最終章 アオイのすべて
5-1. 顔の見えない神様
11月4日。朝の零地区には、朝から大勢の住民が集まっていた。
無理もない。アオイが久々に休日の説法を行うということもあり、教会には朝早くから長蛇の列が出来ていたのだ。
一方、当のアオイは、いつも通り食堂でもそもそと朝食を食べながら、岩山に伸びる行列を眺めて首をかしげている。
「ねえ、エミリア。みんな何してるんだい?」
「司教様が説法をなさるって聞いて、みなさん待ってらっしゃるんですよ」
「でもさあ。わたしの説法ってそんなに珍しいことじゃあないよね? 地区の教会には時々行くし」
「行ってもあんまりお話されないって、カミーユさんが困ってましたよ? それに、やっぱり零地区の教会で聞く説法や讃美歌は、格別ですから」
「確かに、うちのオルガンはクアドラートで一番いい音が鳴るからね」
のらりくらりと言うアオイは、頭にいくつかの寝癖を残したままだ。
そこへどたばたとやってきたのはカミーユで、手には櫛を持っていた。
「ああ、司教様まだこちらにいらしたんですね。早く朝ご飯を召し上がってください。お支度なさらないと」
「もう着替えるのかい?」
「司教様、お着替えだけではありませんよ。説法の練習、聖歌隊のお稽古、それから……」
「わかったわかった! それじゃあ、着替えと説法の練習は一緒にやるよ。聖歌隊のみんなは何時に来るの? ああどうしよう、少し緊張してきたな。カミーユ代わりにやってよ」
「司教様が緊張なさるなんて、空から飴玉が振って来るよりも信じられませんよ」
そのままカミーユと会話をしながら、アオイはどこかへ行ってしまった。
呆気にとられて二人の導線を見送っていた私に、近くにいた聖職者が苦笑いを浮かべた。
取材最終日ということもあり、私は、部屋の荷物を片付けたりメモの整理をしたりと、説法が始まるまで慌ただしく過ごした。
それから急いで、絵を描いているメレディスの所に向かった。日記を貸し出してくれたことも含め、今までのお礼が言いたかった。
彼は最後まで仏頂面だったが、大きく頭を下げた私を見て、「相変わらずだな」と少しだけ笑っていた。
時計はあっという間に進んでしまい、礼拝堂の扉が開かれた。瞬く間に席は満員になる。
私は通路側に立ち、腕には『報道』と書いた腕章を付けた。これなら、メモを取っても録音をしても、誰にもとがめられないはずだ。
すると、私の横からこそこそと声が聞こえた。
「エミリア、調子はどう?」
声の主は同じく腕に『報道』の腕章を付けたシンイーだった。随分久しぶりに顔を合わせたような気がして、それから一気に現実に引き戻される。
もうすぐこの地区から出て、元の生活に戻らないといけない。そうしてもう二度と、こんな風に教会で生活することは出来ないのだ。
アオイの空飛ぶバイクでクアドラートの街を見ることも出来ないし、カミーユとアイスクリームを食べることも出来ない。
アオイは私に情報収集を兼ねて会いに来るかもしれないが、私から会いに行くことは難しい。
この気持ちを、何と言おう。
「ええと……。少し寂しいです」
「寂しい? 教会とお別れするのが?」
「……はい、きっと」
「なによ、すっかり司教様の虜じゃない」
「そ! そういうわけじゃ!」
声を上げてから、慌てて口をふさぐ。まだ説法は始まっていないが、住民の何人かが怪訝そうな顔でこちらを見る。
私が肩をすくめると、シンイーは軽く私の脇腹をつついた。
「それで、何か面白い事は聞けたの?」
「あ、それはもう、たくさんありすぎて……」
「よかったじゃない。司教様の人柄はわかった?」
「はい、少しだけ。……今朝は司教様、ちょっぴり緊張してました」
「へえー。司教様でも緊張するのね」
「うーん……。多分そう言って周りの人を油断させてるんだと思いますけど……」
「でも憎めない?」
「はい」
「あ、エミリアさあ。もしかして司教様に恋しちゃった?」
