アオイのすべて 〜第四十一代司教に係る司教記録本

矢向 亜紀

はじめに

本書に寄せて 記:エミリア=テューア・ヴェーバー

 クアドラートの街は、どうして美しいのだろうか。

 もし本書『第四十一代司教に係る司教記録本』の取材をする前の私、例えば新聞記者になった直後の私に問うてみたら、きっと無邪気に、こう答えただろう。


「正方形の均衡が美しいから」

「四つの地区を、中央で教会と神様が見守っているから」

「瞳の紋によって、地区が分かれているから」


 しかし、今はそうは答えない。

 ただ、私の答えよりもはるかに、本書の幕開けにふさわしい言葉がある。本書で記録対象となった、若き司教。アオイが837年に零地区の教会にて行った就任演説の全文を、まず以下に記したい。




 ──クアドラートの住民のみなさん。今日はあなたがたにとって、一体何の日でしょうか。司教就任の日だなんて言わないでください。その言い方は随分他人事のように聞こえるじゃあありませんか。

 もし思い浮かばないなら、今から正解を言いましょう。今日は、あなたがたの司教が変わった日だ。ご覧の通り、一人の若い男に。

 これは、クアドラートの街に何の意味をもたらすのでしょう。あなたがたにとって、絶望の日々の始まりなのでしょうか。それとも、新しいクアドラートの幕開けなのでしょうか。

 この二つの問いをぎゅっとまとめて、わたしは聞きたい。たった一人の、あなたに聞きたい。美しい、この正方形の街。クアドラートで生きる覚悟は、出来ましたか?


 わたしの答えを申し上げる前に、まずわたしはたくさんの人に感謝の意を述べずにはいられません。

 どうしてわたしがこの面会台に立つことになったのか。祭事に、こんな重たい真っ黒な服を着ないといけなくなったのか。多分、多くのかたが断片的にわたしのことを知っているでしょう。いくつかの年号と共に。

 わたしたちの周りで、たくさんの魂が散り、正方形の裏側に旅立ちました。わたしが愛した人、あなたが愛した人。憎んだ人、恨んだ人、笑いあった人。たくさんの人が、正方形の裏側に旅立ちました。


 それでも、わたしたちは死ななかった。黙とうを捧げることだけが、弔いではありません。

 どうか彼らを愛し、思い出して笑ってください。最後に生き残るのは、そうやって笑ってきたわたしたちに他なりません。わたしたちは生きているのです。


 たくさんの悲劇について、この場で多くを語ろうとは思いません。しかし、言わなきゃあいけないことがあります。ここからじゃあないと、伝わらないことだ。

 わたしが司教に就任したことは、決して当たり前のことじゃあない。クアドラートが、この街が、あなたが、あなたがわたしを導いたんだ。

 そうして今、わたしとあなたはこの場に立ち、一人の司教がクアドラートの幕を開けるのを眺めているんです。若い司教は問うている、クアドラートの街で生きる覚悟は出来たかと。


 いよいよ、わたしの答えをお伝えする時が来ました。わたしの腹はとっくに決まっています。

 司教として、クアドラートのために生きましょう。この身を捧げ、歌いましょう。

 だから、力を貸してください。わたしのためじゃあない。あなたが生きる覚悟を決めた、クアドラートの街のためだ。わたしではない、あなたのためだ。

 わたしはとっくに決めていました。わたしが、クアドラートを、この街を、あなたを導きます。だから力を貸してほしい。共に考え、前を向いてほしい。


 あなたが導くなら、どこまででも行ってやるよ。それが、正方形の裏側だとしても。なぜならば。


 これは福音です。わたしに課せられた、人生最大にして最後の福音です。──




 アオイは就任時、齢三十にも満たない若者だった。私と十歳も変わらないその若さに、就任時には、私だけではなくクアドラートの全住民が驚きを隠しきれなかった。しかし、アオイが司教候補に指名されるまでの顛末を見るにつけても、他に適任者がいたとは思えない。すでにクアドラートの歴史は、アオイを中心に動き出していたからだ。


 アオイが歴代の司教と異なっていたのは、年齢だけではない。先の就任演説で、『正方形の裏側』という不吉な単語を複数回使用した危うさ、乱れがちな口調で語る異端な姿勢は、当時話題となった。しかし、その演説の最後を締めくくる言葉は、多くの人の支持を得ている。


『これは福音です。わたしに課せられた、人生最大にして最後の福音です』


 住民たちは、この言葉にアオイの純粋な喜びを見出した。司教という職務の尊さを実感した。この前向きな言葉は、それまでの司教の重々しい演説とは一線を画しており、若い司教の誕生を象徴するものとして、当時の新聞や書籍で賞賛と共に取り上げられている。


 ただこれは、多少の違和感を覚える言葉でもある。どうしてアオイは、福音を『わたしに課せられた』と表現したのだろう。この疑問を私が周囲の人に投げかけたところ、『ただの言い間違いだろう』とする人がほとんどだった。しかし私は、そうは思わなかった。


 どうしてアオイは、こんな言い方をしたのだろう?こんな小さな疑問符がきっかけで、私は司教記録本の企画を考えようと決めた。



 そうして、その疑問符の全てが、誰かによる導きだったような気さえしているのだ。

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