2-3. 答えのない記録

 びしょ濡れのアオイのバイクに乗って、私たちは教会へ戻った。

 シャワーを借りて一息ついてから、私は書庫に向うことにした。確かめたいことがあったからだ。


 一つは、昨晩アオイが言っていた『先代』の名前だ。

 アオイが音楽家に配属されたのが817年、その頃に音楽家として活躍していた人員の情報を求めて、名簿を開いた。

 音楽家は牧師と違い人数が少なく、十数名の小さな構成員によって成り立っていた。その中で、アオイが音楽長となったのが827年だ。

 それ以前に誰が音楽長を務めていたのか、確認するのは簡単だった。


『822~826年 ジョスリン』


 これが、アオイが言うところの先代の名前だろう。

 性別は分からないが、それよりもジョスリンの享年が気になった。『司教襲撃未遂事件』と同じ年。


 私は、教会内部に残された『司教襲撃未遂事件』の記録を探すことにした。

 何から手を付けたらいいかと悩んで、私は零地区の住民の死亡記録を手にした。

 826年11月。

 そこには、確かにその名前があった。


『ジョスリン/鐘・教会・牧師/享年二十四歳、死因/即死のため詳細不明』


 もしかしたら、あの日の爆発にジョスリンも巻き込まれたのかもしれない。そうして、アオイは生き残り、ジョスリンは死んでしまった。

 だからアオイは、ジョスリンのことをあんな風に口にしたのか。


『聞きたかったことは、結局わからずじまいさ』


 夕日に照らされて、溶けて消えてしまいそうなアオイの後姿。その光が頭の中で、ちらちらと私をくすぐるように揺れる。


 その時。わたしを呼ぶ声がした。


「エミリアさん、いらっしゃいますか?」

「あっ、はい! カミーユさん」


 本棚の奥から顔を出せば、入り口で辺りを見渡すカミーユの姿が見えた。

 手を振ると、彼はこちらに向かって歩いてくる。その手には、籠を持っていた。そうして私の顔を見るなり、頬の傷と一緒に笑った。


「司教様がおっしゃる通りですね。あなたのことを探していたら、書庫にいるだろうと」


 その言葉にいくつか疑問符を浮かべながら、私は一つに絞って聞いてみる。


「カミーユさん、私を探して下さってたんですか? 何かありましたか?」

「何があったも何も、あなた、川に落ちてしまったじゃありませんか。具合を悪くしていたらいけないと思いまして。これを」


 カミーユは、手に持った籠を開けてこちらに見せる。カップとポット、それにガラスのボトルが見える。


「僕が風邪を引きそうな時に飲むものです。ホットミルクに、数滴トライトを入れるんです」

「トライト?」

「かつて、教会のお祭りがあった時だけ嗜まれていた零地区の蒸留酒です。今はお祭りがないので、薬として使われています。少し飲むだけでも、体が温まりますよ。これをお持ちしようとしたら、お部屋にいらっしゃらなかったので」

「なんだかすみません。お気遣いを……」

「いいえ。大したことではありませんよ。ここに一式置いておきますね」


 籠の中をのぞいて見る。ポットが一つ、ボトルも一つ。だけれど、カップは。


「エミリアさん、お仕事熱心なのはいいですが、無理は禁物ですからね。では、失礼します」


 会釈をしてそのまま立ち去ろうとするカミーユを、私は思わず呼び止めた。

 くるりと振り返ったカミーユは、目を丸くして口をすぼめている。大したことでもないだろうに、頬の傷まで一緒になって驚いた形に曲がっていた。


「あの、カミーユさん。せっかくですから、一緒に飲みませんか? 飲み終わるまで何かお話を聞かせてください。司教様のことでなくてもいいです、カミーユさんのことが聞きたくて」