「ええっ?」
また大きくなりそうな声を必死で飲みこめば、シンイーの瞳の紋が幸せそうに揺れた。
「冗談冗談。それくらいの気合で行かないと、人柄に迫った記録本なんて書けないわよ」
「あ……、はい。そうですね」
その時、風に揺れるように聞こえていた住民たちの声がぴたりと止まった。
静まり返った礼拝堂の後ろのドアが大きく開いて、真っ黒な祭服を身にまとったアオイが姿を見せたのだ。
私は小さくつぶやいた。
「……覚悟は、出来ていたので」
朝の騒がしさが嘘のようだ。
普段の黒のロングコート姿とは一転、アオイは荘厳な衣装を身に着けていた。丈の長い真っ黒な祭服は足元までかかり、上に羽織った黒いポンチョや頭に乗せた冠は、アオイには大きすぎるようだ。
そう。
本当は、アオイにとって司教という役割は不格好すぎる。
アオイの性分を知る限りは、歌を作って音楽を演奏し、住民と気さくに触れ合っている方がよほど合う。
それなのに、アオイは司教であり続けることを決めた。自分が正方形の裏側へ旅立つその日まで、アオイはこの街のたった一人の司教なのだ。
衣装の中に入っている細身の体を思い出し、私はアオイの胸に刻まれた傷に触れた夜のことが、夢か幻かと疑いそうになる自分を制した。
どんなアオイであっても、私は知る覚悟が出来ている。
私は書き残したい。正方形の街と、アオイのすべてを。
礼拝堂の正面をまっすぐ歩くアオイは、何者でもなく自らの足で、自らの意思で正方形の前まで進むと、祭壇に足をかけた。その横顔は凛々しく、それでいて挑戦的な笑みを裏側に隠したような表情に見える。
あのこげ茶色の瞳にだけは、神様の顔が見えているのかもしれない。
そう思わせるように、アオイは一度片方の口角を上げた。
「さあ、歌いましょうか」
アオイは、笑った。
『正方形のクアドラートよ、この街の美しいことよ
神に選ばれし正方形よ、神の作りしこの街よ
私たちは神の御許に生まれ、光に満ちる世界を見た
瞳に浮かぶ紋が輝く時、クアドラートもまた輝くだろう
今私がここにあるのは、顔の見えない神の導き
今私がここにあるのは、瞳に浮かぶ紋の導き』
初めてアオイに会った時の光景がよみがえる。
二人だけの礼拝堂で、まだ誰かもわからないアオイのオルガンに乗せて、歌を歌った。
アオイが作った一番好きな歌。テイラーもお気に入りだった、大事な歌だ。
今、私とアオイの間には大勢の住民がいる。いや、違う。私は大勢の住民の一人だ。
この位置から見えるアオイは、若い事を除けば実に正しい司教。聖歌隊と共に歌い、住民と共に歌い、礼拝堂に響くすべての音を受け入れて微笑む、この街の司教だ。
しかし、私にはわかる。この歌を歌うアオイのどこかには、底知れぬ孤独が付きまとっている。
それは見えない影の形をしているが、きっとアオイはその影に笑うのだろう。
友達になろうと、笑うのだろう。
後奏が鳴り、最後の一音が途切れた頃にアオイは言った。
「実にいい歌じゃあありませんか。まあ、わたしが作った歌だから当然かあ。みなさん、今日はようこそお集まりくださいました」
住民から笑いが漏れて、アオイも笑う。小さい頭の上で冠がずれて、それを直しながら続けた。
「ここで説法をするのは久しぶりだから、何の話をしようかなあと思って、昨日の夜からずうっと考えていたんですよ。それで結局なあんにも浮かばなくて、あなたがたを目の前にして思ったことを話そうと決めたのが、ほんのついさっきのことだ。それでも、あの時そうやって腹をくくった自分をたまには褒めてやりたいと思いますよ。だって、ここから見る景色はとても綺麗だ。どうしてかわかりますか? わからないなら、あなたも周りをぐるりと見渡してみるといい」
アオイに言われるがまま、住民たちは辺りをきょろきょろと振り返る。同じようにすれば、隣のシンイーと視線が合って笑ってしまう。他の住民もそうらしい。所々から笑いが漏れた。
