4-4. 月明かりの下
アオイの部屋は、カミーユをはじめとする多くの牧師の部屋が並ぶフロアの一番奥にあった。
ドアは他の部屋と変わらない大きさだが、中は広々としている。しかし、床の至る所に紙や本が塔のように積み上がっていて、ゆっくり歩かないとそれらを崩してしまいそうだった。
「こっちは、作りかけの讃美歌、あっちは手直し中の讃美歌。あそこに積み上がってるのは、今勉強中の音楽理論の本」
塔を通り抜けながら、アオイは一つ一つの塔の説明をしてくれた。
紙を一枚拾い上げると、そこには音符が手書きで書きこまれている。たった一曲の讃美歌に、これ程たくさんの音符があるなんて知らなかった。
教会からクアドラートの住民に配られる讃美歌は、歌詞と旋律の簡単な音符だけの単純なものだったからだ。
積み上げられたすべての楽譜に書きこまれた音符の数。それを想像すると、呼吸が出来なくなりそうだ。
呆気にとられて見ていれば、アオイはこちらに声をかけた。おかげで、私の意識はこちらに引き戻される。
「コーヒー、飲むかい?」
「はい! いただきます」
「そりゃあよかった。ソファに座って待っててよ」
言われた通り、塔の中をかき分けながらソファに腰かける。ソファから見た部屋の中には、物言いたげな紙や本の塔が立ち並ぶ。
「……すごい量ですね。せめて楽譜は、コンピューターに入れてしまえばいいと思いますが」
「あんな箱に入れたら、音楽の魂まで消えてしまうよ」
そう言うと、アオイはローテーブルの上に置かれたカップにコーヒーを注いだ。メレディスが言っていた、かつてのアオイの肌の色だ。
「イェルハルドの豆だよ。川に落ちずに飲んでも、美味しいよ」
「いただきます」
香ばしい気配に鼻を寄せれば、あの赤土だらけの参地区の光景が甦る。
赤い川、たなびく煙、人の悲しみ。目の当たりにするまで知らなかった温度や音、色。
「うん! やっぱり美味しいです」
「それはよかった。豆をごりごり挽いた甲斐があったね」
アオイも私の隣に腰を下ろすと、同じようにコーヒーを飲んだ。長い足を組んでぶらぶら揺らしながら、こちらに視線を送る。
「カミーユと仲良くしてくれてありがとう。きっと、カミーユにとっていい経験になってるんじゃあないかな」
「そ、そんな! ……私の急なお願いにも付き合ってくださるので、ちょっと申し訳ないのですが。でも、すごく助かっています」
「君は、カミーユみたいに年の近い人と一緒に仕事はしてないのかい?」
「ええと……。職場にはあまりいませんね。同じファミリアでも、新聞社に入らなかった子なら何人かいるんですけど」
「そっかあ。でも、君は新聞社に入ったんだね」
「はい。情報を必要な人の所に届けたいって、ずっと思ってましたから」
「それは、君の保護者の影響? アンソニーだっけ」
「……言われてみれば、そうかもしれません。アンソニーが楽しそうに仕事をしていて、愚痴も言うくせに結局取材に行くところを見ていたから、私も瞳の紋の導きに従おうって思いました」
「保護者ってのは勝手だよね。結局、彼らがわたしたちの価値観を作るんだから」
「……確かにそうかもしれません」
コーヒーを一口飲む。職場を離れたのはほんの数日前だと言うのに、新聞社の光景は随分昔の記憶のようにぼんやりとしていた。
不意にアオイは、組んだ足に頬杖をついてこちらを見た。
「それで、今日はカミーユとどこへ行ってたの?」
「あ……ええと」
片方の口角を上げて、アオイは笑っている。だから私は白状した。
「……アヤネさんのところに、行きました」
「よく言えました」
いたずらっ子のように満足気に笑うと、アオイはコーヒーを一口飲んだ。伏せた視線の先には、コーヒーの水面が浮かんでいる。
もしかしたらそこに、誰かの顔を思い描いているのかもしれない。
「彼女は元気だったかい?」
「あ……ええ、はい。きちんとしているかただと思いました」
「あはは。この部屋よりは片付いてただろうね」
「そういう意味では……」
「わかってるさ」
いつもより幾分言葉少ななアオイに、私も言葉を選ばざるを得なかった。
アヤネから聞いた話は、どこまでが本当なのか。アオイは、それをどこまで知っているのか。
「……テイラー牧師のことを伺いました。紋なき騎士団のことも」
「ああ、そうなんだ」
「司教様の歌を真似したのはコンピューターで、コンピューターの仕組みを作ったのがアヤネさんで……」