「僕のことですか? 僕のことなんかお聞きになっても、つまらないと思いますよ。記録本にも関係ない気がしますが……」

「そんなことありません! だって、牧師様とホットミルクを飲みながらお話しするなんて、多分、もう二度とない事だと思いますから」


 私の言葉に、カミーユはまた驚いた顔をした。それから私の周りの空気を見渡して、ホットミルクと同じように笑った。


「そうですね。そのために僕は、ここに来たのかもしれません」


 籠の中には、カップが二つ入っていた。



 本棚と本棚の間。

 狭い空間に置かれたテーブルに、隣でもなく真正面でもない曖昧な位置でカミーユと向き合って、私はゆっくりホットミルクを飲んだ。トライトのおかげで、体は温かい。


 カミーユはしばらく、「僕のことと言っても……」と口元で言葉を練りながら悩んでいた。

 しかし、自分の手元にあるトライトの入っていないホットミルクを見て、こちらに声を向けた。


「僕は子どもの頃、自分の顔の傷があまり好きではなかったのです」

「そうなんですか?」

「はい。当然ですよね。他に、顔に傷がある牧師なんていませんから」

「ああー……。確かにそうですね」

「目立ちたくないのに、目立ってしまうのです。名前より先に『頬に傷のある子』と言われて、零地区のあまり馴染みのない住民にまで知られていて。なんと言うか、この体はとても、居心地が悪かったのです」

「魂の引っ越しをしようとは思わなかったんですか?」

「魂の引っ越しは、命を救うための最終手段ですから。そんなことでは使えません」


 カミーユは、少しだけ体を揺らした。そうして、ホットミルクを一口飲んで続ける。


「一度だけ、パルヴィーン元司教に『貴様はその傷だけが勿体ないな』と言われたことがあります。深い意味はよくわからないのですが、子ども心に悲しかったのを覚えています」

「……確かに悲しいですね」

「はい。……ですが、それを励ましてくれたのがテイラー牧師だったのです」

「テイラー牧師が?」

「はい」


 カミーユは、火の灯ったランプを一つ足したような笑みを浮かべた。


「僕が落ち込んでいるように見えたと言って、声をかけてくれました。『司教様がおっしゃっているのは、君には君の役割があるってことであって、君が劣っているという話じゃないよ』って。少し難しいお話でしたが、だいぶ勇気づけられました」

「傷が無かったら、別の役割があったんですか?」

「もしかしたら、そうなのかもしれません」

「そしたら、司教記録本支援担当じゃなかったかも」

「そうですね。実につまらなかったでしょう」


 まるで、傷があってよかったと言うような口ぶりだった。この笑顔をもたらしたのがテイラーなのだと思うと、私の心臓の奥がぎゅうと締め付けられる。

 それを知ってか知らずか、カミーユは続けた。


「それに、司教様も僕のことを知っていてくれたのです。僕と司教様は、司教様が牧師の教育を受けることになって初めてお会いしたのですが、僕の顔を見て『ああ、君か!』と喜んでくれました」

「あ……。カミーユさん、おっしゃってましたよね。司教様が、カミーユさんは傷に感謝しないとねって言ってくださったって」

「ええ。そうなのです。お二人のおかげで、僕はこの体の中にいるのが嫌ではなくなりました。人に覚えていてもらえるのも、知ってもらえるのも、この傷のおかげです。お二人に言っていただいて初めて、僕はそのことに気づけたんです」