「ほら、わかった人も多いでしょう。瞳の紋がね、色んな紋が混じっていて、とても綺麗なんだ。みーんな違った柄で、色で、形でね。クアドラートがどうして美しいか。正方形だから。五色の地区があるから。神様が作ったものだから美しいのは当然だ。色んな意見があると思いますが、わたしは敢えて言うとするなら、『住民が生きているからだ』と答えますね。その代わり、決してこうは言わない。『五つの地区に分かれているからです』この答えは愚の骨頂だ。きっと神様も、悲しまれることでしょうね」
冠がずれる。アオイは嫌気が差したのか、それをあっさり外してしまった。住民の数名が小さく声を上げるが、アオイは意に介さなない。
「どんな現象も、受け取り手の問題です。目に見えたことをどう解釈するのか。あなたの価値観を作ったのは誰でしょうね。神様? 階級? ファミリア? 紋? それとも、教会? わたしが……わたしたちが望むのは、その問いにあなたがこう答えることだ『わたしは、わたしだ』ってね。それが幸せな人生を送り、幸せに正方形の裏側に行くための唯一の心持ちなんじゃあないでしょうか。あなたはあなただ。誰が何と言おうとね」
礼拝堂は、大勢の住民がいるとは思えないほどに静まり返っていた。まるで、アオイ一人の告白を全員で聞いているような。
それほどまでに誰もが押し黙っていて、こんなにたくさんの住民に囲まれているのに、アオイは孤独の縁に追いやられたように見える。
「……だから歌おうよ。顔の見えない神様なんかじゃあなく、あなたのためにね」
しばらく、礼拝堂の空気は張りつめたまま何の音もしなかった。
少ししてようやく、思い出したかのようにオルガンの音色が空間を覆い尽くした。
住民たちが歌う讃美歌を、アオイは目を細めて聞いていた。
アオイが見上げる先にいるのは、顔の見えない神様ではなかった。
住民たちが引き揚げ、礼拝堂を牧師たちが掃除し始めた頃。
アオイは真っ黒な祭服を着たまま、左右非対称な姿勢でオルガンの椅子に腰かけていた。背中を鍵盤に預ける姿は、いじけているようにも見えれば、掃除をする牧師たちの姿を見守っているようにも見える。
「司教様」
「ああ、エミリア」
アオイの側に駆け寄れば、幾分アオイは疲れた顔で力なく笑った。緊張したというのは、多少なりとも本当だったらしい。なぜか、恥ずかしそうに口元に笑みを浮かべている。
「どうだった?」
「素晴らしかったです」
「そう? それならいいんだ。君の隣に居た女性も、そう言ってた?」
「もちろんです。……あ、見えたんですか?」
「そうだね。君を探してたから」
私が返事に困っていると、アオイはそっとこちらに手を差し出した。儀式のように穏やかなその気配に、私は首をかしげる。
思わず手を取りそうになってから、違うだろうと聞いてみる。
「司教様?」
「君が調べた私のこと、教えてくれるかい? 君のことだから、もうある程度はまとめてあるだろう」
「ええ……あ、はい。でも」
「これは検閲権の行使じゃあなくって、単純な興味だ。君からわたしがどんな風に見えたのか、知りたいって思っただけだよ」
メモを渡すのをわずかに渋った私に、アオイはあっさりと言った。私が何を不安に感じるのか、アオイにはお見通しのようだ。
だから私は、素直にアオイにメモを渡した。私は私で、きっとアオイにこうやって聞かれるんだろうと予想してメモを持ってきたのだ。
812年5月24日
教会の分娩室にて誕生。同年生まれのテイラーと共に、ジョスリンを保護者として零地区の住民となる。出生時の性別は女性。幼少期の性格は明るくいたずら好き。司教就任時と変わらない。
817年
音楽家に配属。きっかけは、説法中の居眠りの罰として投獄されたこと。時計の歯車や鐘の音の異変に気づき、耳の良さを評価され、ジョスリンによって音楽家配属を推薦された。
