2-5. 掴めない姿

 無邪気でいたずらっ子。楽しい事があればすぐに飛びつく。

 冷笑的で論理的。納得が出来なければ容赦なく切り捨てる。

 そのくせ情に厚く、人を見捨てない。人のことを諦めない。


 一体、どれがアオイの本性なのだろう。


 夕食を済ませ自室に戻ると、私は窓の外から夜空を眺めながらそんなことを考えていた。

 教会から見る空は、壱地区の自宅よりも星がよく見える。昨晩は大して眺めずに眠ってしまったから、今夜はよく目に焼き付けようと思ったのだが。


 結局、頭の中を渦巻くのは、アオイのことばかりだった。


『瞳に紋がない』


 これはかなり刺激的な表現だ。

 あの場で議員たちが怒り出さなかったのは、彼らのことをそう表現したわけではないからであって、場合によっては勘違いした誰かが怒鳴ってもおかしくはない。


 カミーユから聞いた言葉が脳裏をよぎる。


『瞳に紋がなくたって、私はアンタのことを嫌いになんてならなかったよ? どうしてアンタは、自分のことも周りのことも嫌いになっちゃったんだい?』


 アオイの悲しい問いに、テイラーは何を答えたのだろうか。

 その答えは、少しでもアオイの慰めになったのだろうか。



 『紋がない』

 その文字面から思い出すのは、子どもの頃の記憶だ。



 ──幼かった私は、おかしなことに気づいた。人の重心についてだ。


 ある日、壱地区の別のファミリアに赤ん坊を見に行くことになった。

 友人と連れ立って見に行った赤ん坊は、重たい頭をふらふらと支えながらつかまり立ちをしていた。私が初めて見た赤ん坊の姿だ。


 その帰り道で、今度は道を歩く老婆を見つけた。老婆は杖を突いて歩いており、何もない段差で急に転んでしまった。

 急いで友人たちと助けたが、彼女は結局病院に運ばれてしまった。


 この二人を見て、私は思った。


 人は、生まれた時は重心が上の方にあって、寿命が近づくにつれて足の方に下がって行く。


 それに気づいてから、色んな人を観察するようになった。


 アンソニーはだいたい胸のあたり、新聞配達の少年は首のあたり、裁判官をしている隣の家の人は膝のあたり。

 重心が胸や腹の辺りにある人は、多分人生において一番元気で生き生きとしているんだろう。


 この事実に気づいた私は、てっきり誰もがこれを知っているものだと勘違いしてしまった。

 だから、道を歩いている青年の足元に重心が落ちているのを見つけて、つい「気を付けてください」と声をかけてしまったのだ。

 見ず知らずの子どもに突然そんなことを言われて激高したのか、青年は私に向かって怒鳴った。


『この紋なしが!』


 なんて酷いんだ、そんな風に言わなくてもいいのにと、私は大泣きをして家に帰った。


 アンソニーに話せば、馬鹿だなあと笑われた。


『エミリア。みんな正方形の裏側に行くのは怖えんだよ。そんなこと、誰にも言ってくれるなよ? ああもちろん、俺にもな』


 だから私は、それ以降誰にも重心の話をしなかった。


 その一週間後、壱地区の教会で葬式が行われた。亡くなった青年は、随分若かったと聞く。──



 重心の話をするならば、カミーユの重心は喉から少し下の辺りにあると思う。まだ落ち着いている訳ではなく、ぐらぐら揺れるわけでもない。穏やかな人柄なのに若く見えるのは、そのせいだろう。


 メレディスはどうかと言えば、あまり話したことがないので難しいけれど、すとんと胸の辺りに収まっている気がする。自分の考えがまとまっていて、何に対して怒るのか、謝るのかが明確だ。


 それではアオイはどうか。これが、私を一番悩ませる。


 アオイには重心がない。重心が見えない。何もないように見える。これが正直なところだ。

 どっしりと構えているわけでもないし、頼りなくたなびいているわけでもない。確かにアオイは目の前に立っている。そこにあるのは、独自の価値観を握りしめた鮮やかなまでのアオイの姿だ。

 それなのに、重心がない。


 だから私は、アオイの本性がどれなのかを判断出来ないでいた。



 その時、濃紺の夜空に浮かぶ月に影が出来た。人の形の影だ。

 私は思わず、窓を開けて呼びかけた。


「司教様!」


 アオイはびくっと一度肩を上げて、こちらを向く。

 闇と月明りの影のせいで見えにくいが、空飛ぶバイクに乗った青年は確かにアオイだ。着ている物はよくわからない。


「司教様、どこかへお出かけですか? 私も連れて行ってください! 司教様のことを考えていたら、眠れそうになくて!」


 私の言葉に困ったのだろうか。バターが諦めて溶けるみたいにアオイの口元が歪んだ。


「随分情緒的なことを言ってくれるじゃあないか。でもね、今から行くところには君を連れていけないんだ。……ああ、でも君のポッケにいる小さなお友達なら、連れて行けるよ。何が録音されていても、わたしに質問しないっていう約束が出来るなら」

