3-2. 万華鏡の重心

 メレディスと別れてから、私はアオイのゆりかごの仕事に同行していた。


 クアドラートの住民は教会の分娩室で生まれる。産んだ誰かに問わず、瞳の紋に従いファミリアが決まり、該当する地区に赤ん坊は運ばれていく。

 この仕事をしているのが分娩室であり、司教が分娩室長との兼任であることは、多くの人に知られていることだ。


 アオイもご多分に漏れず、分娩室長としての仕事を全うしていた。

 分娩室で助産師として勤務する面々は、様々な地区から働きに出ている住民たちばかりだった。けれど、どの階級の者もアオイを慕っていたし、分娩室の中だけは、まるで階級なんてないかのように、全員が穏やかな関係性を保っているようだった。


 赤ん坊が乗せられた荷台にアオイと一緒に乗り込む。アオイは立ち上がって、おもむろにコートから葉巻を取り出した。


「司教様、それ、赤ん坊の傍で吸っても平気なんですか?」


 聞いてみると、アオイは目を丸くしてから答えた。


「大丈夫。これ、薬なんだ。煙は出ないよ」

「司教様、持病がおありなんですか?」

「病気って訳じゃあないんだけれどね。呑み忘れちゃうといけないから、気づいた時に呑むんだ」


 そうやって言ってから、アオイは細い葉巻に火を灯した。その仕草に、私は息を止めた。


 アオイは何も変わらない。いつも通り機嫌がよさそうで、変わった様子も見られない。

 けれど、葉巻に火を灯す瞬間だけは、横顔にわずかばかりの孤独を滲ませたのだ。

 それは本当に一瞬で、もし私が瞬きをしていたら見逃していただろう。

 その一瞬の孤独が、アオイという人間に影を付け、立体的に見せるのだった。


 すると、アオイは葉巻を咥えたまま笑った。


「ははは、見過ぎだよ」

「しっ! し、失礼しました!」


 声が上ずって、私は口を両手でふさいだ。その様子に、アオイは随分満足そうだ。


「元気そうでよかったよ。川に落ちた時は、どうなるかと思ったけど」

「ご心配おかけしてすみませんでした」

「防水の録音機を買っておいてよかったじゃあないか」

「そうですね」


 答えてから、私はふと違和感を覚えた。そんな話をアオイにした記憶はない。

 思わず聞こうとした時、アオイの横顔が見えた。薄くて赤い唇が、葉巻に重なって呼吸する。息を吐くと確かに、煙は見えなかった。

 私もアオイの隣に立つ。風が心地よい。


「確かに、この見た目は魅力的だよね。気持ちはわかるよ」

「えっ!」

「いやあ、さっきから君がわたしのことをじいっと見てるからさ。冗談の一つも言わないと、こそばゆくって仕方がないよ」

「あっ! も、申し訳ございません! あっち向いてます!」

「大袈裟だなあ。それじゃあお喋り出来ないじゃあないか」


 思い切り正反対を見たけれど、結局アオイの言う通りそちらを向く。新聞記者が、取材対象を目の前にしてそっぽを向くなんておかしな話だ。


「さっきまで、メレディスと話をしてたみたいだね?」


 アオイの声がして聞き返せば、目を細めながら彼はもう一度言った。


「よくメレディスが取材に協力したね。まあ、そうせざるを得ない立場なんだろうけどさ」

「あ……。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

「別に、それが君の仕事だからね。悪いのはメレディスの方さ。わたしのことをいつまでも子ども扱いしてる。ジョスリンの代わりに、わたしを守ろうとしてくれてるんだ」

「……でも、たくさん話してくれました。司教様が子どもの頃の話や、ジョスリンさんのことも」

「どうせ君なら、すべての事実にたどり着くだろうと思ったんじゃあないの。それならいっそ、自分の口で伝えたかったんだよ、メレディスは。本当に、いい人だと思う」


 アオイはそう言って、また葉巻を口にした。大きく呼吸をした後で見上げる空に、アオイは笑う。


「ジョスリンには、色んなことを教わったよ。音楽家として一番大事なこととか」

「どんなことですか?」

「記録本に残すことかは知らないけど、覚えやすくて歌いやすい歌を作るようにって、いつも言われてた。だからわたしが作る讃美歌は、どれもそうなってるんだ。君が一番好きな讃美歌だってそうだ。昔ね、わたしが作った歌のことを『嫌でも覚えてしまう』って言った人がいたんだよ! あれは嬉しかったなあ。きっと言った人は嫌味だったんだろうけれど、わたしにとってあれほどの褒め言葉はないさ」

