんうぎょく様である。この禹玉様が、先日虎に襲われかくもお痛わしいお姿となられた!」

広場に集まった人々も、息子の酷い有様には皆驚いていました。ほとんどの人々は実際に襲われた人を見たのは初めてのようです。

 横のほうに並んでいた楽隊が太鼓を大きく何度か叩きました。そうすると、役人に先導され、娘達がぞろぞろと出てきました。午前のうちに出頭した娘達です。皆まだ抜歯していないだけあって幼く、ほとんどが子供と言ってもいいほどです。そのなかで、ただ一人子供ではない湘雲は、非常に目立っていました。できるだけ猫背になって背を低く見せようとしますが、子供の列のなかでは意味がありません。人々は湘雲を見ては何か口口に言い合っています。湘雲が出頭したとき、役人達も大層驚いていました。湘雲を見て、子どもを出頭させに来た親たちは一様に安堵したようでした。これでうちの子は大丈夫、と思ったのでしょう。湘雲はますます不安になりました。どう見ても自分が犯人にされそうで恐ろしくて仕方ありません。そもそもこんなにたくさんの人たちにも歯を抜いていない姿を見られて恥ずかしくて仕方ないといのもあります。どうにか何事も無く早く終わるよう湘雲は願うしかありません。

 一列に広場に並ばされ、役人がまた口を開こうとしたときでした。その女だ!と輿に座ったままだった息子のほうが叫びました。目を伏せていた湘雲でしたが、はっと顔を上げて声の方を見ました。その男はわなわなと震えながら湘雲を指さしていました。怪我のせいで表情がわかりませんが、全身から怒りがほとばしっているのがわかります。「その女を殺せ!」と息子は絶叫しました。広場に混乱の声が満ちます。

 湘雲は驚いて目を見開くばかりでしたが、すぐに兵士二人が走ってきて湘雲の腕をとり後ろ手に縛り付けました。湘雲は我に返り必死に身をよじりましたがどうにもなりません。

「違います!私は女仮人なんかじゃありません!父は史珊、母は謝宣しゃせんめいの娘です!れっきとした栄人です!」

湘雲の叫びに、息子は半狂乱になって輿から立ち上がりました。よく見ると足も怪我をしているようでよろめきます。すぐにおつきの者が彼を支えました。

「こいつが俺を誘惑して、さらに虎に襲わせたんだ!夏至節の午後のことだ!これがその証拠だ!」

息子は動かせる右手を、高く掲げました。何かを握っています。それは、玉の簪でした。

(あれは…!)

湘雲は言葉を失いました。それは、なくした母の形見の簪でした。そこで湘雲は、あの息子が自分を襲ってきた若い男であったことに思い至りました。盗賊などではなく、よりによって宰相の息子だったなんて!あのとき紫色の獣に噛まれて今のとおり大怪我をしたようですが死にはしなかったのです。

(どうしよう…!)

全身の血がさあっと音を立てて引いていくのを湘雲は感じました。息子は暴れながら「殺せ!」とわめき続けていました。

「違います!私は違うんです!先に襲ってきたのはあなたのほうでしょう!」

湘雲も負けじと叫ぶと、さらに観衆はどよめきました。

「やはりあの女が息子殿を襲ったんだな」

「恐ろしい、もしかしたら本物の栄人の娘に成り代わっているのかも…」

「女仮人だ!」

人々が恐ろしげに言うのが聞こえてきました。湘雲は喉が切れるばかりに叫びました。

「違う!違います!私は悪くない!」

暴れる息子をおつきの者達が押さえつけようとするなかで、宰相殿が従者に何事か申しつけました。従者はすぐに役人のもとに走ります。

「ひったてい!」

役人が手を挙げて合図しました。兵士が湘雲を引きずっていきます。

「違う!私は違うわ!やめて!」

湘雲はできる限り暴れましたが手を縛られていてはどうしようもありません。広場は大変な騒ぎになりました。小石を投げつけてくる観衆もいます。湘雲は天を仰ぎ金切り声をあげました。

「私は違うの!」

 そのときでした。急に広場に一陣の風が吹きました。どお、となだれ込んで来た強い風に皆が顔をかばいます。

「何だあれは?」

誰かが空を指しました。皆がそちらを見ます。そこには、紫色のもやもやとした霧のようなものが漂っていました。

(あれは…!)

