4-2. 驚きのない訪問者

 住所の場所にあったのは、濃紺の肆地区にある背の低い集合住宅だった。

紺色の石で作られた建物の一角に、確かにその名はあった。


「ありましたよ、カミーユさん」

「本当に……彼女は生きていたのですね」

「よかったですね」

「……僕が勘違いしてしまったせいで」

「もう、そんなこと言ったらだめですよ。人が生きていたことを、喜ばないと」


 私の言葉に、カミーユは目を丸くして瞬きした。その時わずかに口を尖らせるのが彼の癖だ。そして、それが彼にとって、最大の驚きを示す顔でもある。


 ドアをノックする。硬いドアに鈍い音が響いて、何度か続けていれば声がした。


「誰かしら?」


 女性の声だ。

答えようとした私の隣で、カミーユがドアに呼びかける。


「教会から参りました、カミーユと申します。『本物の歌の暴走』の時、一度お会いしているのですが……」


 すると、ドアが静かに開いた。目の前には誰もいない。けれど、すぐ視線を下げれば彼女がいた。


 長いホワイトブロンドの髪、白い肌、透けてしまうくらい薄い青の瞳。カミーユは息を飲んだ。

 その時私は思い出す。彼女の顔は、カミーユが間違えてしまうほどテイラーに似ている。

カミーユの記憶の中にいたテイラーが、突如として立体的になったのだろう。


 アヤネは車椅子に乗っていた。長いスカートを履いていたが、よく見ると、両足共に途中で消えている。これが恐らく、あの日受けた傷。

 しかし、彼女は死ななかった。生きていた。


 鈴の音のような声がした。


「牧師様こんにちは。お隣は新聞記者さん?」

「は、はい! 私は、司教記録本担当のエミリア=テューア・ヴェーバーです!」

「元気な人ね。どうぞ、入って」


 まるで私たちが来るのを知っていたかのような言い方だった。


 牧師が個人宅にやってくるなんて滅多にないことだろうし、その隣に違う地区の住民がいるなんて以ての外だ。けれどアヤネは、まるでお茶の約束をしていたかのようにテーブルに紅茶を置き、小さなクッキーを添えてくれる。

 こちらに向ける薄い青の瞳には、この光景を当たり前のこととして、半ば諦めたように受け入れる気配が見え隠れしていた。


「あなたたち、よくここまでたどり着いたわね。来るとは思わなかったけど、来ないわけがないとも思ってたから」


 そんな風に、彼女は言った。聞き馴染みのある、壱地区と同じような抑揚で彼女は続ける。


「あたしを助けてくれたの、あなただったのね。頬に傷がある牧師さんのことは知ってたけど……。ありがとう。足がなくなったくらいで助かったのは、あなたのおかげね」

「い、いえ……僕は、あなたが亡くなってしまったかと思って……。知人に似ていたものですから。驚いてそのまま、教会に戻ってしまったのです。あなたを助けたなんて、恐れ多い」

「仕方ないわよ。あたしたち、似ているから。それとも、テイラーの顔は忘れてしまった?」


 この場にいないもう一人を眺めて、アヤネは微笑む。車椅子の生活を余儀なくされても、彼女の身綺麗な生活が想像出来る笑みだ。

 ティーカップに添えられた指先には、桜貝のようなピンク色の爪が行儀よく並び、その指先が時折触れる髪は上等な絨毯のように柔らかだ。


「新聞記者さん、テイラーの話を聞きに来たの?」

「はい。そうです」

「あたしの話なんて聞いても、記録本に使えるかわからないでしょ?」

「それでも知りたいんです。きっと、司教様の人生にあなたが与えた影響は大きなものです」


 すると、絵画から飛び出したような彼女の表情が、わずかに濁った。

 言葉がぼとりと落ちていく。


「なんにもないわ。あの女にあたしが与えたものなんか。なんにもない」


 あの女。


 アオイのことをいまだに女と表現する、唯一の人。敵対心ともとれる声色。彼女が知っているのは、どんなテイラーとアオイなのだろう。


「アヤネさん。あなたの話を聞かせてください。私、アヤネさんの人生が知りたいんです」


 思わず身を乗り出していた自分に気づく。アヤネが、私を見て小さく笑ったからだ。

私が慌てて体を引っ込めると、アヤネは髪をまとめて片方の肩にかけてから、口を開いた。


「あたし、何にも知らない子だったの。あたしとおんなじ顔したあの人が、あたしの前に現れるまでは。

 あたしもあの人も十二歳で、あたしは弐地区でコンピューターの仕事をしてた。仕事終わりには、カフェに行くのが好きだったの。肆地区にはあんまりカフェがないでしょ? だから、弐地区で働いてるって実感出来るのがカフェだったの。仕事してるとコンピューターの画面ばっかり見てるから、どこにいたって大して変わらないもの。横にいる人の瞳の紋に馴染みがないぐらいで。

