1-3. 二つの年
その後、カミーユは私を部屋まで案内してくれ、彼の仕事へと向かった。
一人になって部屋の鍵をかけた瞬間、私は糸が切れたみたいにベッドに飛び込んだ。眠気に引き込まれそうだったから、急いで起き上がってポケットの中の録音機を取り出す。
この仕事のために新調した録音機は、数倍速で再生が出来る。
早速音を聞いてみると、その時々の感覚が思い出された。すでに過去になった今日を頭に浮かべながら、ノートにペンを走らせる。
礼拝堂でオルガンを弾く姿。こちらを見て無邪気に笑う姿。友達になろうと言った声。私の緊張をほぐそうとする気遣いに、周囲の牧師たちへのちょっとした感謝の言葉。
年表だけでは分からない彼が、私のノートの上に踊る。
一通りを書き終えると、私は今までに調べ上げた司教に関する情報のいくつかに目を通した。
通常、司教でもならない限り、聖職者個人の名前が新聞記事などの記録に残ることはほとんどない。
しかし、『アオイ』という名前は、彼が司教に就任するより前に記録が残っている。だからこそ、私は事前に年表を書くことが出来たのだ。
ただもちろん、記録が残るのはこの二つの年号に偏っている。
──826年11月7日、パレード中に、紋なき騎士団による『司教襲撃未遂事件』で重傷。奇跡的に生還
──830年、紋なき騎士団による『偽物の歌事件』及び『本物の歌の暴走』発生。テイラー牧師のパルヴィーン司教(当時)への謀反を制止
それほど情報量が多いわけではないが、それでも、彼の人生に渦巻く要素はあまりにも多すぎて目が回りそうだ。私はしばらく、自分が持ち込んだ資料を読みふけっていた。
数倍速で聞いていた録音の音源は、気づけば止まっていた。
「ふうん、君って面白い字を書くんだね」
空から降ってきた声に顔を上げると、司教が嬉しそうな顔で笑っている。何が起きたのかわからず、私は口をあんぐりと開けたまま彼の顔を眺めていた。
「ごめんごめん。さっきからドアを叩いてたんだけど、なーんにも反応がないから心配になっちゃってね。びっくりしたかい?」
「そ、それはもちろんそうですが……」
鍵を閉めていたはずなのにという疑問符は、彼の笑顔にかき消されてしまう。
「すごいな! 君、わたしのことについて本当にあれこれ調べたんだね。どの新聞よりも君のメモが一番詳しい気がするよ」
「も、もちろんです! 記録本の企画を考える時に、新聞の記録と文献に目を通して、紋が擦り切れるくらい必死に司教様の名前を探しましたから」
私は急いでベッドから体を起こし、姿勢を正して答えた。それに対して司教は、友達の部屋に遊びに来たような雰囲気でベッドに腰掛けている。
「ねえ、エミリア。君は当然、新聞社の人たちにもわたしのことを聞いたよね?」
「ええ、もちろん」
「みんな、わたしのことをなんて言ってたか教えてくれないかい?」
随分とくつろいだ口調だが、司教の視線が私を貫き、思わず私は身を強張らせた。それは既に、司教に伝わっていたらしい。
「別に、悪口を言われてたって傷つきはしないよ。わたしみたいな立場になっちゃうと、住民の声を一対一でじっくり聞ける機会なんて滅多にないからさあ」
柔らかな笑みを口に浮かべる司教に、私は静かにうなづいた。それからノートのページをめくる。司教記録本の担当記者になった時、新聞社の記者たちから聞いた話をまとめたものだ。
「えっと……。『取材でお会いした時はお喋りで助かった。にこにこしてると思えば急に小難しい話をする、面白い人』とか、『取材した政治家から聞いた話では、頭が切れる厄介者という声が出ていた』、それから『顔に傷のある牧師と、よくアイスキャンデーを買っているのを見る』」
「ああ、それはカミーユのことだね」
司教が愉快そうに目元に笑みを滲ませる。だから私は、次のメモを読もうか躊躇い、結局口にした。
「少し物騒な噂ですが、『実は狙撃手で、捕り物現場の上にいる警察のうちの一人が、司教様だ』とか……」
「へえ、それはいいね。他には?」
あっさり流されたのに拍子抜けして、私はまた続けた。
「政治担当の人たちが言ってたことですが、『治水工事の権限移譲や詐欺師グループの摘発など、裏で動いたのは司教だという話だが、そんなこと出来るように見えない。あんなことが無ければ司教にはならなかった、普通の青年に見える』とか……。あ、それと『顔が整っていたのは覚えているが、どんな顔だったのかは思い出せない』っていうのは、一番よく聞きました」
すると司教は口角を片方上げながら、愉快そうに笑った。
「みんな好き放題言うなあ」
「無礼をお許し下さい。でも、みんな司教様のことを尊敬していました。若くして色々な功績を成し遂げて、立派に司教の役割を勤めている人だって」
「そりゃあ嬉しいね。頑張った甲斐があったよ」
そこまで言うと、司教は長い足を組んでこちらに笑いかけた。
「それで君は、どんな風に取材をしたいんだい? わたしが協力出来ることがあれば言ってよ。遠慮はしちゃあいけないよ」