「え? どういうことですか?」

「記録本に残すのは構わない。でも、誰にも何も聞かないでほしい。聞かれたら答えないといけないからね。嫌かい?」

「あ……えっと、ちょっとわからないですが、でも、録音はしていいんですか?」

「ああ、もちろん」

「それじゃあ、お渡しします」


 私は、机の上にある録音機を拾い上げるとアオイの方に手を伸ばした。もちろん届かない。


 すると、アオイは小さく笑った。


「ねえ、目を閉じてくれるかい? 取りに行くから」


 恋人との秘密の逢瀬にも似た、毒々しいまでに甘い声。砂糖で出来た蜘蛛の巣が降りてくるみたいに、私は目を閉じた。

 それでも瞼の向こう側に月の明かりが焼き付いて、人影が近づいてくるのはわかる。


 私は薄目を開けようとした。けれど、視界は真っ暗になった。

 目の上に覆いかぶさるアオイの手は、わずかに鉄の香りがした。


「ごめんよ、困らせたね」


 少しして目を開けば、柔らかい闇の中に浮かぶ、空っぽの手のひらが見えた。


 闇の中でどれだけ目を凝らしても、アオイの姿はどこにも見当たらなかった。




 翌朝、ベッドサイドに録音機があった。昨晩の光景が夢だったかのような顔をして、それはぽつんと置かれていたのだ。


 あれは、私がアオイのことを考え過ぎた結果描いた妄想だったんだろう。そう思うことにしながらも、私は思わず録音機の画面に目をやった。再生ボタンを押さざるを得なかった。



 ──布の擦れる音。風の音。多分、録音機はアオイの胸ポケットに入っているのだろう。


『やあ。随分遅い時間のお誘いじゃあないか』


 アオイの声がするけれど、相手の声は聞こえない。相変わらず風の音がするから、アオイは空飛ぶバイクに乗ったまま、遠くにいる誰かに話しかけているのかもしれない。


 防風機能が付いた録音機を買ってよかった。今度機械屋に行ったら、礼を言っておこう。


 風の向こうから聞こえるアオイの声に耳を澄ませる。


『ところで、アイスの値段はわかったかい? ……ほら、やっぱりミントだろう? ……ん? ごめん、もう一度。……コーンが二十グラフィカ。……カップが三グラフィカ。了解』


