第二章 湘雲、都を飛び出す
第5話
「あなた、虎なの」
唖然とする湘雲を、虎は面白そうに――もっとも、虎の顔であるので人間のような表情をするわけではありませんが――見下ろしました。
「虎さ、間違いなくな」
「虎というのは言葉を話すの」
「そんなわけないだろう。虎はただの獣だ」
「でもあなた私と話してるではないの!」
湘雲が大声で言うと、虎はまた笑い出しました。湘雲はもう何がなにやらちっともわかりません。
「笑うことないでしょう、ちゃんと答えなさいよ」
本当に頭にきて怒鳴ると、虎は「ぐるる」と喉を鳴らすような音を出しました。顎に手をやって湘雲を見つめます。手も、やはりふさふさとしていて、先は丸くなっていて指は見えません。猫の足を太くしたようだと湘雲は思いました。そうだな、と虎は独り言のように言いました。
「間違いなく虎だが、虎より哀れなものかもしれない」
言葉の意味がわからず湘雲は首をかしげました。
どういうこと、と言いかけたそのとき、背後がふいに騒がしくなりました。振り返ると、半里もいかない先に人が群がって来ています。男が紫の獣に襲われていた辺りです。誰かがこちらを指さしているようにも見えます。
「まずいな、人が来た」
虎が低い声で言いました。
「逃げるぞ」
「え?」
またしても虎は湘雲を抱えあげました。あっという間にものすごい勢いで風景が後ろに遠ざかっていきます。速すぎてめまいがするほどです。湘雲は思わず目をつぶってしまいました。やっと足が堅い地面につくの感じて目を開けると、見知らぬ路地にいました。細くて暗い路地です。きょろきょろとあたりを見回すと、続いている道の先に、人通りが見えました。ざわざわとした喧騒も微かに聞こえます。
「とりあえず逃げたが、面倒なことになるかもしれない」
そう言われて湘雲は虎を振り返りました。
「面倒なこと?」
「姿を見られた。都を出なければならないかもしれない」
虎はそう言う割に悠長にふさふさの手で髭を撫でています。初めてあの姿を見ることはできたな、などとぶつぶつとひとりごちる虎を見ていた湘雲でしたが、突然、珍花が言っていた話を思い出しました。最近都に虎が出て人を殺す。さあ、と自分の血の気が引く音が聞こえました。まさに今目の前に自らを虎と名乗るものがいて、さっき湘雲を襲った男は吹っ飛ばされたのです。よくよく見れば虎の口はまさに獣のもので、その奥には牙が見えました。犬よりも大きく、人間などひと噛みで殺せそうです。湘雲は、少しずつじりじりと後ずさりました。虎はまだ何かをつぶやきながら考え込んでいます。湘雲は勢いよく振り向き、だっと走り出しました。おい、と背後から虎が呼びかける声が聞こえますが、振り向きません。
「おい、言っているだろう、面倒なことになるぞ」
心なしか心配そうな口調でしたが、湘雲はそのまま走り続けました。面倒なことになら既になっています。あれほど速く走れるのだから追いつかれるのなら一瞬だろうと恐れていましたが、虎はやってきませんでした。
大通りに出ると、途端に視界が開けて空が見えました。まだ明るく、その下に人がひしめきあっています。笑い声がさざめき、息を切らして小道から現れた湘雲のことは誰も見ていません。まるで自分だけがこの世界から浮いているようだと湘雲は思いました。
(とにかく、まずは家に帰らないと…)
向こうで、わあ、と声があがり、見ると巨大な山車がゆっくりとやってくるのが見えました。山車は三階建ての建物よりもまだ大きく、全体に提げられた数え切れないほどの提灯が揺れています。夜になれば提灯に火が灯り、山車が行き交う街全体が不思議な明るさに包まれることでしょう。山車の上に乗った着飾った少年達が笛や太鼓で音楽を奏ではじめました。行列が始まるのです。大歓声が起こり、山車についていく人波で全く身動きが取れなくなりました。あっという間に、湘雲は後ろを振り返る間もなく、もみくちゃにされながらそのまま流されていきました。
湘雲が家に帰り着いたのは結局日が暮れてからでした。途中で自分がどこにいるのかわからなくなりすっかり迷ってしまったからです。ふらふらになりながら玄関にようやく辿りついたとき、既に帰宅して家の二階から祭りの景色を見物していた孟氏や李氏達は湘雲を見てびっくりしました。
「あなた、どこに行っていたの?髪もぐしゃぐしゃではないの」
