第23話 才原凛花のオリジン1
才原凛花が生まれる五年前、才原家は新しい命を授かり、そして誕生しました。
凛花の兄で、風華の彼氏となる人物、
志信が誕生すると、父親は直ぐにあることを提案しました。いや、誕生してからというよりは、子を持ったらしたかったことなのですが。
それは、志信を立派な自転車選手にすること。
何故こんなことを望むか?それは至極単純なことでした。
志信と凛花の父親、才原
プロ野球選手の父が子に野球を教えるのと同じで、麟太郎は志信にスポーツ用自転車を、まだ乗れないにも関わらず買い与え、志信が自転車をできる環境を作っていきました。
遠征が多く、家に帰ってこれる時は僅かでも、麟太郎は志信に自転車を教え、いつかロードレースで戦うための基礎と技術を、それとなく我が子に受け継がせるための受け皿を作っていました。
教育が良かったのか、三歳の頃には既に補助輪要らず、五歳ではちょっとしたサイクリングなら余裕でこなせるようになった志信。
ちょうどその頃は凛花も既に母のお腹で丸まっており、息子の才も感じられていた麟太郎は、まさに絶好調。どのような困難が待ち受けていようとも、自分の人生に間違いなどない、そう、当然のように思っていました。
しかし——
凛花が産声を上げた時、麟太郎は分娩室にも、その病院にもいませんでした。病院にはいたのですが、それは凛花が産まれたのとは全く別の場所。更に、彼には意識がなく、全身ボロボロの状態で、ベッドに横たわりながら、何本もの細い管状の物が身体に取り付けられていました。
最高潮だった麟太郎の人生、その人生における一大イベントと言っても良い娘の出産に立ち会えなかった理由、それは、仕事での事故——落車でした。
凛花の出産前の最後のレースであり、ここでの優勝を出産祝いにしようと意気込んで臨んだ麟太郎でしたが、待っていたのはダウンヒルでの派手な事故。
幸い、命に別状はなく、選手生命を絶たれるような後遺症が残ったわけではありませんでした。
しかし、麟太郎が凛花を初めて見ることができたのは凛花が産まれた一ヶ月後のことでした。
誕生の瞬間に立ち会えなかった申し訳なさ、勝つと意気込みながらも勝利を手にできなかった不甲斐なさに麟太郎はチームを脱退。つまりプロを引退し、せめてこれからは子供達のため危険を犯さず共にいようと考えました。
しかし今まで自転車一筋だった人生、最終的には自転車選手の育成という立場に身を置き、危険ではないものの自転車界で再び尽力することとなりました。選手としての意志は、息子に託して。
それからの麟太郎の人生は悪いものではありませんでした。
志信は以前にも増して才を発揮し、幼いながらも、将来を期待されるようになり、凛花は元気に愛らしくすくすくと育っていきました。
と、そんなある日。
凛花、7歳の頃。
休日、特に予定もなく家でゴロゴロと安息を楽しむ麟太郎の元に、凛花がやってきて、こう言いました。
「ねえパパ!私も自転車が欲しいわ!」
「ん〜?凛花には可愛い自転車がもうあるだろう?」
「そうだけど……あーゆー子供用のカゴ付き自転車じゃなくて、お兄ちゃんが持ってるみたいなカッコいいロードバイクが欲しいの!」
この言葉に、麟太郎は内心激しく動揺しました。自然と出る汗を肌で感じながら、
「い、いや、ロードバイクはいらないんじゃないのか?危険だし、それにお前のサイズに合うものは中々ないぞ……?」
苦笑いで、言い訳をするように言います。
しかし、凛花は折れたりしません。
「やーだー!やーだー!私もロードバイク欲しいー!レースに出ーたーいー!欲しいー!欲しいー!」
駄々をこね、麟太郎を揺する凛花。
「いや、だが……」
麟太郎の脳裏に浮かぶ嫌なシーン。
ハイスピードの世界なのに自然とゆっくり感じる時。自分が選手として自転車界を去ることとなったあの時を思い出し、麟太郎は暗い表情になります。
でも、凛花はそんな麟太郎の表情には気づきません。
何度でも麟太郎を揺すり、欲しいを繰り返します。
その言葉と、揺れる身体が、フラッシュバックの原因となったのか、麟太郎は、過去の自分を俯瞰していました。
腹からおびただしい量の血を流し、横たわる選手。その横には割れたカーボンのロードバイク。
鮮明な記憶の写真に、麟太郎は己の顔を見ますが、
「———っ!」
