第2章 幸福な人質たち

2-1. 説法とアイスクリーム

──私たちの瞳に浮かび上がる紋は、私たちを正しいファミリアに導き、正しい人生を歩むための神からのお導きなのです。しかし、それでもなお私たちは淀みを拭い去ることは出来ず、過ちを犯し、人を恨み、怠惰な生き方をしています。


 本来、神の前に人はみな平等です。しかし、それでも階級がこの街に存在するのは、私たちの淀みが晴れないからです。瞳に浮かぶ紋が導くままに、健やかに生活を送ること。神に感謝し祈ること。私たちが生涯をかけてするべきことはいたって簡単。たったそれだけなのです。


 みなさん、頭の中にクアドラートの地図を思い描いてみましょう。それを、まずは半分に折ります。きちんと、角と角を重ねて。さあ、折れましたか?

 折り方によって重なり合う地区は違うと思いますが、長方形になっていることでしょう。さて、そこでもう一度その長方形を折りたたんでみます。地図は小さくなりましたが、また同じように正方形になりますね。

 これが、神様の視点です。

 神様というのは、我々が空と呼ぶよりもずっと上からクアドラートの街をご覧になっています。その位置から見れば、この地図のようにどの地区にも違いなんてないのです。


 つまり。つまりは。神様からすれば、どの地区に生まれた住民もすべて、住民という意味では同じです。階級もファミリアも関係ない、クアドラートの住民です。

 住民が背負う淀みがすべて消え去れば、いつか我々の世界からも階級が消え去り、神様と同じ視点を得ることが出来るでしょう──



 「実に困った人なのですよ、司教様は」


 カミーユは真面目な口調を崩さずに、それでも手元のチョコレートアイスには舌鼓を打ちながら、私に語ってくれた。


「今日の説法をご覧になりましたよね? ああやっていつも、説法は僕にやらせてオルガンばかりお弾きになるのです。それに、今みたいに突然どこかへ行ってしまったり、夜中に抜け出して朝まで帰って来なかったり、本当にもう大変で……。こちらの身にもなっていただきたいものですよ」


 アイスが口に合ったらしい。カミーユは目を大きく見開いてまっすぐ言った。


「美味しいですね」


 素晴らしい真理を見つけたような顔で言われるにしては、小さな話題のつもりだった。しかし、それでもカミーユが真面目な顔に幸せそうな笑みを浮かべているから、新聞記者をしていてよかったとなぜだか私は思ってしまった。


 先程まで、私はアオイとカミーユの弐地区訪問に同行していた。アオイは歴代の司教のやり方を放り投げて、司教になった今でも時々、どこかの地区の説法に顔を出している。

 今日はまず弐地区での説法。この後には参地区での相談会、その後は某地区の議員の来訪が予定されている。


 弐地区は自然が多く、居住や頭脳労働に良い環境ということもあり、オフィスビルやマンションが多い賑やかな地区だ。

 私の故郷にも労働者は多いが、裁判官や政治家など、昔からある古めかしい仕事をしている人が多い。それに、労働者はすべて壱の住民だ。


 弐地区の場合は、比較的新しい仕事を生業とするファミリアの住民が多いこともあってか、別の地区の住民を多く見かける。

 例えば、コンピューターに関する仕事場では、壱から肆まですべての地区の人が一緒に働いていると聞いたことがある。

 普段、壱地区の住民とばかり仕事をしている私には、想像も出来ない世界だ。


 そうして今、私はカミーユと共にアイスクリームを食べにカフェに入った。

 説法が終わってすぐにアオイはどこかへ行ってしまったので、参地区への移動までの間、カミーユの愚痴を聞くことでアオイの人柄を聞き出そうと思ったのだ。


「僕が聞いた話では、司教様は昔から、ひとりで街を散策なさるのがお好きだったそうですから、心配はしていないのですが……」

「それでも、カミーユさんの立場としては心配ですよね?」

「ええ。本当に困った人ですよ、司教様は」

「カミーユさんは、司教様と長いお付き合いになるんですか?」


 私が聞いてみると、カミーユは遠慮がちに首を横に振った。


「いいえ、違います。僕にとっては長いのですが、司教様の人生の転機がほとんど終わってからのお付き合いですから、司教様にとっては大した馴染みではないと思われます」

「と、おっしゃると?」


「零地区の住民、聖職者には色々な役割があります。牧師に音楽家に画家、整備士や治安維持部隊もいます。だいたい五歳くらいで役割に配属が決まって、それに合わせて教育を受けるのです。普通は、役割が変わることはありません。特に牧師は、住民の皆さんと接点が多いですし、将来司教になる可能性がある役割なので、一度配属されれば、一生牧師のままです。僕もご覧の通り、牧師として配属されて、以来ずっと牧師をしています。司教様の配属は音楽家でしたので、まず公式な組織体における接点がありませんでした」