 あたしの行きつけのカフェは、テーブル席が十くらいと、カウンターが五席くらいのお店だった。そこのレモネードが好きで、カウンターに座ってレモネードを仕事終わりに飲むの。あの日もいつもと同じようにレモネードを注文したわ。

 そしたら、テーブル席に一人で座っていた人が、『レモネード?』って聞き返してきたの。思わず振り返ったら、茶色い髪を、ちょうどほら……あなたみたいにぴっちり分けて眼鏡をかけた色白な会社員が、一人でテーブル席に座ってたわ。独り言があたしに聞こえたのが恥ずかしかったみたいで、ひどく慌ててたけど」


 カミーユに視線を送ったアヤネは、昔を懐かしむように目元を緩めた。

もしかしたら、カミーユの見た目そのものが、初めて彼女が遭遇したテイラーに似ていたのかもしれない。


「肆地区の人間って、他の地区の人に会うとどうしても目を逸らしてしまうのよね。だからあたしも初めは、あの人の顔を見ないようにしてた。でも、彼はとっても気さくに話しかけてくれたし、まだ弐地区で働き出して間もないから色々教えてくれないかって言うから、カウンターで二人してレモネードを飲むことになったの。

 隣にいる彼の瞳を何度か見ようとしたけど、瞳が薄いから紋がよく見えなかったわ。あたしも同じで、時々みんなに紋が見えにくいって言われることがあったから、なんとなく気持ちはわかったの。

 でも、しばらくして不意に彼の声色が変わって、あたしにしか聞こえない声で言ったの。『僕の瞳をよく見てみて。誰だかわかる?』驚いて覗き込んだあの人の瞳には、紋なんてちっとも無かった。あんな寂しい瞳を見たのは、生まれて初めてのことだったわ。

 その時になってあたしは、あたしを育ててくれたおばさんが言ってた話が嘘じゃ無かったってわかったの」


「と、おっしゃると?」


「おばさん、昔は教会の助産師として勤めてたんだけど、あたしを拾い上げた直後に退職したんですって。その時、あたしと同じ誰かから生まれた男の子がいて、彼には瞳の紋がなかったって言ってたわ。あたしね、働きに出るまでずっと、男の子が苦手だったの。だからこの話も、おばさんがなんとかしてあたしの男の子嫌いを克服させるために話した冗談だって思ってた。それが、嘘じゃなかったの。神様のお導きは、なんて突然なんだろうって思ったわ。だって、あの日は本当に普通のなんでもない日で、あたしはレモネードを飲んで帰ろうと思ってただけなんだから」


「ご自分にそっくりな牧師が、いきなり目の前に現れたんですもんね。驚きますよ」

「そうね。しかも変装してね。あの人、変装がとても上手くて。初めて会った時から、あたしに会いに来る時はいつも、毎回違う人みたいな顔で現れたわ。それに、鍵を閉めた部屋にも何食わぬ顔で入って来た。私がポケットの中に何を入れてるかも言い当ててしまうし……。本当に、不思議な人だった」


 そこで、黙っていたカミーユが口を開いた。


「テイラーさんにそんな特技があったとは、知りませんでした」

「あら。あなたはそうじゃないの。あの女と仲がいいから、そうだと思ってたけど」


 アヤネはまるで、テイラーについて知らないことは何もないと言いたげな表情を浮かべた。

 そうして一度紅茶に口をつけてから続ける。


「あの人の指示で、あたしたちは別々にカフェを出て、出掛けにあたしが教えた、あたしが弐地区で借りてた部屋で落ち合うことになったの。約束の時間に彼がやってきて、あたしは彼から自分の出生について知らされたわ。テイラーに紋がなかったせいで、あたしたちを産んだ誰かが処刑されたこと。助産師や医者が、事実隠蔽のために解雇されたってこと。……でもね、初めはあまりピンと来なかったの。確かに、自分を産んだ誰かが殺されたことは悲しいことかもしれないけど、顔も知らない他人のことでそんなに怒る人がいる?」


