3-3. 紺色の言葉

 馬車が役場の裏口に着くと、職員の女性がアオイを迎え入れた。そうして私の方に不思議そうな視線を送る。

 私の瞳を見た直後、彼女は視線を逸らして黙り込んでしまった。


「あー、ブリジッタ。エミリアにはそんな風にしなくたってへっちゃらだよ。今、わたしの記録本を作るために取材してくれてるんだ。新聞社の有望株! 期待の若手! って感じかな?」


 アオイの言葉で、ブリジッタは恐る恐る私の方に視線を送った。彼女の瞳の中にある骸骨の紋が正面を向いて、私はなんとか彼女の顔を見ることが出来た。


「お邪魔はしませんので、少し見学させてください」

「え、ええ……。わかりました……」


 私は、先日アオイから聞いた言葉を思い出す。


『彼らにとって、壱や弐は自分たちを搾取する側。だからどうしても警戒する。反対に、零地区みたいな上でも下でもない存在は、参や肆地区の住民にとって救いになるんだ。だから、わたしが近寄れば答えてくれる』


 ブリジッタと親しくなることは、零地区の住民、アオイだからこそ出来たことなのだろう。私が今ここでどれだけ歩み寄っても、ブリジッタが警戒を解くことはないと見えた。


 アオイはゆりかごに子どもを運びながら、そんなブリジッタの様子をちらちらと気にして、少しだけ困ったように笑った。


「ブリジッタ。君って、思ったより人見知りなんだねえ。それに、よそ行きの話し方も出来る。勉強になった」

「そ、それは、ええと……」


 戸惑いと羞恥心とで、ブリジッタは顔を真っ赤にした。恐らく、普段は肆地区の訛りを隠さずにアオイと話をしているのだろう。

 私がいることを気にして口調を変えたブリジッタをよそ行きと言いながらも、アオイは決して馬鹿にはしなかった。


「ほんと、骸骨のファミリアって面白い人ばっかりだよ。ガブリエルもそう、君もそう」


 その言葉に、私はつい飛びついてしまった。思わずブリジッタを覗き込んだせいで、彼女は怯えるように肩をすくめた。


「ブリジッタさんも、ガブリエルさんのことをご存じなんですか?」

「え、ええ……もちろん……」

「ガブリエルさんがどんなかただったのか知りたいんですが、ぜひお話を聞かせていただきたくて、あの、この後お忙しくなければ!」

「あ、あの……」


 すっかり怯えきったブリジッタと、前のめりの私の間で、アオイが大笑いをした。

 それで私たちは目が覚めて、二人して顔を見合わせる。なんだかそれがおかしくて、私とブリジッタはお互いの瞳を見ながら笑ってしまった。

 アオイが笑いの余韻を目尻に残して言う。


「ほらね、面白いだろう? よかったら申し出を聞いてやってくれないかい? 確か、君もこの後のわたしの説法のお手伝いをしてくれるんだよね? その後、わたしは面倒くさい面倒くさーいお役人とのお茶会があるから、その間に二人で話すといい。君、どうせ説法の後は礼拝堂でパズルしてるだけだろう? たまには別の地区の人と話すってのも、面白いと思うよ」

「も、もう! そんな、恥ずかしいコト……バラさないでくだサイ!」

「はは、やっといつもの君になった」


 弱々しい声色ながらも、ブリジッタは惜しげもなく訛りながらアオイに抵抗した。軽くアオイの腕を叩く仕草から、アオイへの信頼関係が垣間見える。



 赤ん坊をすべて役場の託児所に連れていき、帳簿との照合が終わると、アオイはブリジッタと軽く書類のやり取りをしてから役場を後にした。


「あ、忘れてた」


 馬車に乗る寸前、アオイはくるりと回って見送りのブリジッタの方を向くと、胸元に下げた正方形を軽く掲げた。


「肆地区と子どもたちに、正方形のご加護があらんことを」

「お、御慈悲に感謝いたします……」


 頭を下げるブリジッタに、アオイは笑った。


「どう? 司教サマっぽかった?」

「エエ……、とっても」

「テイラーよりも?」


 からかうような表情のアオイに、ブリジッタも気を許したように笑った。力の抜けた笑みと弱々しい声が、優しい雨のように降り注ぐ。


「司教様らしさで言えば、テイラーさんのほうがずっと、司教様らしいですヨ」

「うわー、やっぱりそうかー! それじゃあ、また後でね」

「ハイ。それと……。エ、エミリアさんも、また後デ」


 ブリジッタに名前を呼ばれたこと、わずかな訛りを交えてくれたことで、なんだか心の霧が晴れたような気がした。

 それは歓喜のように賑やかなものではなくて、心のどこかに穏やかな光が差したような、そんな喜びだ。


 アオイの言う通りだった。

 実際に自分の目で見なければ、情報なんて入って来ない。それは、事件の真相に迫るような派手なものなんかじゃなくて、クアドラートの住民が持つ肌感覚、無意識の思想、そういったところだ。