「確かに……。おっしゃる通りです。そう言えば、司教様は文字よりも音で聞いた方が物を覚えるのが得意だそうですね?」

「あ、それカミーユから聞いたんじゃあない? わたしがいつも何でも読ませるから、君に愚痴を言ったんだ」

「教えて下さったのはカミーユさんですが、愚痴ではありませんでしたよ?」

「なーんだ、つまらないの」


 楽しそうに笑って、アオイはまた葉巻を吸った。煙越しに答えが返ってくる。


「覚えたいものとか、覚えないといけないものは誰かに読んでもらうんだ。そうすると、初めは音符みたいなものが出来上がって、その後音に言葉がくっついて、覚えられるようになる。特に説法なんかつまらなくって、そうしないとちっとも覚えられないよ。だってさ、わたし、子どもの頃に説法聞いてて寝ちゃって、牢屋に放り投げられたことがあるんだよ? すごいよね?」

「牢屋ですか? それはなかなかのことですね」

「今となっては申し訳ないけどね。だけど、子どもが寝ちゃうような説法をしてる牧師センセイだっていけないと思わないかい? あ、でもね。わたしは、牢屋に入ったおかげで音楽家に配属されたようなものなんだ」

「と、おっしゃると?」


「教会には牢屋が二つあってね。一つは重罪な人が行く地下牢で、軽罪の場合は時計台のすぐ下にある牢屋に入れられる。わたしはそっちに入れられたんだけれど、時計の歯車が永遠にちくちく言ってるし、鐘なんか骨まで震えるほど大きな音が鳴るんだ。とにかくうるさい。で、そこにいるうちに歯車の音が変だなあとか、鐘の音に雑音が混じるなあとか、わかるようになってね。整備士に言って見てもらったら、わたしが言った通りの場所にガタが来てたんだ」


「すごい! 耳がよかったんですね」

「そうそう。それで先代が、音楽家に配属するよう推薦してくれたんだ。あの時牢屋に入ったおかげで、今のわたしがいるようなものさ。まあ、授業はよく寝てたけど……。最後に一番音楽に詳しくなったのは、わたしだったんだ」

「それほど音楽の才能が長けていたのに、よく司教として牧師の勉強をなさる決心をされましたね」

「説法の一つも言えない司教になんか、誰もついてきてくれやしないさ。おかげで、あんまり話したことがなかった牧師たちと仲良くなれたし、面白かったなあ。やっぱり授業は寝てたけど、司教になる頃には、みんながびっくりするほど何でも知ってる牧師サマになれたよ」

「努力のたまものですね」

「お導きに沿うためなら、何だってするさ。正方形の裏側にだって、行く覚悟があるんだから」


 指に挟んだ葉巻をひらひらと揺らして、アオイは少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 冗談を言っているようなふりをして、その実、本音を吐露しているのだろう。


 ゆりかごに入った赤ん坊は生まれてまだ間もないのに、それぞれがみんな違った考えを持っているようだ。泣いている子、笑っている子、ぼんやりと空を眺めている子。

 様子は様々だが、どの子どもの小さな瞳にも、同じように肆地区のファミリアの紋が浮かび上がっていた。


 アオイは、思い出したように「ああ!」と声を上げた。


「そう言えばさ。確か、君の企画書に面白い分析があったね。面白かったから覚えたよ。『記録に残る範囲で司教の就任演説を読み解くと、ほとんどの場合が以下の流れに準じている。一、前司教への感謝の意と黙とう。二、神ないしはクアドラートへの賞賛の意。三、決意表明。しかし、第四十一代司教については、その構成を一部踏襲しつつも内容がほとんど合致しない。冒頭、早い段階での住民への呼びかけに始まり、「正方形の裏側」という単語を使い直接的に死を連想させる。文語調に近い言葉で述べられるそれまでの演説とは正反対に、口調を崩しながらも自らの言葉で決意を述べる姿勢。なにもかもが、それまでの司教と違った。これを単に「若い司教だから」という理由だけで片付けてしまっても、良いのだろうか』……君って本当に、面白いよねえ。そんなことを企画書に書いてくる新聞記者、他にはいなかったよ」


