5-2. 最後の福音

「テイラーが自分の出生の秘密を知ったのは、わたしを追いかけて書庫に入った時だったそうだよ。わたしは何にも知らずに歩いてただけなんだけどね。きっと、何者でもない何かが……わたしが、テイラーを書庫に導いたんだ。

 テイラーは、何気なく見つけた出生名簿で、わたしの名前を探したんだって。大した記述量じゃなかっただろうけど、見つけた時は嬉しかったってさ。……だから、自分の名前が名簿のどこにもなかった時、時計台の上から地べたに叩きつけられたみたいな気分になったって言ってたよ」


 神様に一番近い場所、尊い正方形の中心。礼拝堂の中を、葉巻の香りが流れていく。こげ茶色の瞳の中で、鐘の紋がそれを見つめていた。


「それからテイラーは、自分の出生につながる情報を探し始めたんだ。書庫に入り浸っても自然に見えるように、書類の整理をするんだってみんなに言ってね。

 しばらくして、分娩室の人員名簿と給与明細の記録を探り当てた。そこで、自分が生まれた時に分娩室にいた人たちが、大量の退職金と共に全員解雇されたことを知ったんだ。その中に、前から知っていたゲイブも入ってた。分娩室で働いてたなんて、一度もわたしたちには言わなかったのにね。

 ……テイラーは、わたしよりずっと前から街での情報集めをやってた。その情報網を使って、分娩室の全員の居場所を突き止めて集めて、話を聞いたらしい。内容は知ってる?」


「ええと……。生まれた時、テイラー牧師の瞳に紋がなかったこと。不吉な子どもを出産したとして、テイラー牧師を産んだ誰かが処分されたこと。テイラー牧師の瞳の紋は刻まれたもので、浮かび上がらせるために薬が必要なこと。……そのすべてを知っている分娩室の面々が解雇されたこと、テイラー牧師と同時に同じ人から生まれた誰かがいること」


 アオイは視線だけで私を見た。その口元には、葉からしずくが落ちるような、潔さと曖昧さが浮かんでいる。


「テイラーは、出生名簿に名前を書いてもらえなかったし、産んだ誰かが殺された。まるで、クアドラートに拒絶されたような気分がしたんだってさ。だから、処分を決めたパルヴィーン司教を恨むようになった。

 だけどね、紋がない自分の居場所が教会以外にないことも、十分わかってた。だってその時には、司教候補になってたんだからさ。

 下手に賢いと、悩みが多くていけないね。わたしはずっとテイラーの隣に居たのに、なあんにも知らないで暢気に過ごしてたよ。だから、テイラーがアヤネと一緒に紋なき騎士団を作ったことにも気づかなかった。

 テイラーは、参や肆地区には自らの解放を謳い、壱や弐地区には他の地区との資源共有による富を謳った。階級を失くすための活動家っていうのは少なくないけれど、テイラーほど適任な人はいないさ。

 みんな色んな理由で紋なき騎士団に参加して、お互い顔も名前も知らない仲間同士で色んな犯罪を繰り返して、826年にわたしとジョスリンを撃ち落とした」


「……ジョスリンさんとは、馬車の中でどんなお話を?」

「他愛もない事さ。前の日、わたしはジョスリンの部屋に遊びに行っていたからね。その時の話とか、パレードの話とか、まあ、大したことじゃなかった。だってまさかあれが、ジョスリンとのお別れになるなんて思ってなかったからさ」


 幼いアオイと、若きジョスリンに起きたこと。日記に書きこまれた、誠実で混沌たるあの告白。二人の間に流れた沈黙を、私はほんの少しだけ知っている。

 けれど、あの神聖な告白を口に出すのは恐れ多かった。言葉を飲み込んで、別の疑問符を投げかける。


「ええと……。パルヴィーン元司教を標的にしていたのは、紋なき騎士団にしてみれば階級を失くすための手段だったのかもしれませんが……。テイラーさんにしてみれば、個人的な恨みを晴らすためと言った意味合いの方が強かったんですか?」

