1-4. 空飛ぶバイク
アオイの足音は踊りのステップに似た響きがする。廊下を抜けて軽やかに階段を駆け上って行くと、宝物でも見せるように扉を開いた。
屋上に繋がる扉だったらしい。日が傾いた空では、昼と夜が混じり合っていた。屋上に出て見上げれば、どこまでも高く伸びる時計台がすぐそこに見える。
「いくら君が壱地区の住民でも、牧師が運転するバイクに乗ったことはないね?」
「あ、はい。ありません」
「あったらびっくりだ。ええと確か……『また、聖職者が同乗する場合に限り、権限外の移動手段の利用を許可する』だったかな。じゃあ、大丈夫だね」
屋上に並ぶバイクの間を慣れた様子で歩いていくと、アオイはそのうちの一台に腰を下ろして私に笑いかけた。
「それじゃあ、行こうか」
「え?」
「ほら、後ろに座ってよ。座ったら、わたしの腰にしっかりしがみついてごらん」
戸惑いながらも、私は言われるがままアオイの後ろに乗り込むと、恐る恐る腰のあたりに手を添えた。
「もっとぎゅうっとしていいよ。これくらいで折れちゃうほど、この体はひょろっこくはないからね。ちょいと失礼!」
「きゃあっ」
思わず出た声に、私は慌てて口をつぐむ。アオイが私の両手をぐいと引いて、自分の腰にしっかり巻きつけたせいだ。それから、彼のコートのベルトを私の手に握らせると、満足そうに笑った。
「ははは、まるで恋仲のようだね! 離れちゃあいけないよ、お嬢さん」
「あ、ええと、はい! わかりました!」
私の返事を確かめると、アオイは駐車場の先にある坂道に向けて勢いよくバイクを走らせた。
加速していくバイクの揺れで、いやおうなしに私はアオイに体を寄せる。慣れない風圧に、私は目を閉じて耐えた。
「そうだエミリア! 高いところは好き?」
「え?」
「苦手って言っても、もう遅いんだけれどね」
その言葉に目を開くと、坂道の先がぷつりと切れているのが見えた。しかし、アオイは速度を落とさない。むしろ上げていくばかりだ。
「ほら、行くよっ!」
空中に向けてバイクが飛び込んでいく。私はもう一度咄嗟に目を閉じた。次に来る重たい引力に耐えようとした。
しかし、次に訪れたのは静寂だった。地べたとタイヤのこすれる音もしなければ、エンジンをふかす音も聞こえない。
「エミリア、ごめんよ。ちょっと苦しい」
「しっ、失礼しました!」
力を込めてアオイにしがみついていたらしい。慌てて腕を緩めると、細いアオイの体がわずかに脱力したのがわかった。
「目を開けられる? 怖いかなあ」
「いえ……。大丈夫だと、思います」
「そっかあ。それなら、ぜひ開けるといい。ここがわたしの、お気に入りの場所さ」
アオイの言葉に促されて、私は恐る恐る目を開いた。
眼下に広がる光景に、私は息を飲んだ。心臓が大きく一度鳴るのを、確かに聞いた。
こんな景色、見たことがない。
夕暮れの下に広がる街は、この世のどんなものよりも美しい正方形だ。
教会の他には、高い建物のない平たい街。零地区を中心に走る縦横十字の道が、壱から肆までの地区をはっきり分けているのが見える。
まるで食材ごとにかごが分かれた八百屋のように、五つの地域の色は異なって見える。
零ははちみつ、壱はかぶ、弐は青菜。参はトマトで肆は茄子。例えるならばそんなところか。
「……すごい。礼拝堂の壁画みたい。本当に、壁画と同じ色をしてるんですね」
「ああ、そうだよ。そのまんまで、ちょっとつまらないけれど」
「そんなことはありません! 本当に……、本当に美しいです。クアドラートは本当に、神様が作った街なんですね」
「君って、教会の教えに関しては素直だよね」
皮肉めいた言葉の割に、わずかに見えたアオイの横顔はとても穏やかな色合いを見せた。
懐かしむような、愛おしい何かを見つめるような、そんな色だ。
空飛ぶバイクは高度を上げる。時計台よりもずっと高いところから、私たちはクアドラートの街を眺めていた。
「ねえ。この高さまで来ると、随分静かだと思わないかい?街ではみんな、賛美歌を歌ったりお喋りしたりしているのにさ」
「風の音しか聞こえませんね」
「私たちが歌ってるの、本当に神様は聞いてるのかなあ」
「え?」
街に見とれていた私は、アオイの方を向いた。すると、その視線に気づいたらしい。アオイはわざとらしくおどけたような顔をして、