 随分高いコーンだ。普通のアイスは、アイスキャンデーでもアイスクリームでも三グラフィカが相場。カフェで食べるならもう少し値が張るが、二十グラフィカだなんて。


 私がアイスに思いを馳せた時、急に破裂音がした。

 乾いた音は、一度だけ。

 しばらく、ただ風の音がしていた。その隙間から小さく、淡々としたアオイの声が漏れる。


『食いしん坊はいけないなあ』


 ここで音声は途切れる。──



 私は慌てて食堂へ向かい、アオイの姿を探した。しかし、彼の姿はどこにも見当たらない。

 カミーユに聞けば、既に朝食は済ませたらしい。


「ゆりかごの仕事で肆地区に行くまで、一眠りされるそうです。あなたも同行なさいますか?」

「あ……ぜひ!」

「では、あと一時間後に駐車場にお越しください。僕は準備があるので、失礼しますね」

「はい、ありがとうございます」


 カミーユが席を立ち、私は一人でパンを食べた。

 そこでようやく、自分がどれだけ慌てても意味がないことを思い知る。


 あの音声のことは、私は誰にも聞けない。アオイにもカミーユにも、何も聞けない。そういう約束をして、あの音源を入手したのだ。

 呆然としてパンを手元に置く。何事もないような朝を目の前にして、世界がどう見えるのかを忘れてしまった。


「おい、邪魔するぞ」

「わあっ!」


 止まった視線の中に、ぬうっと顔が現れた。思わずのけぞってしまい、体ごと後ろに倒れそうになる。

 強面の気配に、私は息を飲んだ。


「メ、メレディスさん! おはようございます!」

「ああ、おはよう」


 初日に怒鳴られて以来の彼に、私はどうしたらいいのかわからなかった。

 しかしメレディスは何を気にするでもなく、私の正面の席に座って大あくびをした。随分とだるそうだ。


「あの……。まだ、眠そうですね」

「あー、まあなあ」


 強面な掘りの深い顔に、更に不快そうな皺が滲む。それでもブロッコリーを食みながら、自分の頭を動かそうとメレディスが口にする。


「眠気覚ましになんか話せ」

「え?」

「昨日、客が来てただろ。どこぞの議会の連中。同席したか?」

「あ……。はい」


 そこで私は、昨日同席した会合の話題を大まかに話した。メレディスはあくびをかみ殺しながら、それなりに私の話に耳を傾けている。そうして最後に、鼻で笑った。


「あいつら、自分ところのスキャンダルをアオイに握られたのが、気に食わねえんだろ」

「スキャンダルって……ああ、他の地区の女性との件ですか?」

「それだ。新聞でもラジオでも流れなかったが、街中の住民が知ってるからな」

「まあー……。どこの娼婦小屋を使おうと、個人の自由ですからね」

「どうせ、『肆地区なんか』の娼婦に入れあげてたのが、あいつらにとっちゃ恥だったんだろ」


 退屈そうにあくびをして、メレディスの目尻に涙が浮かぶ。それからふと思い出したように、こちらに視線を送った。


「俺があの地区の教会で、絵を修復してた時に、政治家に愚痴をこぼされてな」

「と、おっしゃると?」

「アオイとの会合の後だったとかで、ぐったりして教会に入って来てな。『あの司教はパルヴィーンよりもきつい』とかなんとか言って、しばらくうだうだ文句垂れてたんだが」

「きっと、昨日のかたたちも同じことを言っていそうですね」

「だろうな。俺に愚痴ってきた奴は、最後の最後に『この街は全員、あの司教の人質みたいなもんだ。いつの間にか知られていて、手綱を握られているような気になる』って言ってたぞ」


 ぼんやりとジャガイモをフォークに差して、メレディスはわずかに口元を緩めた。彼にとっては、それが幾分滑稽な言葉に聞こえたのだろう。


「あのう、人質ってどういうことですか?」

「さあなあ。俺にゃあよくわからんが」


 ぶっきらぼうに言い放つと、メレディスは伸びをしながらあくびをして、顔を横に何度か振った。まだ眠気が取れないようだ。


「夜更かしですか?」

「好きでしたんじゃねえよ。これ、お前んところの新聞だろ」


 メレディスが手渡してくれたのは、見覚えのある新聞。私の新聞社のものだ。


『深夜の窃盗常習犯、教会の指揮のもと逮捕へ』


 文字を見た途端、急に音が聞こえた。布の擦れる音。風の音。こめかみが痛くなる。心臓が鳴って、頭が割れそうになる。


「……メレディスさん、これに何か関係が?」

「あー。そいつがなあ、昨日の夜に肆地区でやらかして、そのまま弐地区に逃げやがったんだ。あそこ、木が多いだろ? 隠れやすいと思ったんだろうな」

「あ……っていうことは、地区をまたぐから教会に指揮権が?」

「ああ、そうだ。それで俺が行った」

「え? メレディスさんがですか?」

「当番だったんだよ、仕方ねえだろ。あーあ、もう若くねえんだから勘弁してくれよ」


 そこまで言うと、メレディスはまた大あくびをした。


 記事によると、犯人が逮捕されたのは、11月1日から今日にかけての未明。朝五時台には起きて活動を始める教会の面々にとっては、なかなか辛い時間帯だっただろう。

 もしかしたら、犯人はそれを見越していたのかもしれないが。


「……あのう、メレディスさん。犯人はどうなったんですか?」

「逮捕だ。当然だろうが」

「ええと、その……。生きてる状態で?」

「生け捕りは捕り物の基本だ」


 メレディスはあっさり返事をすると、そのまま黙々とスープを飲み続けていた。

 新聞記事は言っている。


『弐地区に逃げ込んだ犯人は、治安維持部隊により身柄を拘束された。麻酔銃による制圧を受けたため一時的な意識不明状態であったものの、身柄は11月2日付で警察管轄の留置所に移されている』


 それ以上のことは、今の私には書き残す術がない。


 新聞記事から意識を引き戻して、私は、手探りなまま頼んでみることにした。


「あの、もしよければ、司教様の子どもの頃のお話とか、ジョスリンさんのお話を伺いたいのですが……」


 メレディスは答えない。ただ一度ちらりとこちらを見て、パンを口に運ぶ。


「司教様もおっしゃってたんです。子どもの頃のことはメレディスさんがご存じだって。だから、ぜひお願いしたいのですが」

「だったら、取り決めでもなんでも出して来て、無理矢理聞けばいいだろうが」

「でも、それじゃ嫌なんです。そんなことして聞いた話は」

「俺はお前に恨みがあるわけでもねえし、お前が気にくわないわけでもない。ただ、あいつが司教だからって、根掘り葉掘り聞かれるのが癪なだけだ」

「じゃあ、せめてジョスリンさんの日記か何かを見せていただくことは出来ませんか」

「は?」


 そこでメレディスは、手にしたパンを皿に置いた。


「……お前、その話はどこで聞いた?」

「誰からも聞いてません。ただ、司教様がジョスリンさんのことを、口数が少なくて、あれこれ一人で抱え込む人だっておっしゃっていたので、もしかしたらと思って」


 立ち上がろうとするメレディスに、私は続けた。


「それに、『司教襲撃未遂事件』を名づけたのが誰か、あなたに聞きたかったんです! 誰も『紋なき騎士団』の動機を知らなかったはずの時期に、どうしてその名前が付いたのか、ずっと不思議で」


 すると、メレディスはぴたりと動きを止めた。大きな体が強張ったかと思えば、まるで諦めたかのように口を開いた。


「……お前、アオイみたいなこと言うんだな」

「え?」

「この後すぐ回廊に来られるなら、多少話してやってもいい」

「本当ですか?」

「他から聞いて書かれるのも癪だ」


 メレディスが立ち去るのをぼんやり眺めてから、私は急いで目の前のスープを飲み、パンを口にくわえて彼の後を追いかけた。

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