1-5. 赤い川

 アオイが降り立ったのは、参地区にある大きな川のほとり。参地区は赤土で出来上がった街だ。草木が少なく、空気を吸えばやや埃っぽさを覚える。


 流れる川は、土と同じように赤い。それが夕日のせいで、燃えるように眩しく輝いていた。最近は雨が少ないせいか、川の流れは静かだ。音もなく流れる赤い川。


 その手前で、住民たちは黙りこくっている。

 ある者は手を合わせ、ある者はじっと空を眺め、またある者は炎をにらみつけるように立ち尽くしている。


 不意に、こちらに視線を向けた住民が声を上げた。グレーの短い髪を逆立てた、背の高い男だった。


「おい、アオイか?」

「イェルハルド、お邪魔するよ」

「どうしたンだよ、てめェ?」


 参地区独特の抑揚を付けた話し方に、私は幾分当惑した。しかし、アオイは何ら気にしていないらしい。普段通り返答する。


「空から見てたら、煙が上がってるのが見えたんでね。誰かのお葬式だろう?」

「アア、そうさ。麦ンところのじいさんだ」


 その言葉を聞くまで、私はこの川のほとりが火葬場であることに気付かなかった。


 私が見たことのある壱地区の火葬場は、柩ごと遺体を大きな炉に入れる施設だ。こんな外気に当たる場所でもないし、ましてや、燃える火が見えることもない。

 壱地区の火葬場の場合、建物の外に出た時に見える煙突から、静かに白い煙が上るのを見て初めて、故人は正方形の裏側に旅立ったとわかる。


 目の前の光景に、私は何も言えなかった。

 確かに、他の地区の葬式に出ることはない。けれど、あまりにも違いすぎた。人の死が、こんなにそばにあるなんて。



「アオイぃ、そこの姉チャンはなんだァ?」


 住民の声で、意識が引き戻された。その時にはもう、目の前に見知らぬ住民の顔が見えて、瞳の紋が見えて、思わず後ろに体が退いた。

 それは、住民も同じだったらしい。私の瞳の紋を見た瞬間、泥が煮えくり返るような苦々しい顔をした。


「オイ! この姉チャン壱地区じゃねえか! 最悪だな!」


 その言葉をきっかけに、ついさっきまで人の死を悼んでいた住民たちが、殺気立った瞳をこちらに向けた。

 参地区の住民の瞳の紋を近くで見たのは初めてだ。薄暗くてもわかる。麦や豆などそれぞれ違うが、その全部が私をにらみつけて、視線だけで首を絞めようとするのがわかる。


 私と住民たちの間にアオイがさりげなく入り込むと、彼らは口々に声を上げた。


「アオイ聞いてくれよォ! 麦のじいさん、壱の奴らに散々働かされて、怪我したからって放り出されてンだよ!」

「誰も怪我の手当てなんかしねェでよォ! 道端に放置だ、ひどすぎだろォが」

「俺たちは肆じゃねえ、参だぞ? ひでェ扱いじゃねェか?」

「ハッ! どうせ壱から見りゃあ参も肆も同じだって、姉チャンが言いたそうだゼ?」

「てめェらの紋なんざ、消えちまえばいいんだ!」


 突然向けられた言葉の鋭さに、私の足はすくんだ。


 動かない。体中が軋む。

 違う、そんなこと思ってない。

 言葉が頭の中を駆け巡るのに、ちっとも声にならない。


 喉が内側からしまって、どれだけ息を吸っても苦しい。

 心臓が嫌な音を立てるせいで、こめかみが痛い。


 もし彼らが言う『麦のじいさん』に適した体があったとしたら。きっと魂の引っ越しをして、彼は生き延びることが出来ただろう。

 しかし、実際には誰もそんな手助けをしなかった。


 体は壱や弐地区の医者が持っていることがほとんどだ。

 だから、参や肆地区の住民が魂の引っ越し手術をするのは難しい。本当に体が必要な人には、体が行き渡らない。


 私に浴びせられる非難の声の渦に、アオイは自ら埋もれていった。アオイの元に言葉をぶつける住民たちに手を差し伸べると、長い腕で抱えきれるだけ全員を抱きしめて、じっと動かない。

 住民たちは、アオイの腕の中で目を丸くした。

 声がアオイの中に飲み込まれるように消えて、火が燃える小さな音がやけに耳に残る頃、アオイの声がした。


「……わたしは悲しいんだ。誰かが死んでしまったことが。だから話を聞かせてよ。じいさんがどんな人で、何が好きだったのか。じいさんは無念だったと思う。でもさ、じいさんをひどい目に合わせた反吐みたいな人間に、君たちにもなってほしいと思ってるのかい? 多分、思ってないんじゃあないかな。君たちが非難すべきは、壱地区じゃあない。じいさんを無駄死にさせた貴族のことだ。恨みの矛先を間違えて、体力と頭の無駄遣いをしちゃあいけないよ。その貴族をどうしたら罰せられる? 証拠を探すんだ。じいさんがこき使われた事実、道端に放置された事実をね。そうしたら、後は教会を頼ってほしい。わたしはもう動けないけど、誰かが動いてくれる。……だから、じいさんの話を聞かせて。君たちと一緒に、わたしもじいさんを送り出したいんだ」