驚き呆れて孟氏が尋ねましたが、湘雲はそれに応える元気すらありませんでした。頭に手をやると確かになにやらひどい状態のようです。しかしそれももうどうでもよいことでした。とにかく今必要なのは、横になることです。
「ちょっとお祭りを見に行ったら迷ってしまって…疲れたの、もう寝るわ」
言って湘雲は大あくびをしました。そのまま足取り重く寝室に消える湘雲を、皆は奇異の目で見送りました。
湘雲は祭りの次の日は死んだように眠りこけており、夕方になってやっと起き出しました。祭りはすっかり終わり、使用人達も家族も皆いつもどおりの生活をしています。夕飯の蓮根と鶏肉の汁物を啜っていると、全てが夢だったような気がしてきます。王家の様子を見に行ったことも、襲われかけたことも、不思議な紫色の獣を目撃したことも、喋る虎に出会ったことも、恐ろしく不思議なことばかりで現実ではなかったように思えてくるのです。しかし、髪に挿していた簪の一本をなくしてしまっていました。母の形見の簪です。きっと騒動の間に落としてしまったのでしょう。そうすると、やはり昨日のことは本当だったのだということになります。食事の間も、孟氏が抜歯式の打合せのために部屋にやってきても、ずっとぼんやりと外を見てばかりいる湘雲を、家族も使用人も何か変な病気にかかったのではないかと疑いました。医者を呼ぼうと李氏は言いましたが、医者を呼んだことが嫁入り前に噂になってはよくない、と孟氏が止めました。そんなやりとりにも湘雲は全く気づきませんでした。あまりにもたくさんのことが起こりすぎて、考えることがやまほどあったからです。虎に出会ったことは一番の衝撃でしたが、王家の主人がものすごく年上で暴力を振るう人間であるらしいということも湘雲にとってはおおごとでした。なにせ結婚相手となる人です。孟氏や珍伯父はその王家の主人がどんな人であるかは湘雲には話していませんでした。直接聞いてみたい気持ちも起こりますが、珍花が言っていたことがひっかかります。本当に、伯父達は湘雲を騙して売り飛ばすような方法で厄介払いしようとしているのでしょうか。たとえそうでなくとも、自分で王家の様子をこっそり見に行ったと知れたら、二人は気分を悪くするでしょう。
(結婚したら、私やっていけるかしら…)
目下一番気になるのはこのことでした。これまで父親のもとで好きなように暮らしてきた湘雲に、あの主人の元で他の妻たちと一緒に家政を取り仕切るようなことが果たしてできるのでしょうか。正直言って全く自信がありませんでした。それに惜春のように家庭を華やかにするような女らしさも持ち合わせていません。珍花のような心のうちをあかせる侍女もおらず、湘雲はひとりで考えるほかありませんでした。
事件が起こったのは夏至節も終わって三日目の昼下がりのことでした。突然下男の一人が慌てふためいて家の中に走りこんで来ました。
「大変だ、大変だ、旦那様大変です」
若い下男の顔は真っ赤で、拳を握り締めて大声でわめき散らします。あまりの騒ぎぶりに珍伯父だけでなく孟氏や李氏も出てきました。その他の召使達も皆持ち場を離れて集まってきます。湘雲も、何事かと端っこから顔を出しました。下男は大変だとまくし立てるばかりで要領を得ません。
「旦那様、大変ですよこれは」
「だから、何が大変だというだ。しっかり話せ」
珍伯父は下男を宥め、水を持ってくるよう言いました。下男は侍女が持ってきた水を一杯勢いよく飲み干し、深く息を吐いてやっと話し始めました。
「また虎が出たらしいです、旦那様」
虎、という言葉に皆がざわつきました。湘雲もどきりとしました。先日のことが思い出されます。あのとき会った虎が、また人を襲ったのでしょうか。
「朝広場に高札が立ったというので見に行ってきたんですよ。そうしたら、なんと宰相様のご子息殿が虎に襲われたというんです」
「ほう、宰相様の、それは大変なことだな」
「襲われたのは夏至節の日だそうですよ」
湘雲の心臓はさらに早鐘をうったようにどくどくと鳴り始めました。夏至節の日、自分を襲ってきた男のことが脳裏に浮かびます。それから現れた紫色の不思議な獣──体がぶるりと震えました。
「幸いなことにご子息は一命を取り留めたそうなんですがね。…そんなことより大事なのは、その虎を連れていた女がいたってことなんです。その女がご子息を誘惑して、そして虎に襲わせたっていうんです!」