 初めて会ったアオイに、参地区の住民の価値観について話をされたことがあった。あの時の私は、感心しながらも心のどこかで思っていた。


 どうしてこの人は、そんなこと知っているんだろう。

 恐らくその答えが、ここにある。


 この点において、アオイは誰よりも司教らしい人なのではないかと私は感じた。


 教会は政治的権限を持たないが、影響力はどの地区よりも強い。政治家が決まりを作るなら、聖職者は私たちの価値観を作る。


 歴史上、政治的施策が頓挫した背景に、教会の協力が得られなかったとか、教会の教えと乖離していて住民に浸透しなかったといった理由が挙げられる事象は数えきれない。

 スピーカーの権利を教会が握り、拒否権を行使するようになってからは、ますますその傾向が顕著だ。

 つまりは、教会の動きでクアドラートが決まる。


 一方、クアドラートの住民すべてを同じ方向に向かわせるために、普通の政治家がやることと言えば実にお粗末だ。

 地区の権限で無理に他の地区にも何かを押し付ける。時々上手くやる政治家もいるが、そうでない政治家の方がずっと多い。


 では、アオイはどうか。

 アオイは、地区ごとの違いを理解している。人々の価値観の根本は何なのか、自分の目で確かめている。少なくとも、その判断基準をアオイは知っている。


「司教様は、とても司教様らしいと思います」


 肆地区の教会に向かう荷台で、私はふとそんなことをつぶやいた。

 アオイは荷台に寝転がっていたが、意外だとでも言いたそうな目でこちらを見て、片方の口角を上げて笑った。


「そりゃあ、結構なことだ」


 それをアオイが喜んでくれたのかはわからなかったが、この時の私の判断に、誤りはなかったと思う。


「君は君で、新聞記者らしいんだからしくないんだか」

「どういうことですか?」

「本当のことを知るのに手っ取り早いのは、わたしに『取り決め』を理由に全部話をさせることだと思うんだよね。そうすれば、まあ、二日くらいで取材は終わるだろう。けれど、君はどうして、色んな人に話を聞こうとするんだい? ガブリエルのことなら、わたしだって話せる。と言うか、どうやったって話に出てくる」

「そうですね……。上手く言えないのですが、なるべく色んな角度から物事を見たいと思ったんです。嫌々聞き出しても、本当のことはきっとわかりません。記録本は、司教様の人柄を残すものですが、そのためには、話をしてくださる人たちの本当の言葉を残す必要があります」


 私の返事に満足したのか、アオイは口元に笑みを漂わせた。


「君がそういう考えで安心したよ。わたしも同じさ」

「ありがとうございます」

「君が壱地区の住民なのが残念だよ。零地区だったら、間違いなくわたしの仲間に任命するのに」

「仲間?」

「そうそう。わたしのことを調べる時に、噂を聞いただろう?」

「あ……。もしかして、この前の夜の」


 私はその言葉を口にしてから、思わず口をふさいだ。息を飲んでも、言葉はもう零れてしまった。

 それを拾い上げるように、アオイは微笑む。笑顔の真ん中にある瞳の鋭さに、心を奪われそうになる。


「鉄砲を振りかざすだけが、街を守ることじゃあないってことさ。確かにわたしはかなり腕の良い狙撃手だけど、それだってどこに撃てばいいのかわからなかったら意味がない。わたしが良い狙撃手なのは、わたしがどこに撃てば世界が変わるのかを指示出来る人がそばにいたから。彼がどうやったら正しい指示出せるか、必要な情報を集められたから。わたしが誰かを狙った時点で、本当のところ治安維持にはなってないんだ。ただの後処理。……君にどうしてこのことを言ったかわかる?」

「ええと、わからないです」

「びっくりするかなあと思っただけ! ほら、教会に着いたよ!」

「えっ?」


 私が声を上ずらせると、アオイは勢いよく体を起こして大笑いした。一瞬見えた鋭さなんてどこへやら、庭を駆け回る子犬のように笑っている。


「本当の話に聞こえただろう? 今の! 君の驚く顔はなかなかに面白いね! 人って本当にびっくりすると顔がアシンメトリーに歪むんだねえ。あー面白い。おかげで説法の緊張もほぐれたよ」