 日記だ。

 私が思い出したのは、ジョスリンの日記だ。


 あの中の一節に、テイラーが浮かない顔をしていたこと、ジョスリンに「自分を産んだ誰かのことを考えたことがある?」と言ってきたことが書かれていた。

 それをジョスリンは、テイラーの想像力の豊かさや賢さの賜物だと書いていたけれど。

実際は、少し違った。


 きっとあの頃、テイラーは自分の力で突き止めてしまったのだろう。

 自分の名前が、出生名簿に記録されなかったこと。自分が生まれてきたことで、自分を産んだ誰かが殺されてしまったこと。


「テイラー牧師のおっしゃることに、アヤネさんも初めは疑問を感じていたんですね」

「そうね。ただ、助産師や医者が仕事を解雇されたって話は、無性に腹が立ったわ。当時の分娩室では、肆地区の住民が多く働いていたと聞いたし。いくら退職金を出されても、ひどい話じゃない? おばさんは、このことをあたしに黙ったまんま、愚痴も言わずに十年以上あたしを育ててくれてたのよ。頭が上がらないと思ったわ。テイラーは、自分のせいで色んな人の人生を狂わせたことが辛かったみたい。何度か会うようになった頃に、『パルヴィーンを殺したい』って言ったわ。確実にね」

「殺したい、ですか?」

「ええ。なんて恐ろしいことを言うんだろうって思ったわ。何度も止めた。……でもね、彼と一緒にいるうちに、不思議なもので、彼がとても弱くて可哀想な、あたしだけのテイラーのように見えてきたの。あなたも女の子だからわかるでしょ? 普段賢く真面目でいる男が、自分の前で弱音を吐く姿の愛おしいこと。あたしも気づいたら、パルヴィーンを殺さないといけないって思うようになってた。誰のためでもなく、テイラーのために」

「だからあなたは、紋なき騎士団を作ったんですか?」


「今となっては、そうかもしれないわね。でもあの時は、あの人が言うままにコンピューターの網の世界で意見交換の舞台を作ってただけ。紋なき騎士団なんて、随分な名前を付けてくれたわよね。絶対に逃げ切ってやると思ったわ。

 色んなコンピューターを経由して居場所がわからないように十分注意したし、あたしはあの頃のコンピューター業界ではかなり高度な技術者だったから、みんなの身の安全を保障しながらコミュニティを広げる程度の仕事、簡単なことだった。……あの人、とても喜んでた。『僕の悲しみを分かち合えそうな仲間が増えたのは、本当に幸せだよ。でも、彼らには僕の本当の姿が見えてない。本当の僕の悲しみに触れられるのは君だけだ』って、よく言ってくれた。

 だって、本当に彼は可哀想な人だったのよ? 十歳で司教候補に選ばれたって言うから、あたし、『殺したい相手に褒められて嬉しい?』って意地悪なことを聞いたの。そしたらテイラー、突然ぼろぼろ泣き出したのよ。あたしの腕の中で。誰の前でも泣けないから、あたしの前でだけは許して欲しいって言うの。

 ……それなのに、あの人の頭のなかであたしが一番になることなんてなかったわ。泣き止むとすぐに何事もなかったような顔をして、『こんなところアオイに見られたら笑われちゃう』って目を拭うの。テイラーの中にはいつも、あの女がいたのよ」


 ティーカップをソーサーに置いたアヤネの手は、わずかに震えていた。二つの陶器が交わる音は、不愉快そうに濁っている。


「テイラーとあの女は、いつも一緒だった。説法もゆりかごの仕事も、お使いもおやつのアイスも! テイラーはあの女の好きなものも嫌いなものも全部知ってて、事あるごとに名前を呼ぶの。アオイ、アオイって。ひどい時は、あたしに触れてるのに言い間違えることだってあった。

 ……あたしは、悔しかった。だって、いくら紋が刻まれたものだったとしても、彼は零地区の住民よ。肆地区のあたしが彼の何者にもなれないのはわかってた。あたしが求めるすべてを、あの女は当たり前のように手にしてるくせに。それにちっとも気がつかないのよ。それでもアオイを愛してるあの人が嫌だった。そんな彼のことを愛してる自分もね。

 だから、パルヴィーンを殺さなきゃって思った。そしたらテイラーは、あたしのことを一番に見てくれるだろうって」


 鋭利な感情に、こちらが切り裂かれてしまいそうだ。アヤネが吐露した思いの丈を手のひらに乗せたまま、私はしばらく、次の質問を口の中で転がしていた。


「……アヤネさん。紋なき騎士団は、お互いの顔を知らずに犯行を行ったそうですが、どうやって作戦開始を合図してたんですか? なんとなく始めるのは大変ですよね」

「例えば、街中で赤いハンカチを落とす。誰かがそれを拾って看板にかける。ハンカチを見つけてポケットにしまう。この行動のどこかに合図が含まれていても、街の誰も気づかないでしょ?」