「ありがとうございます! もし出来るなら、司教様ご本人と、それぞれの年代の司教様をご存じのかた数名に、お話を聞きたいと思っています」
「へえ、そりゃあいいや。それぞれの年代っていうのはどういう意味?」
「ええと……」
そこで私は、会議中に読み上げた年表を司教の前に開いた。私の適当な手書きの文字が恥ずかしかったが、今はそんなことも言っていられない。
「恐れ多いのですが、司教様の人生は大きく分けて三つに分かれると思うんです。お生まれになった812年から司教襲撃未遂事件が起きた826年、それから偽物の歌事件と本物の歌の暴走が起きた830年までと、司教候補に指名されてから今まで。この三つです」
「そうだろうねえ。わたしもそう思うよ」
「本当ですか? よかった! もちろん司教様にはすべてお話いただきたいのですが……。それぞれの年代で、どなたにお話を伺うのがいいか教えていただけませんか?」
すると司教は、自分の人生をなぞるように年表を指さしながら答えた。
「わたしが小さい時のことは、メレディスが知ってる。司教候補に指名されてから今までのことなら、カミーユが詳しい」
「メレディスさんと、カミーユさんですね。……では、この826年から830年の間はいかがですか?」
「いないね」
「いない?」
「ああ。残念ながらもう誰もいない。だからここについては、わたしが話してあげるよ」
「え……」
「本人に聞くのは嫌かい?」
戸惑いが私の顔からこぼれ落ちたらしい。
司教は私に幾分柔らかな表情で微笑みかけると、私の頭をそっと撫でた。
「エミリアは優しいんだね。わたしに、二つの事件の話をさせるのが辛いんだろう? 少なくとも、今の情報量で聞くのは怖いと思ってる。わたしから聞いた話を自分で理解して書き残すには、情報が足りないと自覚してるから。違うかい?」
「……おっしゃる通りです」
「君はとても優しいし、疑い深い」
次の瞬間、彼の表情の隙間から鋭い光が顔をのぞかせた。
ほんの少しの光なのに、それは私を貫く。
何が起きたのかわからず、私は息を飲んだ。見間違いだったのだろうか。
底知れぬ闇と光が顔をのぞかせて、そんなこととは素知らぬ風に、彼は笑った。
「とってもいい事じゃあないか。判断基準を人に委ねるのが嫌なんだろう? わたしはそういう人が好きだよ。だから君を選んだんだ」
「あ……。ありがとうございます」
「どうしたの、ぼけっとして。あ、まさかわたしの顔に見とれたんじゃあないよね?」
「そっ! そんなことは!」
司教は、顔を真っ赤にして首を横に振る私に大笑いをした。
そうして私の頭をわざとらしく大きく撫でた後で、こちらを覗き込んでゆっくりと言った。
「エミリア。わたしは、君になんでも話す覚悟が出来てる。だから君も、わたしのすべてを知る覚悟でいてほしいんだ。君が知った分だけ、わたしは話をしよう。君が残したいことを残すには、それが一番いいと思うんだ」
「はい、わかりました。正方形と神様に誓って」
すると司教は首を横に振った。私の両肩に正面から手を置いて、まっすぐ私と向き合う。
司教の瞳の紋に、私の顔が映っている。
きっと私の瞳にも、彼の顔が映っているだろう。
司教は、もう一度言った。
命を吹き込む儀式のように、ゆっくりと。
「そうじゃあないよ、エミリア。わたしだけに誓ってくれるかい?」
「あ……。はい。司教様」
「ありがとう。これはわたしにとっての希望だ」
覚えていないはずの光景が脳裏をよぎる。
生まれる前のことだ。
きっと顔の見えない神様は、こんな風にクアドラートの住民一人一人の顔を覗き込んで、瞳に紋を浮かべるんだろう。
しばらく私が惚けていると、司教は明るく笑って立ち上がった。
「そうだ、せっかく教会に来たんだから、いいものを見せてあげるよ」
「いいもの?」
「うん。その代わりに、一つお願いをしてもいいかい?」
「なんでしょう、司教様」
「記録のことなんだけどさあ。わたしのことを書く時は、司教じゃあなくってアオイがいいなあ。だめかい?」
「え、あー……。そうですね、司教様のご希望であれば、そのような注釈をつけて書くことは出来ます」
「よかった! それじゃあ、よろしくね」
したがって、私は今後司教のことを、自分のメモの中でも彼の名前で記録することにした。
性別がわかりにくい曖昧な名前。ファミリアすらつかない、単純な名前。それが、零地区の彼らが持つ名前の特徴だ。
ご多分に漏れず、アオイもカミーユも他の牧師も、文字に書いてしまうとその輪郭がぼやけてしまうような名前を持っていた。私は、それが残念で仕方がなかった。
だから、またいつか零地区にアオイという名の聖職者が誕生した時、自分と同じ名前の聖職者のことを愛おしく思えるほどに、その記録を鮮明に残そうと思ったのだった。
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