第4章 顔の見えない神様

4-1. 昔の音

 取材四日目の朝。約束通り、私はカミーユの案内で、牧師の住居棟を歩いていた。


 牧師たちの部屋は、私が使っている客人用の部屋から少し離れた位置にある。複数人部屋の牧師もいるそうだが、カミーユは一人部屋だ。


 豪華とは言えない小さな部屋には、ベッドが一台と洋服箪笥、勉強机とランプが置かれている。壁ははちみつ色の石だが、床は木製。実に簡素な作りだった。


 私が部屋を訪問することになったのは昨晩のことだというのに、机の上の本は丁寧に並べられており、ベッドの上のタオルケットもきちんと畳まれていた。

 コートを脱いだカミーユの所作を眺めて、部屋の清潔感に合点が行った。彼は神経質にならずとも、常に美しく穏やかな生活を維持出来るようだ。


 自分の職場のデスクを思い出して、私は酷くがっかりした。

 仕方がない。情報が空間を食いちぎって行く様子を見ているのが、実のところ私は無性に好きなのだ。


「僕は紅茶を飲みますが、あなたもいかがですか?」

「えっ、いいんですか?」

「はい。牧師も紅茶くらいは飲みますよ」


 カミーユは小さなコンロの前であれこれと準備をし、ポットと二つのカップを持って勉強机の所にやってきた。

 カップに紅茶が注がれると、瑞々しい木々のような香りが漂った。

 思わず私はつぶやいた。


「懐かしい……」

「以前、壱地区で買った紅茶です。壱地区ではお馴染みのものだと伺いました」

「はい! よく友達同士で、誕生月にこれを送り合うんです」

「では、ちょうどよかったですね」


 そう口にした後で、急にくすぐったくなったのだろうか。私と視線が合った時、カミーユはお湯の中で開く茶葉みたいに微笑んだ。


「カミーユさん、ありがとうございます」

「喜んでいただけてよかったです。ああ、それで音源ですね」


 カミーユが取り出した録音機は、随分古めかしい機材だった。私は思わず、しげしげと眺めてしまう。

 そうやって見られるのが照れ臭いらしい。カミーユは眼鏡を上げて、可愛らしい言い訳をした。


「僕がコンピューターを持っていたら、そちらからお聞かせ出来るのですが……。支給されていないのです」

「ああ、いえ、別にそんな気にしません」

「そうですか。それはよかった。これはテイラーさんの説法を録音したもので、アオイさんが復帰なさって少し経った時期だったかと思います。クアドラートの地図を折りたたむ話を、テイラーさんが試しに説法に入れていた時のものだそうです」

「あの話を考えたのは、テイラー牧師ですか?」

「はい。初めは、テイラーさんだけが話していたことだったそうですよ。それがとても分かりやすいと評判になったので、説法に書き加えられたのです」


 再生ボタンが押されると、しばらくざわざわと人の声が聞こえ、ふとした時に沈黙が訪れた。

 説法が始まれば、はつらつとした爽やかな青年の声色が耳を撫でる。想像していたよりも、テイラーの声が優しいのに私は驚いた。



『私たちの瞳に刻まれた紋は、私たちを正しいファミリアに導き、正しい人生を歩むための神からのお導きなのです。しかし、それでもなお私たちは淀みを拭い去ることは出来ず、過ちを犯し、人を恨み、怠惰な生き方をしています。

 本来、神の前に人はみな平等です。しかし、それでも階級がこの街に存在するのは、私たちの淀みが晴れないからです。瞳に刻まれた紋が導くままに、健やかに生活を送ること。神に感謝し祈ること。私たちが生涯をかけてするべきことはいたって簡単。たったそれだけなのです。

 みなさん、頭の中にクアドラートの地図を思い描いてみましょう。それを、まずは半分に折ります。きちんと、角と角を重ねて。さあ、折れましたか?