 静まり返った火葬場からアオイの声が消えた時、住民の一人がしゃくりあげるように泣き出した。それにつられるように、薄暗い中で泣き声が、また一つ、また一つと増えていく。

 言葉にならない言葉を聞いて、アオイは何度もうなづいていた。住民の頭を撫で、相槌を打ってまたうなづく。


「そっか……。愉快なじいさんだったんだね。わたしも一緒に魚釣りしたかったなあ」

「アオイよォ、正方形の裏側には、川なんてあるのかァ? 死んでも、釣り出来るのかァ? じいさん、暇すぎて死んじまうよォ」

「わたしは行ったことがないからわからないけど、正方形の裏側に行ったなら、暇すぎても死ぬことはないんじゃあないかな。もう死んでしまったんだし」

「ハハ、それもそうだなァ、チクショウ……」


 ひとしきり泣いた住民たちは、少しずつ顔を上げて恥ずかしそうに笑い合った。

 そうしてまたアオイの腕の中から離れると、一人がこちらを気まずそうに見る。先程アオイが、イェルハルドと呼んだ青年だ。

 凍り付きそうな私の背中が、次の言葉で元に戻った。


「おい、てめェ。すまなかったな。いつものクセが出ちまった」

「あ……、いいえ……。こちらこそ、お邪魔してすみませんでした……」


「エミリア! そんなところいないで、一緒にじいさんのためにお祈りしないかい? 魚と酒が好きなじいさんだったそうだよ!」


 アオイの声がして、私の足は自然と動いた。住民たちの顔が見える頃には、アオイが小さな声で賛美歌を歌っているのが聞こえた。それに導かれるように、住民たちも歌を歌う。

 気づけば私も歌っていた。

 顔も知らない一人の住民のために、ただ彼の死を悼んで歌を歌った。恥ずかしながら、こんなことは生まれて初めてのことだった。



 歌が終わった頃、アオイは住民たちに明るい声で言った。


「この子は、エミリアって言うんだ。新聞記者で、記録本を作ってるところ。わたしの取材中なんだよ」


 私が頭を下げると、住民たちは瞳の紋が飛び出しそうな顔でこちらを眺めてから、お互い顔を見合わせた。

 きっと、壱地区の住民に頭を下げられたことがなかったのだろう。何が起きたのかわからないといった顔つきだった。


 しばらく何も言わないものだから、アオイはこちらに困ったような笑い顔を見せた。


「ねえ、今日の話も本に入れておいてくれないかい? じいさんのことを残しておきたいんだ」

「はい、私もそう思います。司教様」


 すると、住民たちは沸き立った。どうやら、会話の内容と言うよりも、私がアオイを呼んだ言葉に反応したらしい。


「アオイお前、本当に司教様になったんだなァ!」

「信じられねェと思ってたけど、もう一年経ったってことか?」

「姉チャン、こいつのバカみてェな話ならいくらでもしてやれるぞ?」


 これが普段の彼らの雰囲気なのだろう。へらへらと愉快そうに会話し、時々アオイのことをからかって笑う。

 アオイも、その雰囲気になじんでいる。まるで、元の生まれがこの地区のように。




 「怖い思いをさせて悪かったね」


 アオイは参地区をバイクで走りながら、私に言った。そんなことはないと首を横に振ったけれど、アオイは「気が済まないから」と苦笑いを浮かべていた。

 そうして、路上のアイスキャンデー屋の前でバイクを停める。


 こういった路上の店舗は、クアドラートの至る所で見られる。それは、参地区でも同じことのようだ。

 アオイと店主は顔馴染みらしい。赤いアイスキャンデーを眺めながら、アオイは聞いた。


「今日のおすすめは?」

「食いしん坊の名前」

「それはもう食べたからいいや。じゃあ、これ二本」

「六グラフィカ」

「はいよ」

「毎度どうも」


 アオイは受け取った一本を口に咥えてから、もう一本を私に差し出してまたバイクを走らせる。夜の街で、のんびりとバイクに乗りながら食べるアイスキャンデーは格別だ。

 ましてや、私を乗せて走るのは司教のアオイ。こんなことが起きるなんて、少し前の私は夢にも思っていなかった。


「美味しい……」

「そうかい? そりゃあよかった」

「あの! 司教様がご馳走してくださったからだと思います!」

「好きな人と食べるものって、一人ぼっちで食べるよりも美味しいって言うよね。だから君は、わたしのことが好きなんじゃあないかな」

「えっ?」

「あはは。冗談さ」

「驚かさないでください、瞳の紋が飛び出ちゃうかと思いました」