 カミーユの誠実な笑顔を眺めながら、私はふと思った。


 顔を忘れられてしまう、特徴のないアオイ。

 顔を覚えられやすく、目立ってしまうカミーユ。


 その品行方正な唇から、言葉が落ちた。


「……今日あなたに言われたことを、何度も反芻していました。司教様が就任時、『人生最後の福音』と言った意味を」


 すると彼は立ち上がり、本棚に向き直った。死亡記録が残る棚だ。


「あなたはここで、何を調べていたのですか?」

「ええと……。ジョスリンさんのことを、少し」

「そうだったのですね」


 カミーユは穏やかに答えながら、本棚から一冊の本を取り出した。830年の死亡記録だ。


「では、まだこちらのことはあまりご存じないですか?」

「こちら?」


 その年号に見覚えはある。アオイの記録が残る、もう一つの年号。


 ──830年、紋なき騎士団による『偽物の歌事件』及び『本物の歌の暴走』発生。テイラー牧師のパルヴィーン司教(当時)への謀反を制止


 あの年号だ。


「エミリアさんは、この年の出来事をご存知ですよね。一般的にどう伝わっているのか、教えて頂けますか」


 まるで迷子のような顔をして、カミーユが言う。私は死亡記録を受け取ったまま、彼から目が離せなかった。


「一つ目は、『偽物の歌事件』です。……スピーカーの一つから、非公式な無線を経由した音声が流れました。讃美歌のようなメロディで、何者でもない歌声で、『刻まれた瞳の紋が、集いし我らの鐘を鳴らす』と歌って、街が大混乱しました。……当時、音楽長だった司教様は、この偽物の歌を作ったとして、三日間投獄されます」


 私には、目の前のカミーユがなぜそんな顔をしているのかが分からなかった。

 彼は今にも泣き出しそうな顔をして、それを必死に止めるように、拳を握っている。


 もし、友人が目の前でそんな顔をしていたら、こんな物騒な話なんてしないで、今すぐにでも肩を抱いてあげたい。

 けれど、私は続けた。


「その一か月後に、司教様は偽物の歌を元にした讃美歌を作り、正規のルートを経て讃美歌を作りました。それがスピーカーから流れたのをきっかけに起きた暴動が、『本物の歌の暴走』です。クアドラートのあちこちで破壊行為が勃発。零地区以外のすべての地区で、火器による放火や銃の乱射、爆発が起きて、たくさんの人が命を落として……。その混乱に乗じて、テイラー牧師がパルヴィーン司教の殺害を目論み、その後、教会によってテイラー牧師が処刑された。私が知る限りは、これが830年に起きた二つの出来事です」


 どこかで埃が落ちる音が聞こえそうなくらい、書庫は静まり返っていた。

 カミーユがゆっくり息を吸う音がして、彼は静かに口にした。


「テイラーさんは、処刑で亡くなったのではありません。自害したのです。アオイさんの銃で。僕たちの目の前で」


 カミーユには似合わない、物騒な言葉の羅列だった。ただその言葉が私の頭を貫いて、すべての音を消し去ってしまうような鋭い光が見えたような気がした。


「……どうして司教様は、銃を?」


 川に落ちた時。細身のアオイの体に張り付いたシャツは、銃を隠す余地など見せていなかった。記憶をたどっても、答えは出てこない。それは、カミーユも同じようだ。


「僕は何も存じ上げません。……ですが、テイラーさんの最期の姿だけは、よく覚えています」


 きっと、生前のテイラーをそう呼んでいたのだろう。呼び名を改めたカミーユは、わずかに瞳に涙を浮かべると、それを拭うように言った。


「テイラーさんは、パルヴィーン司教に銃を向けました。けれど、それを止めたのがアオイさんです。言い逃れの出来ない状況に、もはや誰もがテイラーさんの将来が閉ざされたことを悟りました。それまでのテイラーさんは、勉強も出来れば人当たりも良く、わかりやすい説法や面倒見の良さで、教会内外で完璧な牧師として高く評価をされていました。しかし、パルヴィーン司教への謀反が重罪であることは、火を見るより明らかです。何が理由かはわかりませんが、きっとそれは地下牢での取り調べで明らかになるだろうと、誰もが思っていました」


「……でも、テイラー牧師は自ら命を」


「はい。アオイさんに取り押さえられた時でした。今でも、あの悲しい光景は覚えています。テイラーさんを目の前にして、アオイさんはただ黙って銃を向けていましたが、そのうちにおっしゃいました。『瞳に紋がなくたって、私はアンタのことを嫌いになんてならなかったよ? どうしてアンタは、自分のことも周りのことも嫌いになっちゃったんだい?』って」


 その言葉に、私は背筋の強張りを覚えた。


?」


「ええ。最後に見たテイラーさんの瞳には、紋がなかったんです。……とにかく、その言葉がテイラーさんを決意させたようでした。……銃を握るアオイさんの手を引き寄せると、二言三言会話をしました。そうしてそのまま銃口を咥えて、……引き金を」