 相変わらずのアオイの記憶力に圧倒されながらも、アオイがそこまで私の企画書を気に入ってくれたことが、素直に誇らしかった。


「司教様の演説に驚く人は多かったんですが、散々驚いた最後に、『若い人だから』って終わってしまうのが、なんだか悔しかったんです」

「君の企画書を褒めた周りの人と同じだね。まあ、みんな価値観を自分で作っちゃあいないんだよ。君やわたしのようにはね。君は、人を判断する時に最初に何を見るの?」


 唐突な質問に、私は思わずアオイの顔を見た。まるで答えを知っているようにも見えたし、知らない世界を覗き込みたいと願う、子どものような顔にも見えた。


「……重心です」

「へえ、重心ねえ。赤ん坊は頭が重たいからなあ」

「そうです、そんな感じのことです」

「ふうん。面白そうじゃあないか。もう少し聞かせてよ」


 アオイが身を乗り出してくるので、私は後に引けなくなった。

 言わない方がいい話題を口にした後悔と、それでも誰かに聞いてほしいという思いがないまぜになって、私の口は動き出す。


「例えば、司教様がおっしゃった通り、赤ん坊は重心が頭の上にあるのでふらふらしています。……反対に、高齢になると足元に重心があるから、転んでしまいやすくなります。年齢とか寿命に応じて、人の重心の位置が変わるんだって、子どもの頃に思ったんです。……そのせいで、人に『紋なしめ!』って怒鳴られたこともあるんです。その人、若いのに重心が下にあるから心配で声をかけたら、気味悪がられて」

「だからって、そんな風に言うなんて酷いじゃあないか」

「でもその人、本当に正方形の裏側に行ってしまったんです」


 その言葉に、アオイは不快感を表すどころか更に身を乗り出した。


「そりゃあすごい! ってことは、君の判断基準はあながち間違っちゃあいないんじゃあないの? すごいことだね。他にそんな価値観を持ってる人なんて聞いたことないよ」

「そうみたいです。……でも、アンソニーには他人に言っちゃだめって言われました」

「確かにそうだねえ。教会の教えだって、どう頑張っても人は正方形の裏側に行くからしょうがないよって言ってるくらいだからさ」


 仰々しい教えの一部をアオイらしい口語であっさり言うと、アオイは満面の笑みを浮かべた。


「君はやっぱりすごい子だよ。ないはずのものを見つけられる。それに我慢強い子だ。これはわたしと君と、ああ、あとアンソニーだけの秘密だね。君との間に秘密が増えるのは、なんだか悪い気がしないなあ」


 随分満足そうに笑うので、私もひとまず同じようにうなづいた。



 馬車が肆地区に入ったことは、周りの色ですぐにわかる。

 はちみつ色の岩で出来た零地区とは対照的に、濃紺の大理石が主な肆地区は、物の輪郭が鮮明だ。建物は鉄筋が多く、地区で一番高い十階建てのビルは赤錆ばかりがよく目立った。

 アオイはその一角を指さすと、明るい声色で言った。


「あのビル、昔はよく遊びに行ったんだ。まだ、ゲイブが生きてた時の話だけどね」

「ゲイブ? ……あ、医師のガブリエルさんのことですか?」

「そうそう! よく知ってたね! 君も何か薬貰ってたの?」

「いえ……。その、さっき」

「メレディスか! もー、お喋りだなあ。別に構いやしないけどさ。それじゃあ君は、わたしが魂の引っ越しをしたことも聞いたんだね?」

「あ、あの、はい。司教様が、小さい頃から明るくていたずら好きな男の子だったってことも」


 するとアオイは目を丸くした。一瞬鋭さを見せたような気がしたが、彼は何事もなかったように「あーあ」と大袈裟に肩を落とした。


「ずるいなあ、メレディス! いいところ話しちゃうなんて!」

「いいところ? 死んでしまいそうだったのに?」


 私は思わず眉をひそめた。どう考えても、そんなうきうきした声色でするような話題ではない。

 しかし、苦節を笑い飛ばすようにアオイは明るい声で言った。


「あれは、死ななかったっていう思い出さ。まあ、死ぬほど痛かったし寂しかったし、この体に馴染むまでは苦労したけどね」

「司教様、もうお体は何も問題ないんですか?」

「さすがに、もう十年以上経ってるからね。一応、葉巻で体と魂をくっつける治療は続けてるけどさ。あーあ、君とゲイブを会わせたかったなあ! 面白い人って、なんで先に死んじゃうんだろう!」