「だから二度もパルヴィーンを狙ったんじゃあないかな。それに、強力なヤキモチ焼きもテイラーの味方だったし」


 それがアヤネのことだとは、問わずとも理解出来た。アヤネの行動原理はたった一つ。テイラーの一番になりたい。それだけだった。


 アオイは私の方を見て、秘密を打ち明けるように笑った。目じりがわずかに下がっている。

 その時初めて、私の目にはアオイが一人の少女に見えた。


「わたしがこの体に引っ越したってのに、どうしてもアヤネはわたしのことが許せなかったんだろうね。へんてこな歌まで作って、わたしのことをやっつけようとしたんだからさ。

 酷い歌だったな。突飛な音の動きがあったり複雑な旋律があったり、誰にも覚えてもらえない可哀想な歌でね。あんな歌作った覚えはないんだけど、わたしはアヤネの望み通り投獄された。

 だからテイラーには、あの歌の手書きのスコアを三日かけて探すように頼んだんだ。わたしが作った歌なら、必ず手書きのスコアがある。それをテイラーが三日も探して見つけられないなら、そんなもの存在しないのと同じだからね。司教も周りの人も納得させる、いい材料になるって思ったんだ。

 テイラーは、私の身の潔白を証明するって意気込んで出かけて行ったよ。……テイラーには答えがわかってたんだろうし、実際には探してなんかいないだろうけど。

 わたしは、偽物の歌事件で投獄されている間、この可哀想な歌を何とかしてやりたいと思って、音源と五線譜とペンを取り寄せて毎日曲を書き直していたよ。音の流れを滑らかに、音の粒をはっきりと。歌いやすく覚えやすく、みんなに愛される歌になるようにって」


「……ブリジッタさん、驚いていらっしゃいましたよ。冤罪で投獄されたのに、あの歌を認めて作り替えて、ガブリエルさんのための歌に作り変えてくれたって」


 アオイはまた、葉巻をゆっくり吸った。言葉も一緒に、香りの中に消えていく。アオイの黒い衣装に太陽光が当たって、細かな織りがきらきらと輝いている。


「生まれて来たものに、罪はないからね」


 歌だけではない。

 それは、紋のない瞳で生まれてきた、テイラーのことのようにも思えた。


「数日間の投獄で、私が偽物の歌と向き合った結果思ったのは、『この歌を作った誰かは、歌を歌ったことが無いに違いない』ってことさ。

 まあ、アヤネのコンピューターが作った歌だったんだから、結果としては正解だね。息継ぎも覚えやすさもすべて無視した歌は、確かに讃美歌として正しいところもあるんだけれど、全体的に魂がないと言うか、人の気配がなかったんだ。

 だから、釈放された時にわたしは司教に、『この歌はコンピューターみたいだ』と言ったよ。今となっては、テイラーもびっくりしただろうね。私が投獄されている間、テイラーはアヤネと、偽物の歌を暗号にするためにあれこれ苦心して、仲間内に広めていたそうだから。わたしが偽物の歌を本物の歌にしちゃったことで、仲間内に混乱が広がると焦ったらしい。

 でも、残念ながらテイラーは、わたしの二十四時間監視を命じられてね。わたしたちは二人で、クアドラート中のコンピューター会社に捜査に行くようにパルヴィーンに言われた。テイラーにしてみれば、相手が悪かった。よりによって、わたしと常に行動しなきゃあいけなくなって、仲間たちとの連絡が出来なくなってさ。アヤネに状況を伝えられなくなったんだ」