「そんなに? 大袈裟だなあ」


 顔にたまった熱を冷やすように、私は赤いアイスキャンデーを食べた。心なしか、溶けるのが早く感じる。

 急いで口にアイスキャンデーを押し込めば、頭の奥がきいんと痛んだ。



 アイスキャンデーを食べ終わる頃に、バイクはまた空へと舞い上がった。地上がまた、遠ざかる。


「そう言えば、価値観の話だったね」


 空の上で、アオイが言った。随分前に出した話題だったような気がするけれど、まるでついさっきまで話していたことのように、アオイは続ける。


「さっきの『麦のじいさん』の件はとてもわかりやすかった。参地区の価値観が良く出てるよ。彼らにとって、壱や弐は自分たちを搾取する側。だからどうしても警戒する。反対に、零地区みたいな上でも下でもない存在は、参や肆地区の住民にとって救いになるんだ。だから、わたしが近寄れば答えてくれる。まあ、どんな反応を示すかは人それぞれだけど、大元をたどれば理由は一緒さ。それに、彼らは結局のところ思ってるみたいだね。肆地区は最下層だから、酷い目に合っても仕方がないってね。とても残念だよ。自分を産んだ誰かがどこの住民かなんて誰も知らないし、そもそも、元はみーんな、同じ分娩室で生まれた赤ん坊なのにさ」


「……そんなこと、考えてみたこともありませんでした」

「そうだろう? だからね、この景色をもっと色んな地区の人が見られればいいのにって思うことがあるんだ」


 そう言われて、私は改めてクアドラートの街に視線を落とした。夜でも、明かりが灯る街の景色は良くわかる。


 はっきりと地区ごとを分ける道、真ん中にそびえるはちみつ色の教会。国旗の通りに割り振られた階級、そしてその色。


「神様はただ、綺麗だから街に色を塗ったんだと思うんだ。素敵だから私たちの瞳に紋を浮かべたと思うんだ。そこに意味を張り付けたのはいつかの住民だ。神様じゃあない。人間の淀みが消えれば階級も消えるなんて、そんなのきっと神様の知ったことじゃあないと思うんだよね。階級を消せるかどうかは、神様の意思じゃなくって住民の意思の問題だ」


 はっきりと言い切った彼の言葉には、何の迷いもなかった。

 しかし、その内容の危うさに私はしばらく喉が詰まってしまった。理由は簡単だ。


「で、ですが司教様。それは教会の教えに反した……」

「紋なき騎士団の考え方みたいだ、と言いたいのかな?」

「……恐れながらも、そう思ってしまいました」

「うん。わたしもそう思うよ」


 あはは、と笑った後で、アオイは続けた。まるで照れ隠しのようだった。


「彼らが正々堂々と目の前に現れて、誰も傷つけずに考えを話してくれたなら、わたしは彼らの味方になっていたかもしれないね」

「とおっしゃると、やはり司教様は、紋なき騎士団ではないんですね?」

「そりゃあそうだ。だって紋なき騎士団は、コンピューターを使ってたんだろ? わたし、コンピューター触れないから」

「……確かに、であればそうですね」

「本当は苦手なんだ、魂のないものってさ。冷たいじゃあないか」


 呟くように言うと、アオイはぱっとこちらを見て困ったような顔をした。


「あーあ、もう帰らなくっちゃいけない。あんまり遅いと、カミーユに叱られちゃうからね。君といると時間が早いなあ。君の話も聞きたかったのに」

「あ、いえ、私の話は……」

「面白いかどうかは、わたしが決めるよ。だからまた、お散歩に付き合ってくれるかい?」

「あ、ええ、もちろん」

「いい心がけだ」


 いたずらっ子のように笑うアオイは、そのままゆっくりとバイクを教会に向けて走らせる。


 アオイの言う通りだった。クアドラートの街を十字に斬る道は、人の手によって作られたものだ。そこには神の意思ではなく、過去の住民の意思が息づいている。

 私は何の気なしに、讃美歌の一節を口ずさんでいた。


「『今私がここにあるのは、瞳に浮かぶ紋の導き』」

「その歌、好きかい?」


 聞こえていないとばかり思っていたから、思わず驚いてアオイの顔を見上げてしまう。アオイは少しだけ顔をこちらに向けて笑った。


「私が作った歌なんだ。私もテイラーも一番のお気に入りの歌でね! 君もそうだったら嬉しいんだけど」

「はい。歌いやすくてとても好きです」

「そりゃあよかった!」


 その声は、何よりも美しくきらきらと輝いて聞こえた。

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