その顔は自分ではありませんでした。
予感、予見、予知。ある種そういったものだったかもしれません。
麟太郎は見ました。記憶の淵、決して俯瞰できるはずのない倒れ込んでいた選手の顔を。
血を出して倒れる、無残な、———娘の姿を。
「欲しいー!欲しいー!欲し———」
「———ダメだ‼︎」
麟太郎が怒鳴りました。
人生で初めて、凛花に対して怒鳴りました。
そして凛花も、当然ながら初めて麟太郎に怒鳴られました。
それは、もう、反射的なものでした。
ここで止めなければ、凛花を守れないと思う、使命感のような叫びでした。
この日、凛花は初めて父に泣かされました。
泣きながら、
「うぇぇぇえええん…っ!買ってよー‼︎……ひぐっ……買ってよぉー!」
全く懲りずにねだりは続きました。
凛花が泣き落としを覚えたようです。
しかし、凛花が覚えた技は通用せず、麟太郎は怒鳴ったことを謝りはするものの、ロードバイクを買ってやろうと思うことは、微塵もありませんでした。
そして時は流れ、凛花、高校に入学。
両親、そして大学生になった兄にも祝われ、まさに順風満帆、高校生ライフが楽しみというその日に——
「パパ!入学祝いにロードバイク買って!」
「ダメ」
はい、懲りてないです。
一撃で撃沈。
しかし、ここで折れないのが凛花です。機は熟したと、自分の意見をぶつけます。
「私はパパ達のお陰でこんなにも立派に元気に育った。それは感謝してる」
「うん」
「けどね、いつまでもパパ達におんぶ抱っこじゃいけないと思うの」
「うん」
「私も自分で成長して進化したいの!」
「おお〜」
「だから自転車買って♡」
「いや待てそれはおかしい」
プレゼンだとしたら、挨拶をして、最後の言葉を言って、全く内容を言わずに我が商品を買えと言ってるようなもの。
そんなもの誰が買うか。
麟太郎は娘のアホさに高校でやっていけるのか少々心配になります。
「なんでよ!私だってもう立派な大人のレディと呼べる歳!趣味の一つや二つ、自分で決めたものをやって、青春したいのよ!」
「大人のレディ……後ろに(笑)つけるくらいチンチクリンであるのを自覚した方がいいと俺は思うが、まあとりあえずそれでも可愛い我が子だから教えといてやろう」
「むっ」
バカにされたことにムスッとする凛花ですが、その表情は麟太郎の行動で直ぐに変わります。
おもむろにシャツをたくし上げて、素肌を露わにする麟太郎。女性がやればセクシーかもしれませんが、麟太郎は結構厳つい身体で筋肉質。
セクシーとはいきません。更に、麟太郎はこれを見せたかったんだろうと一目見ただけで理解する絶対的な過去の負傷。
その右腹に残る大きな傷跡には痛々しさを感じざるを得ません。それは凛花も同じだったようで、
「うわぁ、エグい……」
「見せるのは初めてだったからな。お前がロードバイク欲しいって言わない限り一生見せないつもりだったが……まあ言われたら切り札に出そうとしてた俺の最高カードだ。ほれ、もっと見ろ見ろ」
そう言い、凛花に近づく麟太郎ですが、近づけば近づくほど、凛花は嫌そうな顔をして身体を仰け反られていきます。
自分がやったことではあるものの、少々傷ついた麟太郎は、シャツから手を離し、再び傷跡を布地で隠します。
「俺が最後のレースで負った傷だ。下りで転けてガードレールに当たった挙句に投げ飛ばされて岩に当たった末路。顔面だったら死んでたかもしれない…ううう……」
思い出し、想像して身震いする麟太郎。そしてそれにつられ想像して後悔する凛花。
夢に出てきそうで怖いショッキングな映像だなぁ、と苦々しい表情をします。
「だから、そんな恐ろしい体験を娘にさせるわけにはいかないだろ?俺は嫌だ。例えかすり傷でも、娘につくのは。ましてや、俺と同じ末路を辿らせるなんて、絶対にごめんだ」
麟太郎が真面目な表情で凛花の目を真っ直ぐに見据えます。
そんな父の珍しい真面目顔に、凛花は視線を逸らし、
「ずるい……そんなこと言われたら、そんなもの見せられたら、これ以上我儘言えないじゃない……」
「ずるくて結構。俺はそんくらいガチでお前には危険な道に進んでほしくないんだよ」
麟太郎は言うことを全て言い終え、決着はついた、と凛花に背を向け、自室に帰って行きます。
しかし、凛花はここであることを唐突に思い出します。