湘雲がそれを見つめるうちに、霧は急速に中心に集まって色を濃くしました。真ん中に二つの光る目のようなものが現れます。兵士達も驚きのうちに動けずにいます。次の瞬間、その紫のものはぎゅっと一つに固まるとものすごい速さで宰相の息子めがけて飛びつきました。広場の人々が悲鳴をあげます。姿を現したのは、紫色の巨大な獣でした。目は爛々と輝き、耳は短く、長い尾がゆらゆらと揺れています。口には息子を咥えていました。息子は暴れていますが、どうにもなりませんでした。

「虎だ!虎が出たぞ!」

広場は阿鼻叫喚の騒ぎとなりました。もともとぎゅうぎゅうに人がいたのを皆が好き勝手に逃げようとするので、倒れて踏まれたりする人もいて地獄のような有様です。役人はなんとか兵士に指示を出そうとしますが、兵士にも逃げ出す者がいてどうにもなりません。

門の前に立っていた紫の虎は咥えていた息子を空に放り投げると、ぐわあ、と吼えました。地の底から震えるような低く恐ろしい咆哮に、湘雲もへたりこみます。湘雲を連れて行こうとしていた兵士はとっくに逃げてしまっていました。べしゃ、と息子が地面に落ちましたが、誰もそれを見ていません。そして紫の虎は、顔を湘雲に向けました。その光る目が、湘雲を見つめているように感じます。

(な、何故なの…!?)

湘雲は全身がガタガタ震えて立ち上がることもできません。紫の虎は、少しだけ湘雲に首を伸ばすようなしぐさをしました。必死に、湘雲は口を開きました。

「ち、違う!私は女仮人ではないわ!違うの!」

すると、また突風が吹きました。思わず目を瞑った湘雲が次に見たのは、自分の傍らに立つ黄色と黒の縞模様の虎でした。ぐるる、と喉を鳴らし、紫の虎を睨みます。また虎だ!と人々は大混乱に陥りました。ついに役人も逃げ出します。湘雲は口をあんぐりと開けてそれを見ました。服など全く身に着けていませんが、全身を覆うふさふさとしたこの毛色には覚えがあります。

「あなた、もしかして、この前の…?」

虎は瞳だけをちらりと動かして湘雲を見ると、うおお、と紫の虎に向かって吼え、紫の虎に向かってだっと走り出しました。紫の虎もそれに応じて向かってきます。二頭が組み合ったかと思った瞬間、紫の虎は急激に獣の形を失いました。再び紫の靄に戻った獣は、宙に浮かび上がると、北に向かって飛び立ちました。

「ちょっと、あれはあなたの仲間なの?一体何なの?どうして人を襲うの?」

湘雲は虎に向かって叫びました。今はもう、恐ろしいというよりも何がなんだか分からない気持ちで逆に怒りが湧いてきていました。

「応えなさいよ!話せるんでしょう!」

虎は湘雲の横にのしのしと戻って来ました。しかし今度は夏至節のときと様子が違いました。そこにいるのはただの獣で、きゅっと細い瞳には何も映っていません。もしかして、言葉が通じないのでしょうか。急に恐ろしくなって湘雲が後ずさったときでした。

 突然石が投げつけられ、湘雲の肩を打ちました。痛みに驚いて振り向くと、一部始終を見ていた人々がものすごい形相で怒号を上げていました。

「やっぱりあの女が女仮人なんだ!」

「殺せ!」

湘雲は今度こそ震え上がりました。このままここにいたら間違いなく命が無くなります。そのとき、急に虎の瞳に光が宿りました。

「乗れ!」

「え?」

「いいから乗れ!」

湘雲はやけくそで虎の背中に飛び乗りました。こうなったらどっちに着こうと死ぬことになりそうです。だったらここで群集に嬲り殺されるよりは虎に噛まれて死んだほうがましかもしれません。

「落ちたら死ぬぞ」

問い返す暇もありませんでした。言うが早いか、虎はものすごい勢いで群集に向かって走り始めました。錯乱する群集を、虎は高く飛び越えました。そのまま建物の屋根に飛び移ります。

「落ちたら置いていくからな」

「わざわざ言わないで!」

虎に湘雲は怒鳴り返しました。虎がものすごい勢いで走るのでそうしないと話せなかったからです。そのままの勢いで、虎はいくつもの屋根の上を駆け抜けました。湘雲はしがみついているだけで精一杯です。やがて虎はひときわ大きく跳躍しました。動きが止まり、湘雲が恐る恐る目を開けると、そこには都を一望する景色が広がっていました。楽安を囲む巨大な城壁の上に虎と湘雲はいたのです。湘雲は生まれたときから都の中で暮らして来ましたが、こうやって都を見渡すのは初めてでした。黒や灰色の甍が幾重にも重なり、寺院の塔がその甍の上に突き出ていました。先ほど自分たちがいたはずの広場は見えませんでしたが、巨大な門と輝く黄色の甍の重なりが、そこが禁城であることを知らせました。

「とにかく兵が来る前に逃げるぞ」

虎は言いました。湘雲は頷きました。もう都には帰ってこられないかもしれません。しかし、不思議なほどに気持ちは清々としていました。虎は城壁を飛び降りました。都から締め出されて城壁の外でたむろしていた人々や兵士達が驚いて叫びます。虎は、それらを時に蹴散らしながら、再びすさまじい速さで走り出しました。

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