「じゃ、じゃあ、今の話は……」

「わたしは君をびっくりさせかった、君はびっくりして顔が歪んだ。それ以上でも以下でもないよ。これで納得しておくれ!」


 踊るように荷台から降り、教会に駆けていくアオイの後姿を眺めながら、私はしばらくその場を動けなかった。


 録音機の中に残った乾いた破裂音が、只々頭の中をよぎる。


 こんな人に目を付けられたら、犯罪なんてきっと出来ない。クアドラートに危害を加えることなんて出来ない。


 そう思うくらいの脱力感が、私を襲った。



 肆地区の教会は、普段無人であるにもかかわらず清潔で、こじんまりとしているが丁寧に使われ続けてきたことがわかる建物だった。


 濃紺一色で作られた礼拝堂は夜空のようだ。足を踏み入れた時、夜空に自分が放り出されたかのように思えてしまう。

 青を基調としたステンドグラスに光が差せば、遠い空の上から梯子が伸びたように見え、正面に飾られた正方形が見る見るうちに小さくなってしまいそうだ。

 空の上からクアドラートを眺めているような、不思議な感覚に陥る。


 意図の分からない冗談のおかげで緊張がほぐれた、なんて親しみやすいことを言っていたが、アオイにそもそも緊張の欠片なんて見えなかった。

 濃紺の世界の中、黒いコートを羽織ったアオイは、教会に溶けて消えてしまいそうなまでに馴染んでいる。


 以前もアオイとカミーユの説法に同行したことがあったが、アオイは説法をしなかった。カミーユに説法を任せて、アオイはその後ろでオルガンを弾いていた。本当はその方がアオイは落ち着くのだろう。

 恐らく、今アオイが説法をしている理由はたった一つ。肆地区の教会には、オルガンがない。


 だから、私がアオイの説法を聞くのは、取材中これが初めてのことだった。一番後ろの長椅子に腰かけ、私はその様子を眺めていた。

 隣にはブリジッタがいて、彼女は目を閉じ、ただ正方形に祈りを捧げている。


 私はすぐに気が付いた。耳なじみの良い説法は、どう考えてもアオイの個人的な考えと反している。

 それでもアオイは、淡々と説法を続ける。それが司教の役割だから。

 どの牧師が言っても変わることのない教会の教えを、アオイは司教の顔で諳んじていた。


「わたしたちの瞳に浮かび上がる紋は、わたしたちを正しいファミリアに導き、正しい人生を歩むための神からのお導きなのです。しかし、それでもなおわたしたちは淀みを拭い去ることは出来ず、過ちを犯し、人を憎み、怠惰な生き方をしてしまいます。


 本来、神の前に人はみな平等です。しかし、それでも階級がこの街に存在するのは、わたしたちの淀みが晴れないからです。瞳の紋が導くままに、健やかに生活を送ること。神に感謝し祈ること。わたしたちが生涯をかけてするべきはいたって簡単。たったそれだけなのです。


 みなさん、頭の中にクアドラートの地図を思い描いてみましょう。それを、まずは半分に折ります。きちんと、角と角を重ねて。さあ、折れましたか?

 折り方によって重なり合う地区は違うと思いますが、長方形になっていることでしょう。さて、そこでもう一度その長方形を折りたたんでみます。地図は小さくなりましたが、また同じように正方形になりますね。

 これが、神様の視点です。

 神様というのは、我々が空と呼ぶよりもずっと上からクアドラートの街をご覧になっています。その位置から見れば、この地図のようにどの地区にも違いなんてないのです。……つまり。つまりは」


 その時、ふいにアオイと視線が交わった。目を閉じ頭を伏している住民の中で、目を開き光景を見つめていた私の頭だけが、ひょいと出ていたせいだろう。


 アオイは、笑った。

 片方の口角を上げて、いたずらがばれた子どものように。

 そうして、私の方を見たまま、声色だけは保ち続けて言ったのだ。


「神様からすれば、どの地区に生まれた住民もすべて、住民という意味では同じです。階級もファミリアも関係ない、クアドラートの住民です。……。我々の世界から階級が消え去り、神様と同じ視点を得ることが出来るでしょう」


 わずかな言葉の違いだった。しかし、そこには確かに、アオイの意思があった。


『人間の淀みが消えれば階級も消えるなんて、そんなのきっと神様の知ったことじゃあないと思うんだよね。階級を消せるかどうかは、神様の意思じゃなくって住民の意思の問題だ』


 言葉の違いに気づくものはいなかったらしい。

 穏やかな説法が幕を閉じて、中には目尻に涙を浮かべる者までいたことに、私はわずかながらに驚きを隠しきれなかった。

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