「年も離れていますしね」

「はい。僕と司教様の接点は、テイラー牧師が亡くなって、司教様が司教候補として公式に指名されたところから始まるのです」

「なるほど」


 私は手元のメモにカミーユの話を手短に書き出して行った。カミーユはアイスクリームを食べながら続ける。


「司教様は、牧師としての教育を受けておられませんでしたから。基礎教育だけは済ませておいた方がいいだろうということで、自ら志願して僕たちと同じ教育をお受けになっていました。司教様が二十歳程、僕が十一歳か二歳程の頃のことです」

「教育を一緒に受けていた間の司教様は、どんな様子でしたか?」

「基本的には、あなたがご覧になった様子と変わりありません。いつも楽しそうで、周りの人にちょっかいを出したり心配させたりしながら過ごしていました。……ただ、勉強はあまり得意ではなくて。そこで、比較的成績がよかった僕が、司教様の面倒を見ると言いますか、勉強を教える役に任命されました。今も司教様の側にいるのは、その時の名残です。司教様は不思議な人で、音楽家たる要素なのかもしれませんが、文字を読んでも何も覚えられないのですが、誰かが音読さえしてくれれば、何でも覚えられるのです」

「それはまた……変わった特技ですね」


 返事をしながら、私はいくつかの出来事を思い出した。私の企画書の一部や『司教記録本に係る取り決め』の一節を、アオイはなんの苦も無く諳んじていた。

 つまり、あれも誰かがアオイに読み聞かせてやったのだろう。


「ええ。ですから、僕が教科書を一通り音読しました。説法も同じです。僕が読み間違えて言い直すところも覚えてしまうので、かなり苦労しましたが。今では誰よりもお上手に説法をなさいますから、オルガンばっかり弾いていないで、もっと説法もしていただきたいのですが……。元は音楽家ですから、仕方がありませんね」

「カミーユさん、司教様のよき理解者なんですね」

「いいえ。僕なんて、大したことはありません」

「そうですか? 司教様は、カミーユさんのことがお好きだと思いますよ」

「それは嬉しいですね。ですが、僕としては、司教様がもう少し落ち着いて下されば、気がかりも減るのですけれど」


 カミーユは、苦笑いを浮かべてから続けた。


「とは言え、司教様が落ち着いてしまったら、酷くつまらない毎日になるのでしょうね。……テイラー牧師の件は残念でしたが、その身を持って司教様を導いたのだとすれば、出来事のすべては神様のご意思なのでしょう。明らかに『アオイさん』は『司教様』には向いていませんが、こうなった事実の重さを一番に理解していらっしゃるのは、ご本人だと僕は思っていますよ」

「だから司教様は就任時に、『人生最後の福音』とおっしゃったんでしょうか」


 するとカミーユは、ふと目を伏せて黙り込んでしまった。それまでの、牧師らしい穏やかながらも流暢な言葉運びがもつれて、倒れ込んでしまったかのように思える。

 テーブルに視線を落としたまま、カミーユがぽつりぽつりと口を開いた。


「……エミリアさん。僕は司教記録本作成支援担当です。『司教記録本に係る取り決め』に何が書いてあるかも知っています。情報開示に拒否権がないのも知っています」


 テーブルに置かれた手が、小さく震えていた。彼が言わんとすることを察して、私はうなづいた。


「大丈夫ですよ。まだ時間はあります。無理に話を聞き出そうなんて、思ってません」

「……申し訳ありません。覚悟はしていたのですが、いざ話そうとすると、難しいですね」


 ようやく顔を上げたカミーユは、ほんのわずかに目元に涙を溜めていた。それに気づいたのか、彼は慌てて目元をぬぐう。


 目のやり場に困って窓の外を見れば、随分と上機嫌な顔をして、こちらに手を振る手足の長い男の姿が見えた。


「……あれ? カミーユさん、司教様が」

「えっ!」


 立ち上がろうと中腰になったカミーユの様子に、アオイは笑いながら店内に入ってくる。

 コートを弾いて席に腰かけると、私とカミーユの顔を見比べて明るい声で言った。


「カミーユよかったじゃあないか。君ずっと、同い年の友達を欲しがってたよね」

「そう、ですが……」

「ほっぺに傷のある牧師を見なかったかって、街の人に聞いたらここが見つかったんだ。可愛い女の子と一緒にアイスを食べてるって!」

「司教様!」

「あはは、ごめんごめん」


 顔を真っ赤にしたカミーユの頭を雑に撫でると、アオイはそのままの勢いで立ち上がった。

 何のためらいもなくカフェに入ってくる様も、伝票を手に取って会計に向かう後姿も、あまりにも自然で街に溶け込んでいる。

 まるで、どこかの地区で暮らすただの青年のようだ。


「司教様! ここは僕が払いますので!」

「いいのいいの」


 慌てて駆け出すカミーユの後を追って、私も同じように二人と一緒に店を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る