「それから?」
「紋なき騎士団を作ったのは、テイラー牧師とアヤネさんだともおっしゃっていました」
「どうして彼女は紋なき騎士団を作ろうと思ったの?」
「それはー……」
上手く言えない言葉は、喉をからからにしてしまう。コーヒーを飲んでも、それは拭い去れなかった。
「……多分、アヤネさんがテイラーさんのことを、愛していたからだと思います」
「彼女はちゃんと全部話したようだね。音声は?」
「聞きました。……あ! 司教様、アヤネさんが、司教様に会ったらよろしく伝えておいてとおっしゃってました」
するとアオイは、随分気の抜けた笑顔をこちらに向けた。意外なことだったのか、喜ばしいことだったのか。
私にはわからなかったけれど、少なくともアオイはこう言った。
「そっか。そりゃあ光栄だ」
それだけ言って立ち上がると、窓の外を向いて「おお」と声を上げた。視線の先を私も追えば、アオイが見ていたのは満月だった。
「随分と明るいじゃあないか。これなら、部屋の明かりを消してもスコアが書けそうだね」
「本当ですね」
「そうだ、少しだけ変わったものでも見るかい?」
「変わったもの?」
「明かりを消してもいいかい?」
「はい、月が明るいですから」
「それじゃあ、遠慮なく」
アオイは電球を消すと、薄暗い部屋の中で棚に顔を突っ込んだ。ガラクタばかりのように見える棚の中から、アオイは慣れた手つきで一本の葉巻を取り出して火を付けた。薬用の葉巻の、平たい香りがする。
アオイも私と同じく窓辺に立つと、窓を大きく開いた。
「司教様の葉巻とは違うんですか?」
「そうだね。もう少ししたらわかるかも」
二人で月を眺めていると、部屋の中に私たちの影が差しこんでいるのが見えた。煙の影も、ほのかに揺らいでいる。
アオイはいつもと変わらず口の真ん中に葉巻を咥えていたが、月を眺めたままおもむろに、シャツのボタンを外し始めた。
「し、司教様何を?」
「ああ、別にどうってことはないんだけれどさ。ほら」
アオイが、開いた胸をこちらに向けた。思わず目を伏せた後で、アオイが小さく笑う声が聞こえて顔を上げる。
その顔は相変わらず楽しそうに笑っているが、少しだけ、私に何か言葉を求めているような気配がした。
アオイの左胸、鎖骨から縦に鳩尾の辺りまで。大きな傷口が浮かび上がっていた。
それは、青白い月明かりのおかげで鈍く見えるが、アオイのやや色味を帯びた肌の上に居座って、ちっとも動こうとしない。
「司教様、この傷は? 薬を呑むたびに、こんなことになっていたんですか?」
「いいや、いつもの薬じゃあならないよ。これはテイラーの薬さ。テイラーが毎日欠かさず呑んでた、薬の作用」
「傷口が、浮かび上がるんですか?」
「そう。元々は、魂の引っ越しを二回目以降にする時の手術用の薬らしい。ほら確か、体に負担をかけるからって、魂の引っ越しは同じ傷口を開いてやらないといけないそうじゃあないか。その時に、最初の手術の傷口を浮かび上がらせるんだってさ」
「でも、そういった薬なら、手術の時だけ呑めば……」
「テイラーは、どこかしらの傷口を体に浮かび上がらせる必要があった。だから、これを呑んでた」
そこまで来て、私はテイラーの生まれを思い出した。
彼は、瞳に紋がなかった。あっても、かなり薄かった。
「テイラーは説法の時必ず『私たちの瞳に刻まれた紋』って言い方をした。音源を聞いてるから、君も知ってるね? テイラーにとって、瞳の紋は刻まれたものだ。偽物の歌も、その考えを真似して作った言葉が使われていたよ」
「どうして司教様は、テイラー牧師がこの薬を呑んでいるとご存じだったんですか?」
「偶然ね。偽物の歌が流れた時、わたしはガブリエルのところにいたんだ。テイラーからお使いを頼まれて、私たちの薬をもらいにね。薬をもらって、巾着をポケットに入れたんだけれど、途中でテイラーの葉巻が何本か巾着から出ちゃったみたいでさ。ガブリエルのところから戻ってすぐに捕まって牢屋に入ったんだけど、コートの中に残ってる葉巻を見つけて吸ったら、こうさ。びっくりしたけど、テイラーには黙ってたよ。ただ、おかげでテイラーが抱える悲しい運命はなんとなく察しがついた。この街の住民が、そこまでして浮かび上がらせなきゃあいけないものなんて、一つしかない」