「確かに……。よくある光景ですもんね」


「そういった合図を繰り返して、小さめの犯罪から練習をして行ったわ。軽い窃盗、喧嘩騒ぎから始めて、壱地区の貴族の家に悪戯をしたり、参地区の高利貸屋から金塊を盗んだり。

 待ちに待った826年が来て、あたしたちは肆地区の橋に爆弾を仕掛けたわ。周りに武器を持った仲間も配置した……。頭上には、テイラーが空飛ぶバイクに乗って教会の行列を誘導してるのが見えた。彼は牧師としての役割を全うしながら、パルヴィーンの死を見届けるために、作戦場所の真上に待ち構えていたの。

 予定通り、パルヴィーンが乗った馬車が爆破されて、テイラーは慌てたように馬車に近づいたわ。でもその時、爆破の衝撃で誰かの体が川に落ちていくのが見えた。パルヴィーンではなかったわ。あたしには、目の前で起きたことがなんなのかわからなかった。計画をしたのは、あたしとテイラーなのにね。

 テイラーが馬車に近づいた時、牧師の誰かが、馬車の中にいるのはパルヴィーンじゃなくてあの女だって言ったの。……その瞬間、テイラーは地べたに引っ張られたみたいに空飛ぶバイクから飛び降りると、火の中に飛び込んで行ったわ。何か叫んでたけど、わからなかった。嵐が来た時みたいな、威嚇する獣みたいな、大泣きする子どもみたいな声だったわ。

 その後、誰かを背負った牧師が現れて、テイラーは馬車の中から真っ黒な何かを取り上げた。そのまんま二人して何処かへ行ってしまって、しばらくあたしのところへは来てくれなくなってしまったの」


「……そうして、司教様は魂の引越しをしたと」


「ええ、そう。やっとあの女がいなくなったんだって、あたしは嬉しくなったわ。だって、見た目は男なんだもの。どう頑張ったって、無理じゃない。テイラーに愛されるのはあたしだけって思った。だから、心の底からテイラーがあたしを愛してくれるように、パルヴィーンを今度こそ殺そうと思ったの。テイラーと会えなかった時期には、仲間と網の中でどうしたらよかったのか話し合ったわ。そしたら、何人かは、馬車にいるのがパルヴィーンじゃないって気づいていたとわかったの」


「そうなんですか? 馬車の中は見えにくいのに?」


「テイラーから聞いた話だと、馬車にパルヴィーンがいなかったことは、地上で行列を作っていた牧師たちには伝わっていたそうね。そのせいでしょう、パルヴィーンの近くにいる割には、行列の牧師たちがのんびりしていたそうよ。あとは、ちらっと見えた人影が二つあったとか、ちょっとした細かいことを総合して判断した仲間もいた。でも彼らは、自分の行動は止められても、顔を知らない仲間に情報を伝えられなかった」


「先ほどおっしゃっていたハンカチのようなやり取りでは、伝達に時間もかかりますよね」

「勘がいいわね。テイラーもそう思ったみたい。暗号には歌がいいんじゃないかって言ってきたの」

「歌?」


「讃美歌を街で誰かが口ずさむことほど、よくある仕草は他にないもの。テイラーは、讃美歌の音や歌詞を意図的に間違えることで、合図になるって考えたの。あたしも賛成したわ。ちょうどいいコンピューターのシステムが出来上がっていた頃だったし」

「システム?」

「普通のコンピューターって、情報を詰め込んで加工するだけのものでしょ? ペンやノートの代わり。でも、あたしが考えたシステムは違うの。人間の行動を分析して、ある程度パターン化出来る。それを利用して、アオイが作ったような歌を作ったの」


「……使い方によっては、勲章を貰えそうな発明だったのに」


「そんなものいらない。あたしは、テイラーの一番になりさえすればそれでよかった。だから、あの女の歌をたくさんコンピューターに聞かせて、あの女が作ったみたいな偽物の歌を作るのに成功したの。苦労したけど、これを暗号に使えばいいって。……でも、テイラーはその歌を使うな、捨てろって言ったわ。アオイに変な疑いがかかるからやめろって。酷いと思わない? テイラーのために作ったのに! だから流したの。あの女なんてどうにかなればいいって」


 白い拳を握りしめた時、アヤネの手の甲にはようやく青色の血管が浮かんだ。桜色の爪に力が入り、わずかに手のひらに食い込むのがわかる。

 テイラーも同じように、自分の出生を知った時に怒りに震えたのだろうか。


 私は、アヤネの心に手を置くように口にした。


「……それが、偽物の歌事件ですね」


「そうよ。あの女の投獄が決まって、テイラーはあたしのところにやって来たわ。見たことないほど怒って、あたしを叱った。殴られたり首を絞められたり、罵られたり。……でも、テイラーが真っ先にあたしのところに来てくれて嬉しかった。テイラーは、あたしに酷いことをした後で激しく後悔して泣くの。なんて可哀想な愛しい人だろうと思ったら、あたしの世界にはテイラーしかいらないって信じられた。