「けど、お兄ちゃんはロードバイク乗ってロードレース思い切り出てるじゃない。落車もするし、我が子なら平等に扱って、お兄ちゃんからもロードバイク取り上げるべきじゃない?」
その言葉にビクッと反応し、立ち止まる麟太郎。
「い、いや……あいつは、ほら、幼少期から自転車バカだから、今取り上げると人生を上手く歩んでいけないというか……」
「……才能あるから指導者として手放したくないんでしょ」
「⁉な、何言ってんだ!ち、違うっての!男は傷負っても、力と金で何とかなるが、女の子は傷負っちゃダメだろうって話よ!そ、そういうことだから、じゃなっ‼︎」
麟太郎は捨てゼリフを残す小悪党のように凛花の方を向いて指を指すと、せかせか走って部屋の向こうに消えてしまいました。
「ちょっ!男女差別——!あと、指差しちゃいけません‼︎」
凛花の声は届かなかったのか、それとも聞こえないフリをしているのか、何も言い返さない父の部屋の扉を睨み、凛花はため息を吐くのでした。
「言いくるめられるところだった……そうよ!お兄ちゃんがやっていて妹がやっちゃいけない理由なんてないのよ!」
と、プンスカふる凛花の元へ、どこにいたのか噂の人物がやってきました。
「結局ダメだったみたいだね、凛花」
「あ!噂のお兄ちゃん!」
「……それだと、なんか僕がやらかして噂されてる、凛花とは赤の他人のお兄さんみたいじゃないか」
「はいはい、冷静な分析御託ツッコミはいいから」
「辛辣……」
落ち込む志信ですが、凛花はそんな志信を可哀想などとは微塵も思いません。
だって、ロードレースに出て活躍をしている、自分とは相反する人生を歩んでいる、若干憎っくき敵なのですから。
そんな完璧に八つ当たり感覚に敵と定めた兄に、凛花は更に攻撃、不満を放ちます。
「てか、最近お兄ちゃん機嫌よすぎじゃない?ちょっと前は自転車嫌だな〜みたいなオーラだしててムカついてたのに、機嫌いいとそれはそれでムカつくのよね」
「えっ⁉」
「なんかあったわけ?合宿から帰ってきたあたりから変だけど」
「へ、変て……い、いやまあ……その、なんというか、変化というか、なんというか……」
煮え切らず、ハッキリとした答えを出さない志信に、凛花は少々イライラしてきます。
加えて、なんだか嫌々ではなく、ニヤニヤしているのです。これ以上凛花を刺激してどうしたいのか。
そして、遂に、我慢できなくなった凛花は、
「もうっ!ハッキリ答えて‼︎何があったの⁈それともなんもなかったの⁉」
「え⁉あ、は、はい!」
かなり攻撃的で鋭い凛花の言葉に、志信は思わず背筋を伸ばします。まるで、居眠りしていたらいきなり先生に指された生徒のようです。
「えっと、実は合宿中に僕……」
志信が照れながら、でも嬉しそうに口元を緩ませて、
「彼女が……できたんだ」
カミングアウトしました。
それに対して、
「は?」
秒で出る何言ってるか分からない疑問の一文字。
凛花は咄嗟に出た言葉を気にすることなく、思考します。兄の言った言葉を、自分の中で整理します。
重要な言葉は二つ。
合宿中と彼女ができた、ということ。
いや、合宿中はどーでもいいやと凛花は切り捨て、そして思考が纏まった結果、
「ええっ⁉お兄ちゃん彼女できたの⁉あの昼行灯で唐変木なお兄ちゃんがっ⁉い、一体どんな人っ⁉」
「うぅぅ……またも辛辣……。別にいいじゃないか、こんなのと付き合ってくれる女性が一人くらいいたって。……自転車部のマネージャーだよ、合宿中に告白して、OKもらったんだ」
「え、なにその青春ラブコメ的なの。お兄ちゃんらしくない。てか、いやマジで一人くらいなものよ?きっと。人生で一人いたらいい方それもラブコメ展開で…………ちょっとお兄ちゃん!」
凛花が志信にずいっと近づき、下から顔を覗き込みます。これに思わず引く志信。
ですが引いたら引いたで人差し指でさされて結局は逃げられず、
「な、なに……?」
「その人と会わせて」
「う、うん?ま、まあ今度なら——」
「い!ま!す!ぐ!」
凛花が人差し指を志信の顎に押し付け、グリグリと回します。
あまりの迫力と、成長して母親同様の貫禄を持つ凛花に、根が小心者の志信は逆らえず。
「は、はい……」
半ば強制的に仲介人とされてしまうのでした。
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