「テイラー牧師の最期には、瞳の紋が消えていたと伺いましたが……。ガブリエルさんが亡くなってから、この薬をもらえなくなってしまったんでしょうか?」
「そうだろうね。テイラーの事情を知らなければ、こんな薬作ってくれやしないだろうし」
左胸に走る傷を、アオイは自分の指先で確かめるようになぞった。葉巻を一口吸えば、また傷が色濃く浮かび上がる。
「……わたしは時々、明かりを消しても平気な夜に、テイラーのことを思い出してこれを吸うんだ。直視するのは少し勇気がいるから、こういう天気の夜だけにね。ほら、わたしたちの神様は、顔が見えないじゃあないか」
「あ……はい」
「と言うことはさ、顔から何かが無くなれば無くなるほど、神様に近しい存在だと言っても、あながち間違っちゃあいない」
「ええと……。そうですね」
「だったら、テイラーはわたしが知る中で一番神様に近いと思うんだよ。しかも、よりによって瞳の紋が無いんだから。テイラーが生まれた時、その事実を目の前にしたパルヴィーン司教が『この子は神に近い子どもだ』って判断してたら、歴史は変わったんじゃあないかな」
胸を開いたままのアオイが、こちらに視線を送った。月明かりに浮かぶアオイの顔、そうして体が妙に立体的に見えて、私は思わず月に助けを求めてしまった。
月は明るい。凹凸を残してもなお円形で、どこまでも照らすようだ。
「司教様がおっしゃる通りですね。テイラー牧師は誰のことも憎まなかったし、殺意を覚えることもなかったし、……たくさんの住民を巻き添えにすることもなかった」
「そう。たった一人が判断を誤ったせいで、色んな悲劇が起きた。わたしはそうはなりたくない。だから司教になったよ。テイラーの代わりにこの街を導けるのは、わたししかいないと思ったんだ。他の人じゃあ、きっと間違える。痛いとか辛いとか悲しいとか嬉しいとか、何にも知らないまま間違い続けるんだ。クアドラートは変わらなくちゃあいけない。一人一人が判断して、自分の価値観を持たなきゃあいけない。まだ誰も見たことがない、自分だけのものをね」
胸に残った傷は、その思いを秘めた願いのように見える。
気づけば私は、アオイの傷跡と向き合っていた。目の前にいるはずなのに、アオイの姿が急にぼやけてしまうようで怖かった。本当に、アオイの色が消えて、見えなくなってしまうように思えた。
込み上げてきた不安が、口からこぼれ落ちる。
「私、司教様の重心がどこにあるか、わからないんです」
「重心? ……ああ、君だけに見えるものだね」
「はい」
「わたしには重心がないのかい?」
問われた私はうなづく。こうやって向き合っていても、アオイのどこにも重心は見えない。足元に落ちている訳でも、腹の辺りでうずくまっている訳でも、喉の辺りで歌い出している訳でもない。
「司教様……。ここにいらっしゃいますよね? 生きて、いらっしゃいますよね?」
視界の中のアオイが、わずかにぼやけた。はだけた白いシャツを着た細身の体が、歪んで見える。アオイは黙っていた。ただ、笑った。諦めたように、アイスが溶けるみたいに笑った。
そうして私の手を引くと、そのまま優しく抱きしめたのだ。
「生きてるよ。だから、よく覚えていて」
言葉の通り、アオイの左胸からは心臓の鼓動が聞こえてきた。
柔らかな肌に頬を寄せたまま、私はアオイの傷口に触れてみた。月明かりのせいで色を失った傷口は、わずかな凹凸だけを残してアオイの体に刻み込まれている。いや、ジョスリンの体と言った方がいいだろう。
だって、今のアオイにはもう、顔がないのだから。
「ああ、結局またわたしの話で終わっちゃったね」
「え?」
私が見上げると、アオイは長い指で私の頭を軽く撫でて、いたずらっ子のように笑った。こげ茶色の瞳に浮かぶ鐘の紋は、さっきまでのことがすべて夢での出来事のように、楽しそうに揺れる。
「さて、そろそろ君を部屋に送らないといけないね。明日の朝、カミーユに『夜更かしをさせたんですか』って怒られちゃうから!」
「きゃあっ」
私の頬を指先でつついてから、アオイは部屋の明かりを付ける。こちらに背中を向けたまま、その声は冗談交じりに言った。
「君はいいなあ。わたしも先代に、こんな風に抱きしめてほしかったよ」
月明かりの下で、私は、顔の見えない神様に限りなく近づいたように思えた。
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