「今のはナイショだよ? カミーユに叱られちゃうからさ」
と唇に人差し指を当てて笑ったのだった。
その動きがあんまりにも子どもっぽく無邪気だったので、私も思わずおんなじように笑ってしまう。
「はい、ナイショにします」
「少しは緊張がほぐれたかい? そうやって笑ってくれると嬉しいね」
私は何と返せばいいのかわからず、黙り込んだ。
この若すぎる司教は、司教という役割にも関わらず、一人一人の顔をよく見ている。何も気にしていないような素振りで、自分が楽しいからといった理由のようにして、相手の顔の機微を逃さない。
それが多分、アオイの性分の一つなのだろう。
「わたしが小さい頃はさ、よく先代がこうやって空飛ぶバイクに乗せてくれて、一緒に景色を眺めてたんだ。わたしが先代の前に座って、抱えられるようにしてね」
「先代と言うと、パルヴィーン元司教のことですね?」
「ああー……。違う。司教様じゃあなくって、音楽長の先代のことだよ。さっきぷんぷんしてたメレディスと同じ年に生まれた、わたしとテイラーの保護者」
「失礼しました」
「いいのいいの。わたしは先代と一緒にお散歩出来るのが嬉しくってさ。先代もきっと、わたしと散歩するのが好きだったと思う。なあんとなく、その理由が今わかったよ」
「と、おっしゃると?」
「自分が好きな景色を見せて誰かが喜ぶってのは、こんなに幸せなことなんだね」
「えっ」
彼の言葉に、私の心臓がまた大きく鳴った。司教ともあろう人が、私の反応一つで幸福感を覚えるなんて。
アオイにこの心音が聞かれないように、私は慌てて質問した。
「あの! 司教様って、小さい時はどんなお子さんだったんですか?」
「うーん、そうだなあ。今と大して変わらないんじゃあないかな? メレディスにも、『お前相変わらずだな』ってよく言われるし」
「例えば、どんな時にですか?」
「今みたいに、一人でどっか遊びに行った後とか。柱の影から飛び出して、誰かをびっくりさせた時とか」
「今もされるんですか?」
「うん。柱があるとうずうずする。ほんとはカーテンにぐるぐるするのも好きだけど。体が大きくなってからやったら、レールが外れちゃってね。今は我慢してるんだ」
「他にも、ありそうですね」
「あー、あの、皮膚病の人を治したって騒がれた時かなあ」
そこまで聞いて、私は頭の中をぐるりと見渡した。思い出したのは、一つの記事。アオイが弐地区で相談会を行った時の話だ。
──相談会は、各地区の教会にある相談室を使って行われる。各地区の教会には、人が二人入れる程度の大きさの相談室が三つほど備え付けられており、お互いの顔を見ずに相談が出来る。
当然、相談をするのが住民で、答えるのが牧師だ。
アオイは、司教になった今でもこの相談会に姿を見せる。しかし、声だけでアオイを判別出来る住民はおらず、アオイが相談会に現れるのも不定期だ。
だから、司教ともあろう存在が相談会に現れるなんて、あの奇跡が起こるまでは、真偽のほどが問われる噂でしかなかった。
奇跡が起きたのは、弐地区の相談会。皮膚病を患った住民が、アオイのいる相談室に入った時に遡る。
長年皮膚病を患い、生きるのが辛いと感じていた住民の話を聞いていたアオイは、こっそり仕切りの向こうから住民の姿を覗いた。確かに住民の肌は爛れ膿が出ていたが、アオイはそれを見て
『そんなに酷いわけないだろうに、薬の塗り方が間違ってるんだ』
と言って、仕切りを威勢よく開けてしまった。
そのままアオイは住民の家に向かい、住民の体中の膿を綺麗にふき取り、処方されていた薬を塗ってやった。
すると、住民が長年悩まされていた皮膚病はすっかり完治し、住民は本来の健康な体を取り戻したのだった。
当時、司教になって半年ほどだったアオイが起こした奇跡として、クアドラート中が一時騒然としたものだった。──
しかし、私の目の前でアオイが言ったのはいたって簡単な理由だ。
「あれはさ、周りの人……医者までもが彼の病気を感染症と勘違いして、ちゃあんと薬を塗ってやらなかったのがいけなかったんだよ。わたしはそれを正しい方法でやっただけさ。みーんな奇跡だ奇跡だって言うけどそうじゃあない。医者の診断をみんなが鵜呑みにして、皮膚病の見た目の辛そうなのから目をそむけただけの話さ」