 折り方によって重なり合う地区は違うと思いますが、長方形になっていることでしょう。さて、そこでもう一度その長方形を折りたたんでみます。地図は小さくなりましたが、また同じように正方形になりますね。これが、神様の視点です。神様というのは……。ん? どうしましたか? 何か面白い事でも?』


『テイラー、変な形になっちゃったよ』


『ああ、もう。アオイ、それ最初が間違えてるんだってば。前に教えてあげたじゃない。角を半分に折っちゃうと、三角形になっちゃうんだ』

『でもさ、角と角を重ねたよ?』

『角をはんぶんこしちゃいけないの。ほら、十字の道路のところで折ってみて? ……ほら、出来た』

『三角形じゃあ、駄目なのかい?』

『駄目じゃないけど、形が変わっちゃうでしょ? そしたら、クアドラートじゃなくなっちゃうもの』

『それもそうだね。ごめんよ、邪魔して』


『アオイ、オルガンは弾かないの?』

『うん。調律が狂ってるようだからね。可哀想だから休ませてあげるんだ』


『そう。それならいいんだ。静かに聞いててね。

 ……さて、正方形はこんな風に色々な形になれます。しかし、やはり均衡を保った正方形が一番美しいのです。神様は、我々が空と呼ぶよりもずっと上からクアドラートの街をご覧になっています。その位置から見れば、この地図のようにどの地区にも違いなんてないのです。

 つまり。つまりは。神様からすれば、どの地区に生まれた住民もすべて、住民という意味では同じです。階級もファミリアも関係ない、クアドラートの住民です。

 住民が背負う淀みがすべて消え去れば、いつか我々の世界からも階級が消え去り、神様と同じ視点を得ることが出来るでしょう』



 二人の会話に、私は思わず笑いを洩らしてしまった。見れば、隣のカミーユも笑っている。停止ボタンを押して、カミーユは言った。


「途中でアオイさんがお話しされているので、実はあまり説法のお手本にはならないのですが。二人のやり取りを聞くのが好きで、どうしても捨てられないのです」


 アオイの発想力が教会の教えを越えていること、それを当たり前のように表出する素直さ。そうして、アオイを受け入れ役割を全うするテイラー。二人の関係性が良好であることは、ほんの数分の音源だけで十分伝わってくる。

 話を聞いていた住民たちも、二人の会話を受け入れていたのだろう。音声には野次めいたものは混じらず、私やカミーユと同様、笑う声が所々から漏れていた。


「あの、カミーユさん。司教様が女の子の頃の音源をお持ちのかたは、いらっしゃいませんか?」


 私が聞けば、カミーユは目を丸くしてから苦笑いを浮かべた。頬の傷を照れ隠しのように指先でなぞる。


「もうそんなことまでご存じなのですね。ですが残念ながら、その頃の音源は無いと思われますよ。音楽家の場合、声が保存される機会はないでしょうから」

「……そうですか。ちょっと残念です」


 音が消えた部屋の中で、カミーユは小さく口にした。


「恐らく、僕がお伝え出来るテイラーさんとアオイさんのことは、これですべてあなたにお伝えしたと思います。僕はあまりお二人のことを存じ上げないので、どこまでお力になれたかわかりませんが」

「カミーユさんのおかげで、色んなことがわかりました。本当にありがとうございます」


 そこまで言うと、私は一度口をつぐんだ。

 伝えたいことが口の辺りに浮かぶから、そのまま言うべきかどうか、少しだけ思案したのだ。


 しかし、結局言うことにした。


「……多分、私が作る記録本は、カミーユさんが知らなかったことをたくさん書くことになると思います。つまらない文章かもしれませんが、カミーユさんに読んでいただきたいんです。まだ私にも集めきれていないことがたくさんありますが、きっと、カミーユさんの心を穏やかに出来るものになると思うんです」