 アオイは荷台の柵に背中を付けると、そのまま反り返るようにまた伸びをした。長い手足がするする広がって、体中で呼吸をするような動きに見える。


 私は、何気ないようにアオイに聞いた。


「司教様、その、ガブリエルさんはどうして亡くなったんですか? 高齢なかただったんですか?」

「公式には自殺。診療所で首をつってるのを、テイラーが見つけた」

「自殺? 公式にはと、おっしゃると?」

「唐突過ぎたんだよ、死に方が。おかしいんだ。死ぬ理由がない」


 妙にはっきり言ったアオイの視線は、空の上をじっと睨みつけるような鋭さを帯びた。

 しかし、それも体を起こした時には元に戻っている。先程まで刃物のような光で満たされていた瞳が、まるでアイスクリームのように優しく笑った。


「肆地区は、今のわたしが生まれたところさ。もし零地区にいられなくなったら、肆地区で暮らしたいなあ。紺色、格好いいし」

「あの、肆地区ではどんな風に過ごしていらっしゃったんですか?」

「君は、魂の引っ越しをしたことは? 前に保護者が引っ越したって言ってたけど」

「私はありません。アンソニーは年齢が近い体を使っていましたし、一週間ほどで戻ってきました」

「へえ、そりゃあよかったね! あんな無茶なこと、するもんじゃあないよ。脳みそが煮えくり返りそうな混乱なんて、わたし以外の誰も受け入れられないんじゃあないかな。体がぶかぶかで自分の足に引っかかって転んだり、頭掻こうとして自分の顔を引っぱたいたり、初めは訳が分かんなかったよ。まあ、その度にゲイブがけらけら笑って助けてくれたから、わたしも笑って過ごしてたけどさ」


「肆地区にも友達が出来たと伺いましたが、出歩くことも多かったんですか?」

「そうそう。ちょっとずつ歩けるようになったから、ゲイブと一緒に買い物したり釣り堀に行ったりしてさ。よく釣り堀に落ちてタモで引き上げられたし、八百屋でかぶを取ろうとして棚に突っ込んだりして、色んな人に迷惑かけたけど。でも、なんだかんだでみんな、助けてくれた。きっとゲイブと一緒だったからだ」

「司教様のお人柄も、周りの人を惹きつけたんだと思いますが」

「そうかなあ。だったら嬉しいんだけれどね。みんなよくお喋りしてくれたよ。おかげで、教会に居たらわからなかったことにたくさん出会えた」

「と、おっしゃいますと?」


「例えば、弐地区の政治家が肆地区の娼婦に入れあげてお忍びで遊びに来ているだとか、参地区の若者が壱地区のご令嬢と良い仲だとか」

「色恋沙汰ばかりですね」

「ははは。今のはわかりやすい例。他にももっと、酷い話はたくさんあったよ。階級を理由に、理不尽に金を巻き上げていく奴らがいるとか。それに反抗して投獄された人がいるとか。そういうことがある度に、誰かが上の階級に仕返しをしようって話をするんだ。だから、わたしはこっそり止めに入ったよ。愚かな奴のせいで、誰かが更に罪を重ねる必要なんてないじゃあないか。最後に生き残るのは笑ってる奴さ。笑いながら周りを見た方が、今自分が何をすべきかよくわかる」


 毎度のことながら、アオイについての話を聞く度に、私の中にある『アオイ』の姿が打ち砕かれるような心地がする。

 感受性が豊かでお気楽、マイペースに生きるアオイ。その裏に見え隠れする、沈着冷静な観察眼と思考回路。

 しかし、この万華鏡のようなパッチワークのような捉えどころのない部分が、アオイの一番の魅力でもある。


 だから、本性の分からないアオイを心地よく思いながら、私は話に耳を傾けていた。


「肆地区での一年は、貴重な体験だったよ。情報の大切さをわたしに教えてくれた。教会だけにこもっていちゃあいけないんだ。あんな岩山の上までは、本当のことは伝わってこないからね。だから、教会に戻ってからも時々こっそり街に出て、色んな地区の人とお喋りしたよ。世の中で起きている出来事を、わたしは自分の耳と目で知りたいと思ったんだ」

「それは今もしていらっしゃるんですか?」

「まあ、友達に会いに行くのはごく自然なことだからね。君が帰ってしまっても、また君とお喋りしたいな」

「司教様がそうおっしゃるなら、喜んで」

「本当かい? そりゃあ嬉しいね」


 いたずらっ子みたいに笑って、アオイは前方を見た。どうやら、役場が目前に迫っているらしい。


「さて、そろそろわたしはお仕事しなくちゃあいけない。もし暇になっちゃうなら、君も一緒にこの子たちを役場に連れて行かない? 役場の誰かが、大きなゆりかごを持ってきてくれると思う……お、いたいた」

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