第22話 裏切り
凛花が不意に、日向に顔を向けました。
やっぱりコーナーは任せると言うのかと、日向は笑顔で指示を待つのですが、
「————ぇ?」
その表情は、日向に指示を出すような真面目な顔でも、ミスを謝るような恥ずかしさ混じりの表情でも、日向が凛花に向けた勝利を確信する温かな笑顔でもない、
純粋で、深く深く、光を失った暗闇のような、寒気すら感じる……冷たさしかない、まるで要らなくなった玩具を捨てる時のような……悪意すらも感じ取れないほどに冷めた、そんな表情でした。
日向は、体から何かが急に抜けるような感覚に襲われました。
父とは違う種類、でも、それでも覚えのある絶望感に日向は、直ぐにその正体に気がつきました。
(なにこれ………?怖…い……?)
恐怖心に怯える日向を見ても、何も言わずに再び前を向く凛花。
その時、凛花の唇は微かに動き、とても小さな声でしたが、日向はそれを聞き漏らしませんでした。
声音は低く、冷たく、そして淡々と、
「——バイバイ」
「————‼︎」
日向はペダルを思い切り踏みました。
全力で、ベルが鳴るホームで、電車に慌てて乗る時のように、冷や汗をかきながら駆け出しました。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイっ!置いていかれる———‼︎)
日向は何故、自分がそう思ったのか分かりませんでした。バイバイと言われたから?あんな表情で見つめられたから?
答えは否です。それは一要因に過ぎません。
まさか、人生で初めてこの技を使うのが、こんな時だったなんて。
日向は自分の頭の中に、一つの言葉を思い浮かべていました。
彼氏が浮気したか否かを判別する時に使う、女性特権の究極奥義。
そうです。
———女の勘。ってやつです。
そしてその勘は、見事に的中。
コーナーを抜け、ストレートに入った瞬間、凛花は右にスライドするように、ダンシング……つまりは立ち漕ぎをしながら加速。
ギアを変えず、重いままで走ろうとして失敗した日向を一瞬で置き去りにして、遥か彼方へと去っていったのでした。
距離にしたら差は100mないでしょう。しかし、先程まで目の前にいた人が、自分を置き去りにしたらその差は距離以上に長く感じます。
それはきっと、道の距離ではなく、心の距離というものでしょう。
ここから追いつくには、凛花以上の爆発的な加速が必要。圧倒的に不利で、追いつこうとも無謀な状況。
しかし、日向は諦めません。
「どうして……どうして……?」
そう、うわ言のように呟き、コーナーを抜けると慣れてきた重いギアで加速していきます。
「どうして?どうして?どうして⁉」
その問いを、まるで本人に投げかけるために追いつこうとしているようです。
しかし、その言葉は届きません。もっと近くにいかないと、絶対に。
けれど面白いことに、日向と同じ疑問を持つ人は、凛花の直ぐ近くで仁王立ちをしていて、駆ける凛花を石にしてしまうくらいのガン見で見ていました。
そんなゴルゴン……玄二が、
「佐久くん、話と違うではないのか?何故、あの娘は日向を置いていったんだ?」
落ち着いているようで、結構震えた声で、隣の佐久に尋ねました。
「い、いや……これは……」
先程まで、佐久は結構饒舌で、玄二に作戦説明をしていましたが、急に口数が減り、言葉に詰まります。
予定外で予想外で、奇想天外。
どうしてこうなった、と佐久は思わず頭を抱えたくなりました。
まさかここで分裂するなんて、誰が予想していたか。置いていかれ、表情を曇らせている日向を見て、佐久は遣る瀬無い気持ちになるばかりでした。
そんな佐久の元に、
「あらあら、やっぱりですか」
予想通りと言わんばかりのセリフを口にした幸と、風華がやってきました。
「いやぁ、完璧に出し抜かれたわねぇ日向ちゃん。まさかこうなるなんて」
ため息を吐いて、やれやれと首を振る風華。
「な、なんでそんな呑気なこと言ってんだよ姉ちゃん!二人の作戦はさっき話しただろ?これは予想外中の予想外!作戦に無い作戦なんだよ!」
そう、声を荒げる佐久の言う通りです。
これは作戦に無い作戦。つまり、凛花が密かに練っていた〝作戦五〟だったのです。
佐久や風華には、凛花がやったことが完璧に分かっていました。きっと、レース中に思いついたのではなく、前々から作っていた作戦だったということも。
キーポイントは、日向にコーナーを譲らなかったこと。
圧倒的コーナリングテクニックを有する日向でも、平地は人並み。ならば差をつけるのはコーナーを抜けたあとの直線500m。
スプリントをするだけでも十分かもしれませんが、凛花は、更に差をつけるため、コーナーでブレーキを大きくかけ、スピードを無くしてからの〈ゼロスタートスプリント〉をするという、スプリンターでなければ絶対に一秒で置いていかれる策を使ったのです。
そしてこの作戦は見事に成功。
日向をぶっちぎって、凛花は先頭から更に先行することが出来たのでした。
でもこれは初心者に対して使うにはあまりに酷い手、だから佐久はこんなにも動揺し、声を荒げるのです。
しかし風華は、
「何言ってんのよ。それがロードレースでしょ?騙し騙され、出し抜き出し抜かれ、差して差される。凛花ちゃんはそれが分かっていた、それだけよ。ま、とはいえ、アタシも予想は出来てなかったワケだけどね、今回の凛花ちゃんの行動は。……まさかここまでやるなんて」
予想外なことが起きても取り乱さずにドライ。
まさに年季が違う、といった感じです。
佐久も年季はあるのですが、少々感情的なので、いつも意見が割れるのです。
でも、ここでの優勢な意見はどうやら風華だったらしく、その言葉に納得した玄二は、
「確かに、スポーツとは美しく熱いだけでなく、時に非情なもの」
日向を見据えてそう言います。
中々にこちらもドライな意見。ですが、
「だが……」
玄二のセリフはまだ終わっていませんでした。
「スポーツはどの選手にもチャンスがどこかしらにある。それはきっと、日向にも同じ。日向がそれを見つけられれば、まだ逆転は十分にあり得る」
ドッシリとした大木のようは心持ち、その言葉に、妻である幸を始め、一同微笑みながら、
ああ、やっぱり日向のこと大好きだなぁ、といったことを考えるのでした。
そして風華はその微笑みに続けて、
「だったら大丈夫ですよ。日向ちゃんにはチャンスが既にあります。日向ちゃんがそれに気づけば、逆転できる……ビッグチャンスが!」
唇を歪める風華に、皆一様に首を傾げます。
いや、佐久、アンタは分かってなきゃダメでしょ。と思いながらも、風華は自分の布石が日向の進化に繋がり、佐久を含めた全員があっと驚く展開になることを、密かに祈るのでした。
———と、まあ事情を知るギャラリーはこんな風に、日向サイドで応援をしてしまうのですが、先程風華が言った通り、別に凛花だって悪者ではありません。作戦通りに行動しているだけです。
それに、彼女にだって彼女の目標があり、夢があり、信念があります。
そして一番大きな、負けられない理由、
———オリジンがあるのです。
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