「よりによって?」

「そう。だって、相手がわたしじゃあなかったら、隙をついてどこかへ行くくらい、テイラーにとって大したことじゃあなかっただろうから」


 そこまで言って、アオイは片方の口角を上げて笑った。いや、その顔は笑っているようで、瞳の奥から私をじっと見つめている。

 だから私は、アオイの話を必死に頭の中の年表に叩きこむ。


「……と言うことは、コンピューター会社の捜査中に、偽物の歌を作り替えたものを、ガブリエルさんに聞かせたということですね?」

「そう。……わたしがあんなことしなかったら、ガブリエルは死ななくて済んだかもしれないね。曲を聞いたガブリエルが死んだから、テイラーは『あの歌は不吉だから、流すのは止めよう』って必死に言うんだ。まあ、ここまで聞いてればテイラーの本心はわかるだろう? 曲が流れたら、パルヴィーン司教暗殺の準備をしている仲間たちが混乱して、変に動き出しかねないから」

「でも、結果として、曲は流れました」

「ああ。ガブリエルの弔いになればと思って流したんだ」

「その時司教様は、偽物の歌を作ったのはアヤネさんだとお気付きだったんですか?」

「……さあ。どうだったかな」


 アオイは長い足を組んで、ぶらぶらと揺らした。子どもみたいな仕草の中で、話す話題は物騒なままだ。


「ただわたしは、誰かに弐地区の監視をしてもらえるようテイラーに頼んだ。弐地区にはアヤネがいたからね。何か動きがあるんじゃないかと踏んでた。……でも、結果は違った。紋なき騎士団が混乱したんだ。全員が、持ちうる武器を使って辺り一面を壊してしまった。街中は騒然として、逃げまどう人や倒れる人、大泣きする人であふれかえったそうだよ。

 わたしとテイラーはちょうどここにいたんだけれど、弐地区から帰ってきたカミーユが、テイラーの顔を見て『ご無事でしたか! よかった!』って叫ぶんだ。テイラーにそっくりな人が弐地区で死んでいたから、大慌てで帰って来たって。

 それを聞いて血相を変えたのはテイラーだ。自分によく似た顔、弐地区っていうだけで、誰のことかはわかるよね。単独行動が許されてないのに、テイラーは飛び出して行こうとした。

 わたしはテイラーを止めたんだけど、その後テイラーはパルヴィーンにいきなり銃を構えた。紋なき騎士団が終わりを告げて、自分一人でパルヴィーンを殺さないといけないって思ったんだろう。『正方形の裏側に落ちろ!』って、大声で叫んでた。

 惜しいところまで行ったんだけど、残念ながらわたしがそばにいた。テイラーをねじ伏せて、どうしてこんなことをしたのかって聞いた。……それが、今話したことだよ」


 そこまで言って、アオイは力なく鼻で笑った。


「……なんてね、冗談さ。話が長すぎる。どう? 上手な説法だっただろう? 本当のことに聞こえた?」

「聞こえました。きっと、司教様がご自身でお調べになったことと、テイラー牧師からの話とが、混ざり合っているのでしょうけれど」

「……ご名答」


 そのまましばらく、アオイは黙って葉巻を吸った。ほんのわずかな煙が宙に浮いて、大理石の床にぼんやりと影を落とす。


「テイラーは、大きな功績を遺したよ。ないはずのものをたくさん見せてくれた」

「ないはずのもの?」

「正方形を折りたたむ話、使いやすい書庫、教会を標的とした大規模犯罪、異性間での魂の引っ越し。……自分を産んだ誰かを思って、同じファミリアの住民に銃を向けた牧師。テイラーがいなければ、存在しなかったものばかりだ」


 初めて私がアオイに会った時。私が書いた企画書を褒めてくれたアオイは、こんな風に言った。


『ないはずのものを見つけ出すのって、実はとっても難しい』


 正方形の、クアドラートの街。五色の価値観に包まれた、美しい街。

 正方形を形作るのは、一体何なのか。

 住民を、私を、アオイを、テイラーを。

 形作るのは、一体。


「……司教様がテイラー牧師のことを調べてみようと思ったきっかけは、何ですか?」

「彼が名前を付けたんだ。『司教襲撃未遂事件』って名前をさ。動機なんて誰もわからないはずの事件に、敢えてそう名前を付けた理由が知りたくて、テイラーの近辺を探し始めた。たったそれだけのことさ」