 だから、あの女が投獄された三日間は夢みたいだったわ。偽物の歌を使った暗号を二人で考えて、網で仲間に伝えて読み解く練習をさせたわ。テイラーはずっとあたしのところにいて、暗号を作ったり網で話をしている時以外はずっと乱れて荒れて大泣きして、あたしがいないとだめになってしまいそうだった。……でも、三日間が過ぎて教会に戻ってしまったら、それきり姿を見せなくなったの」


「何があったんですか?」


「わからないわ。ただ一度だけ、あたしの前に姿を現したことがあったの。聖職者の黒いコートを着て、胸に正方形を下げて、隣には男の顔をしたあの女がいて」


「どういうことでしょう?」


「教会でコンピューターの導入を検討しているから、話を聞きたいっていうことだったの。あたしは部門の責任者だったから、二人と会社の会議室で顔を合わせたわ。テイラーは何食わぬ顔でいたし、あの女はあたしたちがそっくりなのを見てはしゃいでうるさかった。

 コンピューターの話を一通りした時に、あの女が言ったわ。『コンピューターって、わたしの真似出来るのかなぁ』って。だからあたしは、『システムさえあれば』って答えたわ。そうしたら妙に食いついてきて、『それじゃあ歌は真似出来るのか』『どうやったら真似出来るようになるのか』なんて聞いてくるの。心底愉快でしかたなかったわ! あたしたちが体を吹き飛ばした女が、あたしに真似された歌のことを聞いてるのよ?」


 もしかしたら、それはアオイの誘導だったのかもしれない。

 アヤネが容疑者の一人と見込んだ上で目の前に現れ、アヤネがあれこれと話すような場を整え、口を割らせた。しかもアヤネ本人にしてみれば、愉快で仕方がない状況で。


「……でも、テイラーはあたしになんのメッセージもくれなかった。ただの牧師として話をして、あの女と一緒に帰ってしまった。寂しかったけど、何かメッセージをくれる時が来るんじゃないかと待ってたわ」


 アヤネは、冷めてしまったティーカップに口をつけた。冷たい紅茶が唇に触れたのか、大して口に含まずカップを置く。それは不安定に揺れていた。


「……待っていたのに、鳴ったの。偽物の歌に命を吹き込んだ、本物の歌が」


 彼女のため息に乗って、冷え切った紅茶の香りと言葉が舞った。


「本物の歌に、仲間たちは混乱したの。出撃の合図と勘違いした数名が暴走して、それが正気だった仲間の神経を逆撫でして、街のあちこちで破壊行為が始まったわ。そんなところを壊しても、パルヴィーンは殺せないのに。……あたしがいた会社にも、爆弾が撃ち込まれたわ。そこで意識が途切れるんだけど、あなたが助けてくれたのね」


 アヤネに視線を送られたカミーユは、気恥ずかしそうに目を逸らしてから曖昧にうつむいた。


「……僕は、あなたを助けられたわけではありません。ただ、瓦礫の中にテイラーさんがいるのが見えて、引っ張り出しただけです。急いで教会に戻った時、驚きました。瓦礫の中で見つけたあなたの顔と、テイラーさんの顔は、本当に同じだったので。……ですがそれがきっかけで、テイラーさんもあなたが亡くなったと思ったようです」


「せめてテイラーが、正方形の裏側にあたしがいないってことに気づいていればいいんだけれど。……あたしは生き延びて、教会の地下牢に秘密裏に投獄されたわ。何にもない真っ暗な世界に、一人ぼっちよ。階段から差し込む光だけが、唯一の明かりだった。何日も何日も一人で過ごして、ある日突然、明かりの中からあの女そっくりな男の影が現れたの。顔は見えなかった。階段に腰掛けると、あの女は言ったわ。『今からの会話は録音されるけど、君にプレゼントするから気にしないで』って」


「録音?」


 私が聞き返せば、アヤネは黙ってうなづいた。

 そうして、一度車椅子をくるりと回して低い戸棚に向かうと、小さな録音機をこちらに持って戻ってきた。


「あの女がね。『いつか君の話を聞きに来る誰かに聞かせてやって』って」


 白くて細い指先が、録音機の再生ボタンを押した。聞こえてきた声は、狭くて硬い空間の中でわずかに反響していた。

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