「ほう、女か…それは新しい情報だな」
珍伯父は顎をさすりながらいかにも深刻なように言ってみせます。しかも、と下男は声を落としました。
「見た目は普通の女と変わりないそうですが、ひとつ明らかにおかしいところがあったそうで、その女はなんと歯が全部揃っているそうなんですよ…年頃なのにも関わらず、しっかりとね!」
ざわ、と空気が揺れました。皆、きょろきょろと目を泳がせます。侍女のひとりが湘雲を見とめると、やがて全員の視線が注がれました。誰も何も言いませんが、皆の言いたいことは嫌と言うほど伝わってきます。湘雲は居心地が悪く肩を縮めました。指先が冷たくなります。
「じょ、女仮人が栄人のふりをして忍び込んでいるのよ」
恐る恐る、孟氏が言いました。声は不安そうに揺れています。そうよ、と李氏が後をうけて言いました。
「歯があるなんて、ますます怪しいわ。その女は女仮人なのよ。だから虎を操って人を襲わせているんだわ」
使用人達は二人の言うことにさらにざわつきました。少しほっとした湘雲でしたが、そのとき、そういえば、と誰かが言いました。口を開いたのは孟氏付きの筆頭侍女でした。
「湘雲お嬢さまは夏至節のとき、ひとりでお出かけになっておられましたわね」
孟氏と李氏もはっとして湘雲を見ました。二人の近くに座っていた惜春はずっとただ皆の話を聞いていただけでしたが、おもむろに峻厳とした表情できっぱりと言いました。
「あの日、お姉さまは私たちよりも遅くお帰りでしたわ」
部屋は静まり返りました。湘雲は慌てて言い返しました。
「確かにひとりで出かけたけれど、それは行列を見に行ったからよ」
「どうして孟氏達と一緒に行かなかったのだ?」
珍伯父が少し問い詰めるように尋ねました。いつも気のいい珍伯父にしては鋭い目つきです。湘雲は怯みましたが、結婚相手の家を見に行ったと言うのはそれでもやはり憚られました。
「ちょっと、疲れていたので、ひとりで見たかったんです」
「本当に?」
「本当です!」
湘雲は必死に珍伯父を見ました。惜春はそれ以上何も言いませんでした。少し強張った表情でどこか遠くを見つめており湘雲のことは一度も見ません。侍女たちがひそひそと話をしています。
「確かに湘雲お嬢様、お帰りになったとき随分服もお髪も乱れておいででしたわね」
そう話すのが聞こえ、湘雲は思わず叫びました。
「それは人が多すぎて押されたりしたからよ!」
これは本当のことでした。気の弱い李氏などはすっかり顔を真っ青にしています。さらにざわめきの大きくなる室内で、孟氏が使用人たちに一喝しました。
「ああもう、湘雲が虎を操ったなんてそんなわけないでしょう!皆、持ち場に戻りなさい!」
早く!と孟氏が急かしたので、使用人たちは蜂の子を散らしたように部屋から出ていきました。それから孟氏は惜春にも険しい顔を向けました。
「惜春、年上にその言い方はなんですか」
惜春は少し眉をひそめましたが、すぐふいと顔をそむけ、部屋を出ていってしまいました。孟氏の攻撃は珍伯父にも向かいました。
「あなたもあなたですよ、まったくもう」
孟氏は大きく溜息をつきました。それから薄い絹の裾を翻し部屋から出ていきました。李氏も慌てて彼女を追います。部屋に残されたのは珍伯父と湘雲だけでした。うつむいている湘雲に、珍伯父は困った顔で言いました。
「とにかく抜歯式をすぐにでもやってしまおう、そうすればよいだろう」
伯父はそう言って湘雲の方を叩きました。
「結婚前の娘なのだから、出歩きには気をつけなさい。世間は火のないところにも煙をたたせるものだ」
そう言って部屋を出て行く伯父に、湘雲はたよりなく「はい」と応えることしかできませんでした。
しかし翌日にはさらにとんでもないことが起こりました。広場にまた高札が立ち、それによると、宰相様の命令で、都中の十歳以上でまだ抜歯式をしていない娘は三日後巳の刻に広場に集まるように、というのです。娘を隠したものは問答無用で家財没収、今日以降歯を抜いても一族鞭打ちという恐ろしい罰則つきでした。さらに正午からは、広場で衆人環視のなか、その娘たちのなかから宰相殿の息子を虎に襲わせた犯人を見つけ出すというのです。
史家は大騒ぎになりました。