 アオイは小さく息を吸った。そうして、深く深く言葉を吐いた。


「わたしはずっとテイラーの隣に居たのに、彼のことをちっとも知らなかったんだ。何も知らなかったから、判断出来なかった」


 誰かに手を引かれるように、アオイは立ち上がった。体重が無くなってしまったかのように、その体はふわりと浮かぶように見える。

 神様がアオイを連れて行ってしまうのだろうか。不安に思えるほどおもむろにアオイは歩いていき、祭壇の前、正方形の前で立ち止まる。

 そうして、床を眺めてわずかに笑った。まるで視線の先に、テイラーがいるかのように。


「テイラーは、紋がない自分も、紋があるみんなもクアドラートの街も、全部嫌になってしまったんだ。……でも、わたしは違った。瞳に紋がなくたって、わたしはテイラーのことをちっとも嫌いにならなかったよ」

「……テイラー牧師には、そのことをお伝えしたんですか?」


 アオイは少しだけ黙った。どこかにいるテイラーに、言ってもいいかと確かめるかのように。それでも、アオイは答えてくれた。大事な思い出を、つまみ上げるみたいに。


「テイラーが座り込んでた。ちょうど、この辺りだ。ここでわたしは、テイラーに銃口を向けたんだ。手元は震えてたよ。わたしにも、テイラーにもわかるほどにね。あんなこと、初めてだった。テイラーは、座り込んだまま私を見上げたんだ。


『僕には紋が無いけれど、紋の代わりに君がいた。君が僕を導いてくれた。君の言葉は、いつだって僕の福音だ』


 オルガンは鳴らない。讃美歌も聞こえない。それでも、それは舞い降りたんだ。わたしのところにね。


『アオイ、僕に最期をくれないかな。そうしたら、僕が君を導くから。僕の死が、君に福音をもたらすから』


 何言ってんだって思った。だって、たくさんの人を傷つけたのもジョスリンを殺したのもテイラーなんだから。でもさ、もう、わたしたちは来るところまで来てしまったんだ。正方形の裏側が、すぐそこに迫っていたよ。


 わたしはテイラーの前にしゃがみこんで、銃口をそっとテイラーに近づけた。テイラーは何も言わなかったよ。ただ、口が小さく『ありがとう』と動いたのが見えた。大理石の床は冷たかった。服の上からでも伝わるほどに、冷たかった。


 その時だった。わたしの手元の銃口を、テイラーが自分の口に押し込んだんだ。でもさ、ちっとも実感が沸かなかった。夢の中みたいな、よく出来た絵みたいな、平べったい世界に見えた。それなのに、酷く生々しかったよ。銃を持つわたしの手に、テイラーの手が重なってさ。肌は柔らかくてあったかくて、冷え切ってた。

 テイラーの歯がわたしの銃に触れて、カチカチ音が鳴ってた。吐息が漏れてた。紋のない瞳からは、ぼろぼろ涙を流してさ。……わたしはただ、決めたんだ。


『アンタが導くなら、どこまででも行ってやるよ。それが、正方形の裏側だとしても』


 テイラーは笑った。でも、生き残らなかった。自分で引き金を強く引いた。私の手と一緒にね。目の前で血が弾けて、テイラーの口から血があふれた。二発目が鳴れば、テイラーの体からは力が抜けた。最後の一発を撃ったのはわたしだ。

 血まみれのまま撃った。自分の腕の中で真っ赤に染まるテイラーを、わたしはただ抱きしめるだけだったよ」


 そこまで話すと、アオイは小さくため息をついた。そうして、ほんのわずかに口角を上げ、たった一人の世界でつぶやいた。


「……あれは福音だ。わたしの人生最大にして最後の、福音だ」


 手のひらに残るぬくもりを、アオイは宝物のように握りしめた。


 今もアオイの足元には、テイラーの温かな血だまりが残っている。

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