「そうだったんですか? しかし、普通なら触るのもためらわれると思うのですが……」
「あれは感染するようなのじゃあない。火傷かなんかが悪化して広がって、皮膚が弱っちゃったんだろう。誰かが決めたことが正しいと思いこんでしまうと、人は自分の目で物事を見なくなるってことさ」
「そうやっておっしゃったら、メレディスさんが『相変わらずだな』って?」
「ご名答」
「先代も驚いていらしたんじゃないですか?」
「どうだろうねえ。どこかで見てたら、笑ったかもしれないけれど」
そこで私は、アオイのものの言い方の違和感に気が付いた。そうして、なんとなくの事情を理解した。
「そう……ですか。今では先代とご一緒しないんですか?」
「いつも一緒にいるようなものだし、もう一緒にはいられないんだ。先代とはね」
アオイの言葉に、私は上手く返事が出来ないでいた。先程から変わらない彼の声色の裏側に、ほんの一握りの孤独が見え隠れしているような気がしたからだ。
やはり、彼が『先代』と呼び慕う相手はもう、正方形の裏側へ行ってしまったのだろう。
「司教様、先代はどんなかただったんですか?」
夕日に溶けてしまいそうなアオイに聞けば、彼はこちらを向かずに答えた。
「どうだろうね。あまりぺらぺらお喋りする人じゃあなかったよ。でも、そのくせあれこれ一人で抱え込んでさ。聞きたかったことは、結局わからずじまいさ」
自分から聞いておきながら、私は返す言葉を見つけられずにいた。
するとアオイは、何事もなかったかのように、嬉しそうに口にする。
「ねえ、君のことも教えてもらえるかい? 君はわたしの記録本を作りに来たんだから、わたしが君のことを知りたいと思っても、変じゃあないよね?」
「え、あ、はあ。それは構いませんが……。面白い事なんてありません」
「そんなことないさ。面白くないなら、そもそも生まれてこない」
まるで教会の教えのように、アオイはあっさりと人の生すべてを認めるようなことを言った。
彼が無意識のうちに司教であることの表れなのか、それとも生まれながらの思想なのかは、今の私には判断がつかない。
「君の保護者は?」
「アンソニーです」
「そうだそうだ、アンソニー。同じ新聞社にいるんだよね?」
まるで初めから知っていたかのように、司教は笑う。その理由を考える間もなく、私は答えた。
「はい。つい最近、魂の引っ越しをして戻ってきました」
「へえ! そんなに大変なことがあったの?」
「お恥ずかしいことに、そうでもないんです……。取材中に馬車にぶつかって骨折して、それで」
「ふうん。そりゃあ大変だったね。それにしても、骨折で魂の引っ越しをするなんて、随分贅沢じゃあないか」
「司教様もそう思いますよね? 私もそう思って、アンソニーに怒ったんです。『いくら壱地区だからって、そうやって体を無駄遣いするから、他の地区の人に体が回らないんだ』って。そしたらアンソニー、『だってそれが階級だろう?』なんて言うんです! だから私怒って、しばらくアンソニーと口を利きませんでした」
「そりゃあいいや!」
アオイは声を上げて笑ってから、片方の頬をこちらに向けた。
「そういえば君、カミーユと同じ年の同じ月に生まれたそうだね? カミーユが喜んでいたよ。あの年は、鐘のファミリアに子どもが生まれなかったからね。同じ年の子と話したのも、久しぶりだったんじゃあないかな」
「私も、とても光栄です」
「光栄とかそういう意味じゃあなくってさ。きっとカミーユも、君と友達になりたいんだと思うよ」
「友達……ですか。しかし司教様、ただの住民が牧師様と友達だなんて」
「すべては受け取り手の問題さ。君は、階級がどれほど人の価値観に影響を与えるか、考えたことがある?」
「価値観?」
「この街には、四色の価値観がある。……いや、わたしたちを含めれば、五色だね」
「どういうことですか?」
私が問うた時、アオイは別の方向を見ていた。
地上でちらちらと火が燃える光。風のない地上から空に向かって、細長い煙が上っていく。
アオイは「ちょっといいかな」と私に言うと、煙の足元に向かって高度を下げた。
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