「今までいくら虎が出てもわざわざこんな命令が出たりしなかったのに、一体どうして…」
李氏は不安に足下をふらつかせながら孟氏にすがっています。孟氏は李氏の背中を撫でながらしっかりしなさい、と呆れたように言いました。
「何も心配することがあるはずがありませんよ。とにかく命令通り湘雲を行かせましょう。大丈夫ですよ、歯のある娘はたくさんいるし、湘雲が虎と一緒にいた女なんてあるはずないんですから」
「けれど…」
李氏はそれでも泣きそうです。家に何かあったらと思うと不安でならないのでしょう。そばで珍伯父はへらりと眉を下げ二人に笑って見せました。
「とにかく命令通り湘雲を行かせよう。なに、何もなく終わるに決まっているよ」
湘雲はそんな三人を青ざめた顔で見ていました。珍伯父が湘雲に向き直ります。
「とにかくお前は明日広場へ行きなさい。隠れたりしては余計な疑いがかかってしまうからね」
普段からおおらかな珍伯父ですが、今回はその性格が見通しの甘さにつながっているようです。孟氏は難しい顔を珍伯父に向けました。
「何もなくとも、王家から嫁入りを断られてしまうかもしれないわ」
「別に本当に罪に問われるわけではないじゃないか。ただ単に呼ばれるだけだから大丈夫だろう」
「どうでしょうね。それくらい王家の方々もお心広いならよいですが」
湘雲は不安でした。確かに、自分が虎と一緒にいたのは事実だからです。もし誰かに見られたりしていたら…。珍伯父はそんな湘雲の気持ちには全く気づかず、ああ、と嘆息しました。
「全く、そもそもお前の父親の珊がちゃんとした奴であればこんなことにはならなかったはずだ。珊がきちんとお前の歯を抜いていれば…本当に、死んでからも迷惑な奴め」
湘雲は何も言えませんでした。
その日の午後からは、都中をお上の命を掲げた兵士たちが巡回して、全ての家々に該当の娘がいるならば出頭するよう通達してまわりました。三日の間に戸籍も全て調べなおすのだそうです。都の全ての門も閉じられ出入りが禁止されました。家内の人々は湘雲を見てはひそひそと何か言い合うばかりで直接は何も言ってきません。孟氏も李氏もです。惜春などは湘雲を見ると露骨に睨みつけてきます。湘雲は全く気が休まりませんでした。自分が虎を操ったりましてや女仮人であるはずはありませんが、虎と一緒にいたことは事実です。明日万が一何か罪に問われたらどうしたらいいのでしょうか。この家の人たちですら少し湘雲を怪しんでいるというのに、もし役人に問いつめられたりしたら話をきちんと聞いてもらえるのでしょうか。幼い春梅だけが、湘雲のもとにやってきて不安そうな顔で湘雲を見上げて言いました。
「お姉さま、惜春お姉さまがね、明日お姉さまは帰ってこないかもしれないと言うの。どうして?」
湘雲はこれには少し腹が立ちました。惜春と来たら、もう湘雲がなにがしかの罪にとわれると思っているのです。あの子ったらどうして私のことがそんなに気に食わないのかしら、と湘雲は思いました。春梅は不思議そうに湘雲を見つめています。湘雲はかがんで春梅と目をあわせ、言いました。
「私にもよくわからないわ。私もよくわからないのよ…」
湘雲の脳裏にはあのとき出会った虎が浮かんでいました。やはりあの虎が、これまでも、そして宰相様のご子息も襲ったのでしょうか。獣なのに何故話ができるのかも不思議です。そもそも、と湘雲は考えました。あのとき、湘雲は若い男に襲われかけたのでした。身なりも悪くないように見えましたが、盗賊か何かだったのかもしれません。虎に会ったこと自体の衝撃でそちらのことはあまり考える暇がありませんでしたが、思えばそれだって十分恐ろしいことでした。あのとき虎が出てこなければ今頃一体どうなっていたことでしょう。殺されていたかもしれません。そうすると、もしかするとあの虎は湘雲を助けてくれたようにも思えてきました。
(でも…)
しかし、やはり恐ろしい虎であるには違いありません。それに、あのときよくわからない紫色の雲のようなものが出てきたことも湘雲は思い出しました。あれもあの虎が起こした呪術のようなものかもしれません。湘雲が考え込んでいると、春梅は湘雲の頭をぽんぽんと撫でました。
「元気をだして、お姉さま」
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