826年11月7日
パレード中に『紋なき騎士団』による司教襲撃未遂事件でジョスリンと共に襲撃に合う。メレディス、テイラーによって救出され、死亡したジョスリンの体に魂を引っ越す。この際、施術を担当したのは元分娩室所属の医師・ガブリエル。性別・年齢が異なる体への魂の引っ越しが成功。リハビリ期間はガブリエルの保護のもと、肆地区で生活を送る。この頃から、肆地区をはじめ各地区の住民との交流を開始。
827年11月19日
教会へ復帰、その後音楽長就任。テイラーと共に、クアドラート内の各地区の教会にて説法を担当。
830年
2月10日
『紋なき騎士団』による『偽物の歌事件』が発生、冤罪で投獄される。実際は、テイラーと共に『紋なき騎士団』の中心人物であったアヤネによる犯行。投獄時、偽物の歌を作り直し讃美歌を作成。
3月29日
讃美歌の披露直後に、『本物の歌の暴走』が発生。『紋なき騎士団』の混乱が原因とされる。パルヴィーン元司教の殺害を目論んだテイラーの謀反を制止。テイラーの自決を見届けた。
831年
前年に死亡したテイラーの代理として、司教候補に指名される。自らの意思で、牧師の教育課程を受講。カミーユの支援を受け、終了時には成績優秀者となる。
837年4月17日
司教就任。クアドラート史上最も若い二十五歳での就任。住民との個人的な交流から得た情報を活かした統率力でクアドラートを率いる。
838年
4月17日 司教記録本作成決定
10月31日~11月4日 取材実施
「こうして見ると、わたしの人生ってあっさりしてるんだね」
アオイは、私の手元にある自分の人生の年表を眺めて、そんなようなことを言った。
「そうでしょうか? かなり劇的かと思いますが……」
「ちっとも劇的じゃあないよ。テイラーの方が、よっぽどだ」
「ですが、司教様はお一人だけですから」
「それもそうだね」
気付けば、礼拝堂には誰もいなかった。二人きりの空間に私たちの声だけが響いて、消えてなくなる。
「司教様。私、ここへ来る前に司教様に伺いたいことがたくさんあったんです」
「そう? 全部聞けたかい?」
「いえ、全然。でも、結局最後の一つだけを伺えばよいんじゃないかと思うようになりました」
「ふうん。なんだろう?」
アオイは首をかしげると、私の顔を見ながら瞳の鐘を揺らした。今までの私の言動から予想しようとしたのか、それとも私からの問いを待っていたのか。
「司教様が聞いた福音を、私にも教えてください。司教就任がどうして『アオイさん』にとって福音に聞こえたのか。その経緯を教えてください」
「はは、質問は一つじゃあなくて二つだね。まあ、突き詰めれば同じことだけどさ」
そこまで言うと、アオイは真っ黒な祭服のポケットから葉巻を取り出した。先を切って火を灯すと、薬用らしい独特の平たい香りが漂う。礼拝堂に似合わないその様子を、私は戸惑いながら目で追った。
アオイがちらりとこちらを見た時、流れるような視線に、私の心臓が大きく鳴った。
昨晩の月明かりが思い出される。今は隠れた左胸に私は頬を寄せ、アオイの傷口に触れたのだ。
考えが私の顔に出たのだろうか、アオイはわずかに口角を上げた。
「君、先代の見た目を気に入ってるんだね。気持ちはわかるよ」
「い、いえ……。そんなつもりは」
「別に構いやしないよ。ただ、残念なことにこの体には、先代の魂なんてほんのひと欠片もないんだ」
葉巻の端が、燃えていく。その光景をアオイはぼんやりと眺めていた。葉巻で薬を呑むたびに、体と魂はぴたりと一つになるはずだ。
しかし、そうなってしまえば最後、ジョスリンとアオイの境目は消えてしまう。ジョスリンは、消えてしまう。
それを憂いているような瞳で、アオイはただ、香りの先を追っていた。
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