「僕のことを心配してくださったのですね。ありがとうございます」

「や、あのそんな、私が牧師様のことを心配だなんて、おこがましい事だとは思うのですが……」

「そんな風におっしゃらないでください」

「え、あ、その……。……新聞記者の仕事は、必要な人に必要な情報を伝えることです。きっと、私が集める情報は、カミーユさんに必要です。なんとなく、そう思いました」


 私の言葉に、彼はわずかに微笑んだ。それは、カミーユがアヤネを看取った経緯を教えてくれた時と同じ笑顔だ。


 だから、私の頭には一つの疑問が生じた。


「……カミーユさん。やっぱり、肆地区に行ってみましょう」

「え?」


 眼鏡の奥で、鐘の紋が揺れた。私は鐘の紋に誓うつもりで言う。


「アヤネさんの死亡記録を確かめましょう。亡くなった日はわかっていますから、すぐに見られるはずです」

「それはそうですが……。それが、司教様の記録を書くことに関係するのですか?」

「直接的にどこまで関わりがあるかはわかりません。多分、司教様ご本人はそこまでアヤネさんと面識があるものとは思いませんが、彼女の存在が、司教様の人生になんらかの影響を残したような気がするんです」


 すると、カミーユはぱちぱちと見えやすい瞬きをして、うなづいた。その表情はわずかに明るい。




 空飛ぶバイクの後ろに乗って、私は肆地区に向かった。アオイが運転する時よりも進みが遅い空飛ぶバイクは、カミーユの性格そのものとも言えた。


「人を乗せて走ることが、あまりないのです」

「そうですよね、すみません」

「エミリアさん、確かブリジッタさんにお会いになっていますよね? 死亡記録の管理も彼女です。よかったですね」


 カミーユの声で意識を戻すと、眼下に肆地区の役場が見えてきた。



 ブリジッタは私の姿を認めると、やんわりとした笑顔を見せてくれた。


「わたくし、生きるも死ぬも管理をしてるのヨ」


 そう言った後で、ブリジッタは私の隣に居るカミーユを見て気まずそうな笑顔を浮かべた。それ以降、彼女は訛りを隠してしまったけれど、彼女なりの砕けたものの言い方を聞いて、私の胸は弾んだ。

 もしかしたら、アオイが言うように、他の地区の誰かと友達になることは可能なのかもしれない。


 用件を伝えると、ブリジッタは大きなコンピューターの前に座った。死亡記録は、地区ごとの管理になる。彼女は、「最近になってようやく、肆地区にもコンピューターが導入された」と笑った。


「あなたがご覧になりたい、アヤネさんのファミリアはどちらかしら?」

「石です」

「亡くなった時期はお分かりかしら」

「830年3月29日、『本物の歌の暴走』の日です」


 私の声に、ブリジッタは少しだけ表情を曇らせた。けれど、キーボードを叩くうちに眉をひそめて顔を上げたのだ。


「アヤネさん、死亡記録は残ってらっしゃらないわね。ちょっとお待ちになって?」


 その言葉は、静かな福音となって私の耳に飛び込んできた。立ち上がったままどこかへ姿を消したブリジッタの余韻に、私とカミーユは顔を見合わせる。

 私は、ほんのわずかな期待に手が震えていた。手にしていたペン先が、ノートに脈絡のない線を引く。


 程なくして戻ったブリジッタが、小さなメモを手渡してくれた。


「アヤネさん、今はこちらにお住まいですのヨ。お時間あったら、お会いになってはどうかしら?」

「すごい! ブリジッタさん、ありがとうございます!」

「あら……。そんなにお役に立てたのかしら。あなたのためなら、これくらいお安い御用ですわ。またいつでもいらしてね」


 ブリジッタの手を握って何度も礼を言った後、私はカミーユを引っ張るように役場を飛び出した。


「カミーユさん! アヤネさんに会いに行きましょう! 司教様の人生に、近づけるかもしれませんよ!」

「は、はい!」


 長いコートの裾を摘んで、カミーユも私の後に続いた。

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