 そのあまりにも衝撃的な内容に、私は何と答えたらいいのかわからなかった。

 カミーユは、うつむいたまま小さく拳を握っていた。その瞳から真っ直ぐ涙が落ちて行き、テーブルに小さなしみを作る。


「……銃声は、三発聞こえました。一発目は恐らくテイラーさんがアオイさんの指越しに自分で撃った音。二発目はわかりません。でも、三発目を撃ったのはアオイさんです。その頃にはテイラーさんの手は、だらりと下がっていましたから」

「……それを教会は、処刑と発表したんですね」

「他に言いようがありません。……そうしなければ、誰の心も穏やかにはならなかったでしょう。あの時は、クアドラート全体にはびこる不安を解消することが、何よりも必要でした」


 アオイは言っていた。テイラーは、『たった一人の友達』だ。今アオイが求める友達の、際たる存在だったとも言える。

 いくら司教に謀反を働いたとは言え、そんな存在を自らの手で処分し看取ったことは、無機質な年表の記録だけでは書き表せない。


 沈痛な面持ちのまま顔を上げたカミーユは、目を拭って無理矢理のように笑った。

 そこには、賢く真面目で品のいい彼ではなく、ただのカミーユとしての顔があった。


「……だから僕は、司教様がこうして元気に役割を全うしていらっしゃることが嬉しいのです。きっとどこかで、テイラー牧師も司教様を見守っておられると思います。……牧師ではなく、友人の一人として」

「きっとそうですね。だから司教様も、私に友達になって欲しいと言ってくださったのかもしれません」

「もちろんです。司教様は、自分たちの役割や階級、紋によって苦しんだ一人の友人をご存じなのですから。何もかも取り去った状態での人とのつながりを、心の底から求めておいでなのですよ。……ただの寂しがり屋だと、ご本人はおっしゃいますが」

「自覚はされているんですね」

「はい。とても素直なかたなので」


 そこでカミーユは、私の手元にある死亡記録に触れた。


「公式なテイラー牧師の記録は、恐らく、ここにしか残っていません。830年の、3月です」


 言われた通り、ページをめくる。カミーユの言葉通り、そこには記録が残っていた。


『テイラー/鐘・教会・牧師/享年十八歳、死因/出血死』


 彼の壮絶なはずの死の記録は、実にあっさりとしたものだった。

 カミーユの証言よりも短い文字面があまりにも平坦で、私は思わず指先でその文字に触れた。何の温度も残っていない。


「僕が今日、あなたにお伝えしたかったのはこのことです。……お邪魔をして、申し訳ありませんでした」


 それだけ言って、カミーユは立ち上がった。ただ一度だけこちらを見て、「一時間後に、司教様宛にお客様がいらっしゃるので、良ければご同席下さい」と言うと、そのまま走り去ってしまう。


 一人になった私は、死亡記録を棚に戻すと出生名簿の棚に移動した。


 テイラーとアオイは同じ年に生まれた。二人とも、812年生まれのはずだ。カミーユが言っていた、『瞳に紋がない状態』が生まれつきであれば、それなりの注釈がついて記録が残っているだろう。それを確かめたくて、ページを開いた。


 カミーユだって、生まれた時に視力が悪かったと記載されていたぐらいだ。紋が無いなんて現象があれば、たった一行で記録が終わるわけがない。

 私は、それを頼りに名簿でテイラーを探した。


 しかし、結果としてテイラーに関する記載はどこにも残っていなかった。

 見間違いかと思い、何度もテイラーを探した。それでも、テイラーはどこにもいない。


 それどころか、アオイに関する記載も残っていなかった。


 二人に該当する名前が見つからなかったので、念のため前後数年分の名簿を開いて読み漁った。瞳の紋が擦り切れそうになるまで、文字を拾った。

 しかし、それでも二人は見つからない。アオイもテイラーも、記録なんてどこにもなかったのだ。


「……どうして」


 そうやって呟いても、誰もいない書庫からは答えは返ってこなかった。

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